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フェアユースと著作権、その論点

日本の著作権法は、非常に困った法律だ。大切な「フェアユース」が規定がない。これはネット社会において、著しい問題を孕んでいる。ひるがえって米国の裁判所は、その判決文で「(著作権法における)究極かつ最大の受益者は公衆である」と断言している。著作権法の最大の利益者は、何と、著作者ではないのだ。

冒頭画像は、アメリカのフェアユースを、図で示したものである。「What is Fair Use Copyright?」からの引用

日本には、その「公衆」側に立つロビイストがいない。権利者側が集まる「著作権ムラ」で法律審議が続けられている。これに対してアメリカでは、フェアユースを明文化している。その恩恵を受けた最大の成功者が、検索エンジンのグーグルだった。なぜなら法律が、著作物の保護と利用のバランスを図る役割として、権利制限を一般(米国著作権法第107条;「フェアユース」)規定にしてあるからだ。批評、解説、報道、教授、研究、調査等を目的とする限り、次の4つの要素を満たせば、著作者の許諾なしに著作物を利用することができる。

(1)利用の目的および性質
(2)著作権のある著作物の性質
(3)著作権のある著作物全体との関連における利用された部分の量および実質性
(4)著作権のある著作物の潜在的市場または価値に対する利用の影響

グーグルを救った「フェアユース」 日本の著作権法にも導入すべきか|弁護士ドットコム
著作権の注目は「動画共有」と「フェアユース」(2008年)|ASCII

日本では権利制限を一般規定ではなく、引用などの例外規定としてルール化している。

(引用)
第三十二条 公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない。

著作権法


グーグルの検索サービスは、ウェブページをキャッシュ(一時複製)している。これによって、データベースが作成され、ユーザーは瞬時に検索結果を見ることができる。この行為が「フェアユース」として、米国の裁判所で認められた。つまり、逐一すべてのホームページに事前承諾を受ける必要なく、サーバーに複製できたおかげだ。

ところが、日本の政治家たちはフェアユースの導入をためらい、また裁判所は、現行法の明文規定(引用)にこだわった。こんなことだと、日本の検索エンジンはグーグルのようなわけにはいかない。結局、日本ではネット事業者が大きく成長する機会を失った、とも言われる。フェアユースのない日本は、何が問題なのだろう。著作権法の第一条にある、法の目的を見てみよう。この条文だけなら、まさにフェアユース的な目的を掲げている。

(目的)
第一条 この法律は、著作物並びに実演、レコード、放送及び有線放送に関し著作者の権利及びこれに隣接する権利を定め、これらの文化的所産の公正な利用に留意しつつ、著作者等の権利の保護を図り、もつて文化の発展に寄与することを目的とする。

著作権法

権利の保護は手段であり、文化の発展こそが目的になっている。「文化的所産」が豊かになれば、私たちはそれらをより楽しむことができる。音楽やマンガ、ゲームに映画、芸術に加え、様々な物語など、すべてクリエイターたちのおかげで、私たちの精神生活は充実してくるのだ。したがって、それら創作物の「公正な利用」をどのようにルール化するか。それが法の役割となる。

知的財産(特許・実用新案・意匠・商標など)は、著作権と同じく、その権利と利用のバランスを図ることにこそ重点が置かれている。過度に保護し、利用が進まないのでは、法の狙いに合致しない。ただし、著作権法が問題なのは、権利を定めるための厳格な手続きが存在していないこと。ゆえに、何もかもが権利となり、ただの落書きと、巨額の資金を投じて完成した映画作品が、法律のもとでは同等に扱われてしまう。


著作権法の課題を、フェアユースの観点で挙げてみよう。僕個人の意見だ。
1)著作物を(将来も含めた)「有償」物に限定する。
2)「悪意」をもって複製した行為を侵害とする。
3)権利者の「利益」を明らかに阻害した場合にその責任を問う。
4)権利者と利用者とが混同(誤解)されていない。
これら四点への配慮がなされていれば、「公正な利用」とすべきである。逆に言えば、現行法では、何でもかんでもが著作物とみなされ、その利用が大いに萎縮されてしまっているのだ。悪意をもって、権利者の(潜在的)利益が失われない限り、原則、自由として判断すべきだろう。逆に経済的な利益を保証を望む場合、権利者に然るべきステップを踏ませる。


たとえば、「あなたも知らずに」違法行為をしていないか。そう問われたらびっくりするだろう。悪気もなく、他人が創作したものをちょっと利用してしまっている行為を指す。今の著作権法は、利用者を無意味に脅すような法体系になってしまっている。

ネタバレサイト「漫画ル」が摘発された。同サイトは「漫画の感想・ネタバレ・考察・批評・レビュー・予想して展開を楽しむ」と書かれていた。これ自体は、許されそうなものだが、実際にはその内容の多くが、他人の著作物の丸写し。レビュー者の感想を書いた部分はわずかだったという。これを(著作権法の定める)「引用」とするには無理があった。

この摘発を見て、過度に(著作権法の脅威を)煽るのは問題だ。同上記事にも触れられている通り、
1)ネタバレ行為そのものは著作権法違反ではない。また、
2)無断転載された一部が、批評や感想の対象になっているか。
3)熱心なファンの利用なのか、金銭目的の利用なのか。
4)問題投稿がなされたとき、その削除や対応が迅速にされているか。
それでもって、作品の「公平な利用」か否かを判断してもらいたい。残念ながら、日本の著作権法は、引用の細かい作法で延々と議論している。しかも、その引用の要件は、条文ではなく、最高裁が判決で示したものだ。引用の形式論に縛られるのは、そろそろ見直すべきだろう。

(引用の基本ルールとして)
「引用する側と引用される側を明確に区別すること」(明瞭区別性)と「引用する側が主で、引用される側が従の関係であること」(主従関係、附従性)を条件として挙げている記事や解説を見たことがある方も多いのではと思います。これらの要件は、法律で規定されているものではなく、最高裁判所の判決(「モンタージュ写真事件」最高裁S55.3.28第三小法廷判決)により示された引用の要件です。

近年の裁判例から考える、適法な引用の範囲|著作権のネタ帳


話を、「フェアユース」に戻そう。参考図書で危惧されているのは、ネット時代における日本の競争力について、だ。日本発の検索エンジンが成長しなかったのは、著作権法のせいだと断じている。お隣の韓国も、フェアユース規定は(2011年まで)なかったが、韓国の最高裁は「オプトアウト方式」を認め、検索エンジンがホームページを複製するのは、引用にあたると認めた。つまり、権利者の事前許諾は不要としたのだ。これにより、韓国では、自前の検索エンジン・ネイバーが躍進する。

日本の著作権法の暗黒史と言えば、ウイニー事件が挙げられる。開発者の金子勇氏は、P2P(Peer to Peer)型のファイル共有ソフトとして「Winny」を開発。天才プログラマーと賞賛された。しかし、「著作権違反ほう助」の疑いで突然逮捕される。ファイルをアップロードした者ではなく、プログラムを開発した者が逮捕されるという、何とも頓珍漢な出来事だった。そして、7年半の裁判を争い、逆転無罪を勝ち取る。たとえるなら、包丁で人を刺した者が逮捕されたのではなく、その包丁を作った者が逮捕されたのだ。その後、金子氏は若くして他界してしまう。日本の法律、そして検察は、結果的に、才のある人材の生涯を台無しにしてしまった。

『Winny 天才プログラマー金子勇との7年半』|インプレスR&D

欧米版ウィニーの「カザー」を開発した技術者は、のちにスカイプを開発。利用者同士が無料で国際通話できる仕組みだったため、急成長を遂げた。また、P2P技術のナップスターを開発した技術者はアメリカン・ドリームを実現した。金子氏が逮捕されずにそのまま活躍できていれば、どのような成功を収めたのか、返す返すも残念でならない。

さて、日本の本来強みである「アニメ、同人誌、コミケ(コミックマーケット)」。これらは、二次創作がやりやすい。しかし、著作権者の許諾が逐一必要になると、新しいコンテンツを創み出しにくくなる。また、著作権侵害を(アメリカの主張に踊らされた)「非親告罪」にする意見が通ってしまうと、警察の勝手な捜査で逮捕さかねない。

ヨーロッパでは次々とパロディの合法化が進んでいる。パロディとは、既成の作品を巧みに用い、ユーモアをもって、あるいは風刺的に作られた二次創作物のことだ。その性質ゆえに、原作品の存在感あってこその、「二次」である。アメリカ最高裁の判決では、「パロディが特定の作品を狙った場合、原作品を彷彿させるものでなければならない」「原作品との緊張は避けられない」と指摘している。実は、日本の最高裁は真逆のコメントを出している。「他人の著作物(における表現形式の本質的な特徴)をそれ自体として直接感得させないよう(な態様においてこれを利用する場合に限られる)」としたのだ。つまり、パロディは許さないという主旨である。


チーズ本対バター本事件(チーズはどこへ消えた?事件)|山口特許事務所

パロディとして興味深い判決は、『バターはどこへ溶けた?』の出版だろう。タイトルや書籍の表紙から考えると、明らかに『チーズはどこへ消えた?』のパロディである。残念なのは、日本の判決があくまで著作権侵害の形式論にこだわったこと。パロディなのだから、物語の設定を似せるのはある意味、当然だ。しかし、日本では「パロディという表現形式・・・自ずから限界があり」と表現した。パロディは許されない、と。僕が考えるに、むしろフェアユース的な判断として、原著が損害を被ったのか、逆に(パロディによって)売上を伸ばしたのか、その損得で、結論に導いてほしかった。


少し、大きな視点にも触れておこう。「表現の自由」が、憲法で認められている、極めて重要な権利である。フェアユースの規定があれば、これを強力にバックアップできる。なぜなら、表現の自由と言えど、他人の権利や利益、そして「公共の福祉」に抵触してしまえば、制限されかねないからだ。たとえば、パロディが、新たな視点を提供するという社会的意義を有し、原作品にとっても不利にならないのであれば、表現の一形態として認めればいい。似ていて当たり前、それが世界でも主流になりつつある。日本の法律、そして裁判所はこれに対応できていない。

Googleのミッション紹介:Google’s Mission Statement

著作権法がもつ問題に対して、新たな挑戦をしたのもやはりグーグルだった。検索エンジンに続き、今度は書籍の電子化である。潤沢な資金を活用し、図書館の書籍をすべてデジタル化すると宣言したのだ。もちろん、消費者に垂れ流すことはないにしても、その手前での「複製」作業がある。これが、伝統的な著作権法の文言に抵触するかと思われた。ここでもグーグルが示したのは、オプトアウト方式、すなわち著作権者は原則許諾をし、嫌ならそこから離脱を示す方式のことだ。これにより、権利者不明あるいは死亡の「孤児著作物」をデジタル化しやすくなる。

案の定、事態は訴訟へと発展した。グーグルは検索サービスとしてこれを提供するため、全文スキャンにこだわった。閲覧させるのは一部(検索キーワードを含めた前後数行)なので、フェアユースにあたると主張。当初は、和解が見込まれた。グーグルは、一時金や分配金を用意し、権利者側への配慮を示した。侵害か否かの形式ではない。フェアに使われるか否かを、経済合理性に鑑みての解決案だった。最終的には、再び裁判に戻り、グーグルが勝利した。


グーグルと言えば、そのミッションが世界中から評価されている。「世界中の情報を整理し、世界中の人々がアクセスして使えるようにする」こと。この使命感にしたがい、グーグルは、孤児著作物(権利者が不明な著作物)に対しても取り組んだ。これに刺激を受けた欧州は、アメリカ以上に膨大な歴史的資産を有するため、このデジタル化に積極的に取り組んだ。それは、「ヨーロピアーナ」に結実。そして、我ら日本版のジャパンサーチも周回遅れでスタートした。


そろそろまとめに入ろう。日本の著作権法は課題だらけである。毎年のように(著作権法の)改正が積み上げられ、(それ自体はよいことだが)抜本的な見直しをした方がよいのでは、と思ってしまう。今日のデジタル社会は、「複製」が容易になり、日常行為となった。誰もが情報発信者となり、爆発的に著作物が生まれている。したがって、著作物流通の促進を考えるべき法律が、事前許諾の建前を崩さず、権利制限規定のパッチワークによる対応を続けてきたが、今の混乱状況は、そろそろ限界だろう。特に、著作物をいまだに人格権で扱っていることは、財産的な側面を軽視し、その結果、著作物の利用や流通に大きな障害となっている。

財産的価値にフォーカスすれば、著作物の利用は、お金で解決しやすくなる。グーグルのアプローチは、我々にとって多くの示唆を与えてくれた。著作権の「公衆」利用を、真に促すために、法制度改革をやってほしい。


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