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みんな何かを人生をかけて求めている

と、思うのです。

つまり、それは自分にとって大切なもの。
家庭とか、
快楽とか、
仕事での成功とか、
お金とか、
自分にとっての幸せといえるものを。

私にとってそれは「自由」。
元来が自分と向き合うということをしない私は、最近になってやっとこれまでずっと不自由なことに文句を言ってきたことに気づいた。
それは裏を返せば自由が大切ってこと。

校則も、職場の雰囲気を気にしながら働くことも、日本独特の監視し合う風潮も同調圧力もずっと嫌いだったし嫌いだ。本当は、正直に言えば、子育てからも自由になりたいと思っている(それほど大変かつ長期間だということです)し、この際ぶっちゃけると家庭というもの自体からも自由になりたい。つまり、それほどに自由を追求しているわけ。

断っておくけれど、別に好き放題やりたいわけじゃない。犯罪はしたくないし、良心が咎めることをやろうと思わない。ただ、何かに縛られるとか、別の選択肢ができないという状態がとにかく嫌なのだ。

だから、自由の追求のために、不自由を少しずつ少しずつ、手放してきたと思う。学校は卒業したし、会社も辞めた。けれど、当たり前だけれど、完全に、本当に自由になるというのは難しい。一つ手放したと思ってもまだまだ不自由の種というのはあるし(例えば電子マネーが使えないお店とか)、なかなかおいそれと手放せない不自由も多い。

まぁそりゃそうだ。いろんな人や事と絡み合うっていうのが生きてるってことなんだ。そういうのに対処していく、耐えることも人生だし、人生って修行だなと思う。

そう考えると、私が望む自由って、死ってこと!?

やれやれ、結局これからもかなわない夢を見続けてもがくしかなさそうだ。


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