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夏油とセネカ。呪霊操術と例証。共通する強みは何か。

セネカとは。それと、神と悪の矛盾

 ルキウス・アンナエウス・セネカという人物がいます。古代ローマの政治家・哲学者。彼が著した随筆「寛容について」「幸福な人生について」「人生の短さについて」などは今でも読みつがれており、西洋思想に大きな影響を与えました。

Lucius Annaeus Seneca

 このセネカの随筆の魅力の出どころが、呪霊操術と同じだったのです。おそらくこの強み故に、セネカは今でも読まれ続けているのでしょう。

 たとえばセネカが書いた「摂理について」という随筆があります。「摂理」とは、ウィキペディアによると
「創造主である神による被造物への計画・配慮。神意。神慮」
という意味。私が「摂理について」を読んだ感じでいうと「運命」という言葉が合っているようです。
 人間一人ひとりの人生は、神によってすでに決められている。それが運命。私がこれからスタバで何を飲むかも。ジョコビッチはいつまで現役でテニスをするのかも。今後もアップルはブランド力の高い製品を出し続けられるのかも。
 ただ、この「神が決めた人の運命」には矛盾があって、それは「どうして悪が存在するのか」ということです。というのも、神と悪は共存しない、という考えがあるからです。

 どうして世の中には悪が存在するのでしょうか。悪という言葉は「苦しみ」と表現した方が理解しやすいです。どうして世の中には苦しみがあるのでしょうか。西洋思想的に、神は全知全能至善のはず。何でもできるし、何でも知っているし、常に善いことをしようとするはず。それなのに、苦しみがあるのはおかしいではないですか。神が何でも知っているなら、この世に苦しみが跋扈しているのを知っている。何でもできるのなら、苦しみを掃討することもできる。常に善いことをしようとうするなら、苦しみを放っておくこともしない。それなのに、どうしてこの世に苦しみが存在するのでしょうか。全知全能至善の神がいるのに悪(苦しみ)もいるのは矛盾に思えるのです。

 この問題に対してセネカは、必要悪をもちいて答えます。すなわち、人間が苦しむように運命づけられているのは、それが必要な苦しみだから。この世の苦しみは、より高レベルの善を成すために必要なものなのです。

実例と説得力

 ところで、主張に説得力を出すにはどうすればいいでしょうか。論理的思考に関する著作が多数ある小野田博一氏は、「論理的な小論文を書く方法」の中で次のように述べています。


 実例には説得力があるということは、誰もが知っているでしょう。説得力を高めるために、これを大いに使いましょう。

小野田博一「論理的な小論文を書く方法」


 我々には伝えたいことがあり、この考えを相手に納得してもらいたいとしましょう。

「今日の読書はスタバででしよう」
「今度のM3搭載MacBookは買いだね」
「ジョコビッチは最強だ」

 けれど、これだけ伝えたのでは相手には納得してもらえません。主張を相手に納得してもらうには、説得力が必要。説得力を出すための方法の1つが実例です。

「今日の休憩はスタバでしよう。美味しそうな食べ物がそろっているからね。シナモンロールがあるよ」
「今度のM3搭載MacBookは買いだね。インテル搭載のMacよりもレベルが上っているし。バッテリーの持ちが2倍だって」
「ジョコビッチが好きなんだよ。彼は強いから。防御力が高いんだよ」

 さらに説得力を出すには、実例をたっぷりと出すこと。1つよりも2つ。2つよりも3つ。一つ一つを詳細に。質と量を増やすことで説得力は増します。

「今日の休憩はスタバでしよう。美味しそうな食べ物がそろっているからね。シナモンロールがあるし、チョコレートスコーンもシュガードーナツも美味しそうだ」
「今度のM3搭載MacBookは買いだね。インテル搭載のMacよりもレベルが上っているから。バッテリーの持ちが2倍、パフォーマンスは11倍向上だって」
「ジョコビッチが好きなんだよ。彼は強いから。リーチが長い分、防御力が高いから強いんだよ。それにサーブの上手さもある。フラット、スライス、キック、どんなサーブも上手い」

 説得力を出すには、実例をたっぷり載せることなのです。

呪霊と実例

 「摂理について」において、セネカの言わんとすることは明白でシンプルです。それは試練としての必要悪。苦しみがあるから人は成長できる。この主張を読み手に納得してもらいたいが故に、数々の実例を持ってきます。「摂理について」の中には、だいたい50個くらいの実例が書かれてありました。この作品が約1万5千文字なので、300文字に一個の割合で実例が出てきたことになります。しかもこれらの実例は全て「苦しみがあるから人は成長できる」、コレ1つのための実例です。内容が被っている実例もあるのですが、ただ「苦しみがあった方が人は成長できるから」ということを言わんがために50個もの実例を持ち出すのは並大抵のことではないでしょう。私だったら、そこまで頭を回転させるエネルギーが持ちません。
 セネカの実例はこんな感じです。例えば……

 父は子どもに早起きと勉学を命じ、休日にもゆっくりすることを許さない。彼らから汗を、時には涙をあふれさせる。母、懐に抱き、日陰に留め置きたがる決してつらくないよう、決して泣かないよう、決して苦労しないよう願う。善き者たちに対し、神は父の心を抱く。

 障碍を知らぬ幸福は、どんな打撃にも耐えられない。だが、絶えず逆境と格闘した者には、受けた不正で厚い皮が育ち、いかなる悪にも屈しない。倒れても、膝立ちで戦う。

 よくわれわれは、不動の精神をそなえた若者が、突進してくる野獣を槍で受けたり、ライオンの攻撃を怖じ気も見せずに耐えたりするのを楽しむ。こうした見世物は、成し遂げた者が高貴であるほど、評価が高いものだ。

 時に人は、治療のため、骨を削られ、はずされ、血管を引き抜かれ、さらに四肢のいずれかを切除される。それがあるかぎり、全身の危険を招かざるをえなかったからだ。君もそこをよく見れば、ある種の禍が起きた人のためになるということに同意するにやぶさかではあるまい。

 偉大な者はしばしば逆境を喜ぶ。勇敢な兵士が戦を喜ぶのと同じである。

 樹木は、風に頻繁にあたらなければ、頑丈にも強健にもならない。

 剣闘士は、劣った相手との組み合わせを屈辱とみなし、危険なく勝てる相手を負かしても栄光にならないことを知っている。運命のふるまいも、またしかり。

 だから、神々が善き者たちに対してとっている方針は、教師が自分の生徒に対する場合と同じく、見込みが確かな者に多くの苦労を課すというものだ。

 まさか君は、スパルタの人々が自分たちの子どもたちを嫌っているとは思わないだろう。少年たちの性格を、衆目を前に鞭打ちを加えることで試しているのだ。親みずからが息子に向かい、鞭の打撃を凛々しく耐え抜くよう激励する。引き裂かれ、半死状態の彼らに向かい、傷口に傷口を重ねるように懇願する。神が高貴な精神を過酷に試したとして、どこが不思議なのだ。

セネカ「摂理について」

 このように、次々と大小様々な実例を持ち出すことで、セネカは「苦しみがあるから人は成長できる」という主張を例証していきます。こんなにもの数の実例を休みなく差し出されると、読んでいる側は徐々に押され、「確かにそのとおりだな」「苦しみがあった方が人生よくなるな」「人生に必要な苦しみの方が、必要のない苦しみよりも多いな」と納得するようになる。たとえ読む前は「試練のための悪なんて、そんな理由があるかい!」と思っていても、実例の物量を前に圧倒されるのです。

 物量でゴリ押し。これは夏油傑の、自身の呪霊操術に対する評価です。

芥見下々「呪術廻戦」

 呪霊操術の強みは手数の多さだ。準1級以上の呪霊を複数使役し、術式を解明、攻略されようとまた新しい呪霊を放てばいい。勿論その間を与えずに畳みかけるのもいいだろう。

芥見下々「呪術廻戦」
芥見下々「呪術廻戦」

 セネカの説得力も呪霊操術と同じく、「物量でゴリ押し」です。強みは手数の多さ。読み手が実例に納得しなければ、また新しい実例を放てばいい。勿論その間を与えずに畳みかけるのもいいでしょう。
「父は子どもに早起きと勉学を命じ、休日にもゆっくりすることを許さない」
と言ったところで、子どもを持っていない者には刺さらないかもしれません。だったら次の実例です。
「樹木は、風に頻繁にあたらなければ、頑丈にも強健にもならない」
 コレも通用しないようなら、また趣向を変えて例証を放ちます。
「絶えず逆境と格闘した者には、受けた不正で厚い皮が育ち、いかなる悪にも屈しない」
 そして相手に通用したならば、反例を思いつかれる前に畳みかける。
「剣闘士は、劣った相手との組み合わせを屈辱とみなし、危険なく勝てる相手を負かしても栄光にならないことを知っている。運命のふるまいも、またしかり」
と。

 セネカにとっての例証は、夏油傑にとっての呪霊操術のようなもの。共通する強みは、手数の多さなのです。



参考

 「摂理について」「賢者の恒心について」「怒りについて」の3篇を読めます。
 セネカの評価には賛否あるようです。というのも、彼の思想については「確かにそのとおりだけれど、お前が言うな」と言いたくなるからです。
 セネカの書いた作品には、彼の高潔な思想が残っています。「人生はお金じゃない」とか。けれどセネカがその高潔な思想を実践していたのかというと、それは疑わしい。セネカは初め、著作どおりの高潔な人物と考えられていました。痩せていて「お金じゃない」の崇高な思想を地で行く人だと。けれど後に、彼の肥満体型の胸像が見つかります。それも、この胸像はセネカ等身大としての信ぴょう性が高かったのだとか。つまりセネカは、肥満なほど贅沢な生活をしていたのです。それでセネカへの評価は一転するのです。「高尚なことを言っていた割に口だけだったんじゃないの?」とか「民衆の前では気高いことを言っておきながら、自分は城で贅沢三昧だったんじゃないの?」とか、悪者としての評価がなされるようになりました。
 まあ、人と論は別なので、人柄が悪いからといって、その人の論まで悪いわけではありません。ドロボーが「盗みは良くない」と言っても、筋は通っているのですから。痴漢が「女性の尊厳」を叫んだとしても、間違いではないのですから。
 けれど所詮は、自分では実践するほどでもない程度の論だったのでしょう。本当に芯から思っているのだったら、自分でも実践せずにはいられないはず。本当に「盗みは良くない」と思っていたらドロボーなどできない。本当に「女性の尊厳」を思っていたら痴漢などできない。心底「人生はお金じゃない」と思っていたら、自分でも「お金じゃない」人生を選択していたはず。なのにセネカが政治家として「お金な」人生を歩んでいたということは、彼は口だけヤローだったのであって、彼の言っていることはやはり「実践するまでもない」程度のものだったのかも。


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