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【エッセイ】頭動いちゃうの、とめて

「面白い話を作りたい」という欲求が二年くらい前に現れて、それからずっと私の隣に居座っています。どうしてなのか分からないけど、書いたこともないのに突然脚本を書きたいと思い、それなら先に演じてみようと、「劇団Clowncrown」に飛び込みました。その時劇団はインプロバイゼーションという、演者がその場の即興で話を作って演じる、という種類の演劇に力を入れ始めた頃で、頭を柔らかくしたい、そして物語を作ってみたいと思っていた私にはぴったりの場所でした。即興の舞台ではアドレナリンが出て、それと同時にどうしたらいいんだとパニック状態になり、頭を使う余裕はありませんでした。そんな時に私の口から出てくる言葉たちは奇想天外なものばかりで、私はすっかり心を踊らされ、即興の楽しさを知りました。

普段の私は、なんでも言葉に置き換えようとします。些細な出来事も、ふと感じた思いも、誰に伝えるでもなく個人的に頭の中で、論理的に言葉にするという癖がついていて、そうしないと落ち着かないのです。そうしている時は、こめかみや目の奥にじんわりと力が入り、ああ、頭を使っている、と感じます。

でもそうやって言葉にすると、なにか大切なもの、自分の思いや感覚の核のようなものたちが、言葉の端からぽろぽろとこぼれ落ちてしまうことも感じていました。その核たちは言葉という枠に入り切らず、消化されないまま、私の意識から遠く離れたところに、残っているのでした。そしてそれらは即興という、頭の回転が強制的に止められる場所で、その時々に必要な「材料」としてひょっこりと姿を現してくれます。私はもうとにかく必死に、タイミングを逃さないようにそれを素早く掴んで、舞台の上に差し出しました。

私はそんな感覚が心地よく、これなら、即興演劇のように取り組めば、面白い話が書けるかもしれないと思い、椅子に座り、ボールペンを手に取りました。でも、そうやって意気込んで書き始めると、出てくる設定や人物、ストーリーたちは、意外性も風通しもなく、凝り固まった、つまらないものになるのでした。そして書いているうちに自分の身体や頭もどんどん固まっていき、その息苦しさにペンを投げ出し、文章を書くことは、私の性格に向いていないんだと思いました。

それでも、日常的な、ルーティーンのような作業をこなしている時や、歩いている時、電車に乗ってる時などに、突然ぽこんと、種が現れることがあります。私はそれを取り逃さないように、即座にiphoneにメモを取りました。私はこの時の感覚が、自分の信じられるものだと思いました。
何かネタを考えようとしたり、面白いものを書きたいと思ってノートに向かうと、その自由に子供のように飛び回る種は全く姿を見せてくれないのです。

それでも私は、欲求を満たしたい気持ちや、焦る気持ちに押され、ノートに向かうことがあります。そんな時には、思いを言葉に変換する時と同じように、頭がフル回転し、本当に大切なものたちは、ぽろぽろとこぼれ落ちていき、形だけの、可哀想な言葉たちによって、歪な容器が作られてしまうのでした。

今は、その「よくない」状態を「いい」状態に変え、保ち続ける方法を探しています。まるで、風が吹く上空で綱渡りをしているような、そんな感じがします。頭が優位になってきたと思ったら、一旦手を止めて自分のもとに戻ってくる、そしてなんとなく戻ったかな、と感じたら、また少し手を動かしてみる、あ、まだ早かった、と思ってまた休む、と、今はえっちらおっちらやっています。

私は村上春樹さんの小説が好きなのですが、彼は物を書く時「無意識の層」まで降りていって、そこにあるものを掬い上げてくる、と仰っていました。(少し言い回しが違うかもしれません、すみません)
また宮崎駿さんは作品を作る時、無意識の層の、もっと底にいく、と仰っていました。(こちらも同様です、すみません)

ああ、そこに行きたい。恋焦がれるように、そう思います。その世界が見れたら、それを五感で感じ取れる形に変換できたなら、私は他に何もいらない、と思います。
でも、そして、その世界を一度見た私は、今の場所からは靄がかかって見えていない、さらに先の望みを見据えていることを、ただ、楽しみにしています。

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