見出し画像

40年ぐらい前に偏差値60の県立高校に行って、53歳になって人生を振り返る話

世でいう「団塊ジュニア世代」とは、1970年生まれ前後、今でいう50歳前後ぐらいのおっさん世代のことである。ちなみに、私は1970年生まれの53歳なので、団塊ジュニアでもやや後発組に入る。この世代は人口も多く、高校受験も今の少子化世代よりもハードな状況だったと思うが、偏差値事情に関しては、そんなに大きく変わっていないように思える。偏差値50が「普通」で、60ぐらいで「勉強はできるほう」で、65ぐらいで「頭いいじゃん」で、70ぐらいで「すげぇ頭いい」というのは、今と大きくヒエラルキーは変わっていない。その中で、当時、中学校でもクラスで10番前後だった自分は、県内のフツーの高校よりも、「そこそこ」上ぐらいの偏差値60の県立高校に進学した。

しかし、今振り返れば、この「そこそこ」のポジションが非常に厄介だったと思う。偏差値が65以上、70以上の中学生は、基本的に「地頭が良くて、努力もできる」から、高い偏差値が取れているわけであって、いざ大学受験となると、地頭の良さと持ち前のガッツで、名の知れた大学に進学して、名の知れた会社に勤めるようになり、それなりの社会人になることができる(もちろん、脱落組もいるけど)。一方、偏差値60ぐらいの高校に行く中学生は、「地頭が良くて、何も勉強しなくても偏差値60が勝手に取れている」か、「地頭は良くないけど、すごい頑張って偏差値60を無理矢理取っている」かのどちらかのタイプの人間なので、シンプルに言えば、勉強をしない奴か、努力しても頭がよくならない奴か、どちらかの厄介な人間が集まってしまうことになる。もちろん、これは個人的な偏見だけど。

結果、高校3年間で「俺、勉強しなくても、なんとかなるわ」と思って油断して勉強についていけなくなってしまうか、「俺、勉強しないとダメだわ」と必死になって頑張るけど、偏差値が伸び悩んで終わるかで、「そこそこ」のラインで落ち着いてしまう人になってしまう。そう考えれば、当時、自分の高校から現役で大学に進学できた人はほとんどいなかったし(※当時の大学進学率は36%)、浪人しても、一部の人は六大学ぐらいに飛び込めても、ほとんどの人は「そこそこ」のレベルの大学か、それを下回るレベルの大学に入るのが精いっぱいで、大学受験に関しては、多くの同級生が苦戦したと記憶している。

で、そんな「地頭に頼って、努力しない人」と「地頭が悪いけど、努力が実らない人」は社会に出てどうなるかというと、これがまた非常に使い勝手がいいポジションに落ち着くことになる。仕事をやらせれば、「そこそこ」の結果を出すし、地頭が悪くて要領も悪いけど、努力はしてくれるので、「そこそこ」の結果を出してくれる。しかし、悲しいかな、社会人の世界は高校受験の偏差値よりもやや高いところの水準で推移しているので、その「そこそこ」の実力は社会で評価される「そこそこ」ではなく、若干標準よりも下回る「そこそこ」なってしまう。だから、大企業での評価は今一つだし、中小企業でも、「あいつは給料を上げなくても、そこそこ仕事はやってくれる」の使い勝手の良い評価になってしまい、結局、「フツーのサラリーマン」で終わってしまう。

特に偏差値60の人が最も致命的なのは、「突破力」の無さではないかと思うことがある。地頭がいいけど、努力した経験がないから成功体験が乏しいし、一方で、地頭が悪いけど、努力して結果を出したことがないので、こちらも成功体験が乏しいくなる。そのせいか、高校の同級生で起業家は少ないし、もっと言ってしまえば親の跡を継いで自営業者になった人もいるにはいるけど、数は少ない。物事への突破力に関しては、おそらく偏差値60よりも下の人たちのほうがチャレンジ精神と好奇心が旺盛だと思うし、逆に偏差値60以上の人たちのほうが、成功体験をもとに人生を切り開いてきた経験があるから、こちらのほうも突破力はあるんだと思う。そう思えば、偏差値60ぐらいの人が、もっとも起業には向いていないんだと思う。自分も含めて。

しかし、だからといって、偏差値60の中途半端な人たちは、社会に出てもそれなりに使い勝手はいいし、「いないよりはマシだ」ぐらいの結果は残してくれるしで、誰もが嫌がるような仕事も、低いパフォーマンスと効率の悪い仕事のやり方で、まぁまぁ60点ぐらいの結果は常に出してくれるから重宝される。上司や社長からは嫌われず、取引先からも好かれて、本当に世間でいう偏差値60ぐらいの「そこそこ」の人生を送ることになる。

そう考えると、自分の人生なんて高校ぐらいで既に決まっていたかと思うと、かなりぞっとする話でもある。一方、高校時代に既に自分の人生が決まっていたと踏ん切りをつけてしまえば、そんなに自分の人生を卑下する必要もないし、自己嫌悪に堕ちることもないと思えてしまう。50歳を過ぎて、自分の人生の終わりがなんとなく見えてきた今、「あーすればよかった」「こーすればよかった」と思っても、「俺って、そもそもそんなすごい人生を歩めるほどの人間じゃないよね」と悟りの境地に行き着けば、素直に残りの人生を、どうやって楽しもうかというところに視点が向けられるようになる。そう思えば、偏差値60ぐらいの「そこそこ」の人生も悪くはなかったのかなと思えてしまう。

自分の人生で、中学、高校、大学、社会人と、いろいろなカテゴリーの友達がいるけど、やっぱり会って、話して、価値観が会うのは、今でも高校の友達だったりする。バカ話がでてきて、くだらない話を永遠に何時間でもできるのは、たぶん、この中途半端な地頭の悪さと要領の悪さが、無理せず自分をさらけ出せる唯一の場なんだと思うと、高校の友達はもっと大切にしなきゃいけないと改めて思う。

そんなわけで、今日もそこそこの人生を、そこそこ楽しく、そこそこ苦労しながら頑張っています。もう既に廃校になってしまった50歳前後の千葉県立船橋旭高校の卒業生のみなさん、引き続き「そこそこ」の人生を頑張っていきましょう。俺も頑張りますから。

好きをたくさん押してくれたら取材して続きを書きます。足りなければ書くのは止めます。でも書きたいから押してね♪