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母から聞く戦争の話

(約1,800字)

母は昭和20年代の前半に生まれた。
父は、少し年上で、戦時中の親の苦労を知って育った。

父が幼少期の食事は、大皿に惣菜が盛られていたから、兄弟姉妹の人数が多い時代、食事時にのんびり構えているわけにはいかなかったそうだ。

父は今でも、数人前の惣菜を一皿に乗せると
全部たいらげてしまう。

「これは一人で食べてもいいから」

私は必ず一人前ずつにして、
多めに父のおかずを用意する。

母は、3人きょうだいの真ん中である。
上に、3歳年が離れたお兄さんと、2学年下の弟がいる。

母もまた3人きょうだいだった。
下の叔父さんは、よく知っている。
一番、会話していたのは跡取りの叔父さんだ。

上の伯父さんは、心臓が弱い人だった。
ペースメーカーを体に埋め込んで、古希の頃に亡くなった。
親(私の祖母)より先に逝ってしまった。

奥さんと子どもたちと横浜に住んでいたため、
私たちは「横浜の伯父さん」と呼んでいた。

母によると、横浜のおじさんは戦争の被害者だった。
母のお父さん(おじいちゃん)は、第二次世界大戦のとき、兵隊さんではあったが戦地で戦うことはなかった。

おじいちゃんは身体が弱い家系でした。
おじいちゃんのきょうだいは、30代で亡くなっている。とても容姿が綺麗な方ばかりだと聞いている。

おばあちゃんの叔父さんが陸軍の参謀にいたため、当時、戦場に出向く体力がなかったわけではないが、伝書鳩を飛ばす仕事に就くことになった。
おじいちゃんは、あと数日で死んで行くであろう若者の兵隊さんから、故郷への手紙や思い出の品を預かっていた。それは、学徒動員の若い青年の家族への想いがこもった手紙だ。

知らない土地で短い間に友達になった方でもある。
おじいちゃんは死ぬことが決まっている若い青年たちの手紙を持って、敗戦の後、家には直接戻らず、戦地で亡くなった方の家族の元へ預かったものや手紙を渡しにまわった。

おばあちゃんは、戦争に行くおじいちゃんの子供を身籠っていた。
それが横浜のおじさんだった。
おじさんは聡明で本が好きな子どもでした。
でも、おじいちゃんが戦争から帰ってきて、まだ幼かったものの、母親の後ろで見上げるばかりで父親になつかなかったそうです。

おじさんは、母親とは話すことができた。
でも、戦争から帰ってきた父親に心を開くことが出来ませんでした。
最初は自閉症児かと疑われましたが、他の人とはコミュニケーションがとれて、学校の成績は優秀でした。

おじさんは進学できる学力があったのに、高校へは行かず、早く就職したくて工学科の専門学校で学び、誰もが知る企業に就職し、横浜で家庭を持ちました。

進学するためのお金を、おじいちゃんから出してもらいたくなかったようです。

私が知っているおじいちゃんは、笑顔が優しくイケメンの静かなひとです。

おじいちゃんは60代はじめに亡くなりました。
戦争から帰ってきて、せっかくの第一子が笑いもせず、母親の後ろにいて、抱くことが出来ず、苦しい思いをしていたと想像します。

私の母は、お兄さん(横浜のおじさん)から
「お前は、いつも明るくて太陽みたいだった」と大人になってから言われました。

また、母は小学生にあがる前に、父親(おじいちゃん)が病に倒れて、母とその弟(当時3才)は、親戚のおばさんの家に預けられました。

昔は、病院から悪い菌を持って帰るのではないかと、看病していたおばあちゃんが親戚の家に行くとき、おばさんは子ども(母と叔父さん)に会わせなかったそうです。

おばあちゃんは出来るだけ綺麗な着物や草履を履いて、子どもが世話になっている親戚の家にお金を持って行きました。

子どもには会わせてもらえず、田舎に住む親戚のおばさんが、羽織ってきた衣類や草履を褒めれば、それを差し出して、帰りの電車ではみすぼらしい草履を履いて一人、家に帰ったそうです。

お母さんも叔父さんも、まだ小さかったけれど、親戚の家の子どもがおやつ(芋切り干しなど)を食べていても、2人には与えられず、寂しい思いをしました。
母は、弟に食べさせられないのが、とても悲しかったそうです。

暖かい陽ざしが当たるところに連れて行って、楽しい話をするのが、母の役目でした。

戦争のおかげで、母は辛い思いをしましたが、命があっただけマシだと言います。

ひもじい思いを抱えて、戦地で若くして死んでいった魂があったことを忘れてはいけない。
平和であることを感謝しなければいけないと、話します。



いのちえさんのお話を天道馬七さんの記事で読みました。

他の話がありましたが、本人の了解を得られない状況であるため書けません。
故人は話せませんから、名誉を守れる範囲で記事を書きました。


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