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私ががんになった【日記】

 2010年7月、米国に引越しして五年目に乳がんに罹患していると分かってから、なれない国での抗がん剤治療までの個人的な記録です。手術、抗がん剤治療を終えた今なら笑って「抗がん剤、うざい」とか言っている私がいるけれど、治療の副作用に苦しみ、生と死をかつてないほど意識し、私の死後の世界まで想像を膨らませていたいっぱいいっぱいだった私の記録です。もっと重篤な同じ病気に罹患している方が不快に感じたら、ごめんなさい。

7月27日、右胸に新たなシコリを見つけて、病院へ。すぐにマンモグラフィーと超音波診断の予約をとる。昨年9月に診断を依頼した時は触診だけで、何も問題がないと言われていたので、たかを括っていた。「ガンっていうのはね、丸いの。あなたのしこりは癌じゃない。」って言い続けた主治医、まじかよ。この日はたまたま主治医がいなくて、代理の医師がみてくれて、命拾いした。っていうか、会社、どうしよう。夫一人でやっていけるだろうか。娘、どうしよう。

7月30日、マンモグラフィーと超音波検査のあと、すぐに生検に回される。超音波診断をしていた看護師の顔がみるみる変わっていくのがわかった。あまり説明もないまま、三ヶ所に針を刺されて、麻酔を刺されたが、あまり効かないのか、猛烈に痛かった。その後の週末は結果待ちで生きた心地がしないが、Etsyのオーダーが沢山来ていたので、ただひたすら単純作業に没頭して気持ちを紛らわした。

8月3日、ついに結果が出た。右胸に3個。リンパ腺に転移。3センチが1個と2センチ弱が二つ。絶望。日本にいる姉に電話。「私に何かあったら娘をお願いします」って号泣した。

8月6日、PET-scanをしに隣町へ。夫が夫の妹に勝手に私のそばにいる事を頼んだ。親しくない人に自分の弱いところを見せたくなかったので、丁寧にお断りしたが、「気が変わったら連絡して。スタンバイしているから。」との優しい言葉。その後、娘と私の検査の間一緒にいてくれれば娘とできるだけ一緒にいられると思いなおし、すぐに再度お願いした。が、あっさり「街にいないから物理的に無理」と断られた。一体なんだったのだろう。いや、初めからドタキャンするつもりでいたのか。「妹は忙しいから」と肩を持つ夫にかなり腹が立った。藁をもすがる気持ちでお願いしたのに。やっぱり白人は口だけだ。Fuxx you! と思った。検査の後、病院から電話があり、結果はリンパだけで、全身には転移していないとの事。良かった。娘ともう少し長くいられるかもしれない。泣いて喜んだ。

8月7日、MRI。検査結果は、3センチと言われていた一つの癌は7センチを超え、筋肉まで食い込んでる。大きすぎて手術はできないから抗がん剤治療でたたいてから様子をみるとのこと。相当辛い闘病生活になりそうと。娘と繋ぐ手が震えた。そのまま週末旅行していた目的地、Sand Dunes へ。闘病生活前の最後の旅だ。楽しまないと。娘と楽しまないと。焦った。生きることに焦った。貪るように楽しい時間の思い出を体内に入れたかった。

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 立て続けに受ける検査の結果に希望を抱いたり、絶望したりで毎日忙しい。そんな中、母が糸のような細いつてを頼って、アメリカで医師をしている方に連絡をとってくれたり、夫がつてを頼ってセカンドオピニオンを求められる誰かを探したり、友人が暖かいテキストくれたり、一緒に泣いてくれたりした。人の優しさが滲みる。癌になっても良い事がある。Etsyのお客さんがいつお店を再開するかと聞いてくる。嬉しいレビューも沢山くれる。嬉しい。良いことばかりを見て過ごそう。夜にSandDunes にもう一度行った。満天の星空に癒された。娘と手を繋いで見た天の川。また見たいと流れ星に祈った。いつだって死んでもいいって思っていた私が、こんなに生に執着するなんて。意外な自分を見た。

8月10日、再び生検。今度は左胸。良性かもと希望を持ったが、悪性だった。二つもあった。私のカラダ、どうしちゃったのだろう。抗がん剤も同じ種類だし、何も変わらないけど、気が滅入る。

8月12日、娘に付き合ってもらってカツラを買いに行った。お客さんの多くが癌患者らしく、小児癌の子供が写っている写真が沢山あった。娘の顔がこわばってくるのが分かった。自分と同じ位の年齢の子がこんな怖い病気になるなんて。自分もそうなのではないかと心配したりしているのが分かる。申し訳ない。連れてこない方が良かった。ごめん。その後、お義父さんの所へ。義両親が娘を沢山甘やかしてくれて、本当に嬉しい。これから、病気になってしまった私が、娘に気苦労をかける事が沢山あるから、彼女が嬉しそうな顔をすると、すごく嬉しい。救われた気持ちになる。



抗がん剤治療をネットで調べたり、医師の事前の説明を聞くと、副作用が怖くなる。吐き気、抜け毛、倦怠感、肝機能の低下。怖い。すごく怖い。でも、子供もがんになったら耐えている。おばあちゃんだって、みんな耐えなくちゃいけない。私だって生きるためには耐えないといけない。できないはずはない、と、言い聞かせた。でも、大腸がんで逝ってしまった友人も治療の間はつらそうだった。かつてがんセンターで入院していた時の病室の癌の患者さんも、つらそうだった。視覚から入った思い出は鮮明すぎて、不安を払拭しようとする私には最大の敵だった。

8月18日、Day1 今日から抗がん剤治療開始。朝は5時前に起きて、久々にお弁当を作った。娘がお友達の家で楽しく食べられますように。抗がん剤治療の前に胸にポートを入れる手術をした。このポートに点滴の針を刺すようにすると、血管が痛まず、抗がん剤治療がうけられる。でも、これが一番怖かった。麻酔も怖かった。でも、取り越し苦労で寝ている間に終った。術後、麻酔による副作用でかなり気持ち悪い中、抗がん剤治療開始。気力と体力を使ったのか、クスリのせいか、その後かなり疲れた。夕食はアメリカ人の夫が頑張って作ってくれたお粥。梅干しと美味しくいただきました。やっと4カ月の治療の時計の針が動き出した。1日1日を地道にクリアしていくしかない。癌に「ここは君のいる所じゃない。早く元の所へおかえり」と言い続けた。

8月19日、抗がん剤治療開始2日目、心配していた副作用の吐き気は酷くなく、わりと日時の生活を送れた。夫が毎朝、白血球を増加させる注射をしてくれて1日が始まり、普段の生活ができた。娘のリクエストで肉まんが作れて、彼女のうれしそうな顔が見れたし、何よりも、病気でも、娘に何かができる自分がうれしかった。

二週間を経て、一度目の抗がん剤治療を終わり、思うことは、割と普通の生活ができたということ。抗がん剤治療開始前はネットの情報を頼りに想像を膨らませすぎていたのだろうか。ただ、その二週間の間に2回の鼻血が20分ほど止まらずに慌てた事が「私は病気なのだな」と再確認して寂しかったことだ。本来なら便秘に苦しんで、いきんだ時に鼻血がでたとか鼻くそをほじって鼻血がでたとか、かなり笑える話なのに。抗がん剤治療二回目に備えて、娘にぬいぐるみを買ったり、プリンやビーフストロガノフ、塩豚、塩こうじの鶏肉、鳥の唐揚げなど、娘が好きなものや私が食べたいと思うものの下準備をした。週末には夫がEstesParkの素敵なキャビンを借りてくれて、一泊だったけれど楽しい旅行にも出かけられた。

9月2日、抗がん剤治療二回目ー一日がすぎた。一回目より吐き気がした。疲れやダルさが目立った。足のむくみも気になった。腫瘍はほんのちょっと形が変わったり、小さくなった気がしたが、いまいちよくわからない。抜け毛が始まった。覚悟していたけれど、やっぱりちょっと、寂しい。友人にバッサリ切ってもらう。一人でバリカンで刈ることもできたけど、泣いてしまいそうだから、彼女と一緒に落ち武者カットをしたり、ツーブロックをしたりとげらげら笑いながら、最後は5ミリのバリカンでバサッと。

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 これからだるさやめまい、疲労感や吐き気なのが普通に襲ってくるのだろう。怖いのは体力的に耐えられるのかではなく、これらの症状に精神的に負けてしまうこと。頑張れば起きられるのに、仕事ができるのに、これらの症状に甘んじて、どんどん弱くなっていく自分が怖い。それをみる娘に、私はどう映るのだろう。病気で髪の毛も眉毛もなくなる私を気持ち悪いと思うだろうか。体が辛くて仕事ができない私を、みっともないと思うだろうか。

9月21日、風邪を引いたようだ。最初微熱だったが、38度を超えた。抗がん剤治療中の為、予防機能がうまく働いていない私の身体。大事をとって病院に電話したらあれよあれよという間にICUへ。コロナだから付き添いなし。コロナだから共有トイレは行けない。コロナだから…。コロナめ。おまえなんかきらいだ。
一日のICUのお泊りの後、二日の入院で熱は下がった。血圧がかなり低いからまだ帰せないという。一生懸命、ラジオ体操をして血圧が上がることを祈る。どうでもいいけれど、こちらの看護師さん、私服だし、ブレスレットをじゃらじゃらしながら点滴を交換してくれる。香水も衝撃的だ。ICUの看護師はコロナもあって、かなり衛生に気を配っていたようだが、Oncology(癌科)の看護師はすごい。看護師に手当してもらってる気になれない。

9月24日、めでたく退院。いえーい。

9月25日、家の契約。書類上、夫が会社の経営者。節税の都合上、私がサラリーマンで、夫は給料は計上されておらず、その為、家のローンも組めないし、生命保険も入れない。そして私は癌になってしまったので、しばらくは生命保険に入れない。私がもし死んでも、娘と夫が困らないように。ちゃんと暖かい家で眠れるように。そのために家を買った。日本が恋しくて、帰りたいのに、コロラドに家を買った。私はこの家に何年住めるのかな、とも思った。

9月28日、明後日、抗がん剤治療があるのに、熱がまた出てきた。咳もでる。息が苦しい。どうしても片付けないといけない仕事があったから、死に物狂いで仕事した。その後も苦しい。夫が作ったものが何も食べられないから、白菜を使っておじやを作った。まずい。腐ってないのに、まずい。ここ数日、リンゴしか食べていない。

9月30日、抗がん剤治療の日。アスピリン、タイラノールを試して、熱をなんとか下げた。息が苦しい、でも、治療を受けられないと、精神的にきつい。治療の遅延はしたくない。早く終わらせたい。治療の前に医師との診察。はい、アウト。今日は治療を受けられない。代わりにPCR検査と胸のレントゲン。
…わかったことは、私はコロナに感染していて、肺炎にもなっているとのこと。苦しい。息ができない。このまま死んでしまいたい。それでも入院もできなければ、主治医も私にはつかなかった。そして、抗がん剤治療の担当医には「私には関係がない」とそっぽを向かれ、家での治療となる。

10月21日、なんとか熱は下がった。
この一か月、熱は上がったり下がったり。タイラノールは肝機能障害が起きる兆しがあったので、服用できなくなった。喘息の常備薬やインヘイラーを使っても、苦しさは改善しないで、つらい日々が続いた。食事もままならない。食べられるのはリンゴだけ。日中、呼吸ができるようになっても、就寝時、うとうとすると、息も止まる。起きてる限りは呼吸ができるのに、寝ると呼吸が止まる。体が呼吸するのを嫌がっているみたいだ。「ちひろはもう、なおっているのだから、息ができる。」と体に言い聞かせた。
苦しくて、悲しくて、情けなくて、涙がでた。そして、恐れていたことがおきた。体調は回復したのに、抗がん剤治療が受けられない。理由はほかの人にコロナを感染させる恐れがあること。個室で受けることもできるのに、病院の都合で断られた感じだ。抗がん剤治療をしなければ、私は死ぬ。そんな時に他人のことを考えている余裕なんて、ない。とはいえ、足はふらふらだし、歩いただけで呼吸は上がる。

11月4日、夫の粘り強い交渉のおかげで、抗がん剤治療を受けることができた。私を担当する看護師はガウンをきて、シールドをつけ、マスクと、頭にもカバーをかけた重装備だ。私もほかの患者からずいぶん離れたところに連れていかれた。それでも良い。治療ができるのだから、周りに嫌がられても、私は、娘のために生きなければいけない。そして、大嫌いな抗がん剤治療が受けられる事に、感謝した。

11月14日、背中にぶつぶつができた…と思ったら、背中じゅうに広がった。帯状疱疹だ。父が帯状疱疹で苦しんでいたから、すぐに治療が必要だと思い、薬局でガーゼと塗り薬を買った。ほかの箇所に感染らないようにガーゼで覆った。病院に予約をしようとするも、電話がつながらず、結局断念。3日後に控えている抗がん剤治療の時に医者に相談しようと軽くかんがえていた。

11月18日、抗がん剤治療に行った。が、今回も中止。理由は帯状疱疹。また、「他人に感染させる恐れがあるから」らしくない。ふざけるな。他人に遠慮して治療が遅延するなんて。ここはアメリカじゃない。自分のことは最優先で相手を思いやらない人ばかりのアメリカじゃないか。

12月14日、最後の抗がん剤治療。8回のうち前半4回の抗がん剤の副作用はそんなに辛くなく、吐き気はあったが、実際はいたのは1回だけだった。後半はコロナ、肺炎、帯状疱疹に罹患して治療以外の苦しみもあったが、後半は副作用の手足の痺れが辛い。足は痺れでもつれるし、手は、趣味だった洋裁やバイオリンもやる気がしない。会社でミシンの修理をするのもいつもの何倍も時間がかかる。手足の痺れの副作用は一年くらい続く可能性もあるし、生涯治らない人もいると聞いた。治療との引き換えに趣味を捧げろということか。


 最近の私は治療の副作用で嘆いてばかりだ。気持ち悪い。お腹が痛い。手足がしびれる…。治療ができる身体であること、環境に感謝しなければいけないのに。そんな自分が嫌になる。
抗がん剤治療が終わり、次は手術だ。治療前に外科医が私の検査結果をみて「手術ができない」と言わしめた私の腫瘍は小さくなったのか。不安を一つ解消すると、また次の不安が出てくる。
 MRI検査後、外科医と話した。およそ8センチだった右胸の腫瘍は4センチほどになっていた。手術内容は、両胸切除、左胸リンパ全撤去、だ。全部でおよそ8時間。術後回復してから、放射線治療の後、エストロゲンの分泌を抑えるためのホルモン療法との説明もあった。その時、夫から先生への質問が「エストロゲン=女性ホルモンの分泌が乳がんを引き起こすものならば、今回の手術の時に、エストロゲンを分泌する子宮も一緒にとっちゃったらどうですか。」さらりと言ってきた。
「ええぇ。両胸撤去+リンパ撤去でいっぱいいっぱいなのに、子宮もとっちゃったらどうなっちゃうの。」手術に不安がある上に、女であることの意義を持つ器官をすべて取られて、私としてのアイデンティティはどうなってしまうのかという不安も助長される一言だった。幸い、医師により、そのアイディアは却下されたが、私のアイデンティティを消去しようとも思われる夫の発言には腹が立った。後になって彼も必死だったのだなと今は思えるようになった。



1月5日、手術。一時からの予定だった。ところが、私の前の患者の手術が中止になったから早く手術をするので今すぐ来てほしいと9時ごろ電話がかかってきた。中止って…。そして今すぐって…。なんでもありなカンジ。来院したら、まず、手術の箇所にチップを入れるとかで、麻酔してすぐに針を刺された。まだ麻酔が効いていないようで、痛くて顔をゆがめたら「こんかことで痛がらないで。こんなのほんの序章よ。これからが大変なんだから。」って笑われた。今回の治療中、我ながら痛みに耐えてきたと思っていたのに、こんなことを言われるなんて。ちょっと悲しくなって、涙がでた。

参考:使った薬剤や副作用についての説明があります。私と同じ病気に罹患して、詳しい説明や情報を必要としている方に届きますように。

Chemo Class Intro and Labs: https://kp.qumucloud.com/view/PKK9c7e7lu2
Symptoms: https://kp.qumucloud.com/view/uA8seYFBX8E
Additional Info/What to Expect: https://kp.qumucloud.com/view/uThvpunYVKn


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