捨てられない絵

僕の部屋に、1枚の絵が飾ってある。

お米のような顔から手足の生えた、ふたりの人物が立っていて、その間に歪んだドングリのような輪郭の“時計”がある。なぜ時計だとわかるのか。それは、真ん中から針が2本伸びているからだ。時刻はだいたい9時。
この絵のキャンバスは折り紙の裏側。画材はおそらく水性マーカー。
息子のゆくりが、まだ小さな頃に描いたものである。

ここまでの描写で、これが、一体なにを描いたものなのかを推測できた方はすごい。この記事のカテゴリーが「映画ひとりごと」であることもヒントになるかもしれないが。


息子は昔はよく絵を描いていた。「はい、あげる」と、頻繁に描いた作品をくれた。なんなのかわかるものもあれば、わからないものもあった。
そして最初、僕にはこの時計とお米星人がなんなのか、ピンとこなかった。
「これなーに?」と尋ねると、息子は、
「バックトゥザフューチャー」
と言ったのだった。(正確には、こんなはっきりした発音じゃなくもっとヘンテコな言い方だったと思う。)

…お?…おお、あーーほんとだ!
僕は感激してしまった。これはパート3で、ドクとマーティーが記念撮影した写真じゃあないか。のちの未来(現在)で、町のシンボルの時計台となる時計の前で。よく見ると、切った黄色い折り紙を貼り付けた“枠“のような部分、これは“額”だ。額装されている。つまり完成した記念写真を作ったのだ。


「でかした」って一度は声に出して言ってみたい幻のフィクショナルな日本語シリーズのひとつだけど、このときホントに言えばよかったぜ。息子よ、でかした!
『バック・トゥ・ザ・フューチャー』は観せたら好きになってくれて、繰り返し観るくらい気に入ってたのを知っていたけれど、それを描こうと思ったとき、彼はこの部分を切り取った。そのことに父は感激した。これはでかしてる。完全にでかしていると言えよう。
名シーンは色々あるけれど、僕はこの記念撮影のシーンがとても好きなのだ。ふたりの友情と、物語の象徴である“時間”を、1枚の写真の中に留める。とても美しいシーンだと思うのだ。その後、ドクとマーティーは時に隔てられ、それぞれの人生を生きる。
パート3はあまり評判が良くないと聞く。しかし、僕はこのエンディングの、噛みしめるような寂しさと、それに沈み込まない爽快感に胸を打たれた。

話は少々遠回って、先日、アマゾンオーディブルで中国SF『三体』シリーズを聴き終えた。最高に面白い。あまりに壮大な物語(年表をだけでそのスケール感に笑えてしまう)なので、詳しくも上手くも説明出来ないけれど、もしこの宇宙に“時間”という概念が無かったら、果たして人は幸せだろうか、という問いかけが含まれている。

時間は思い通りにならない。時間は移ろい、悲しみも呼び込む。だけど時間があるから僕は感じ、考え、生きているのかもしれない。時間のことを考えるのは、つくづく奥深いと思う。

そんなわけで、この絵はなんだか捨てられない“作品”となってしまった。引っ越してもクリアファイルで挟んで運び、見えるところに飾っている。息子は中学生になり、僕はもうすぐ40代になる。ホントにあっという間に感じる。
絵の中では、お米みたいなドクとマーティーがいつも笑っていて、いつも9時だ。



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