スポーツの祭典がもたらしたもの
夏の打ち上げ花火のような華やかさや、太陽のような輝きや、一瞬の儚さに魅了された東京2020オリンピック競技大会が終わった。
そしてパラリンピックが開催されている今、今回、東京2020オリパラが日本で開催されてよかったと思えたことを備忘録的に記しておこうと思う。
これまで日本は、ジェンダーギャップ指数や差別的な事柄などの人々の意識は遅れていると、たびたびSNSなどで話題にのぼってきた。それが東京2020オリンピック競技大会が終わったタイミングで『国際オリンピック委員会(IOC)はこのほど、ジェンダー平等を推進するため、スポーツ報道の表現に関するガイドライン(指針)を発表した。』というニュースが飛び込んできた。
表現に関するふさわしくない実用例として「セクシー」「男らしい」などを紹介。さらに日本語版では「ママさんアスリート」「美しすぎる」「イケメン」「美少女」などの表現も追加し、女性選手を「ちゃん」や愛称で呼ぶことを問題視した。
ようやく日本もこのタイミングで具体的な問題として目に見えるように提示され、時代が動き始めたのを感じていた。
ところが、私が以前からファンの作家さんが、今朝SNSにこんな一文を投稿していた。
『普段から「奥さん」と呼ばれてもふつーに返事をしている』
そう、彼女は結婚していないのだが、年齢的なものなのか見た目的なものなのか、「奥さん」と呼ばれてしまっているというのだ。
それを見た私は、20代の頃、母とスーパーで買い物をしているときの出来事を思い出していた。鮮魚だったか精肉だったかの男性従業員が母に「奥さん」と話しかけてきて、いっしょにいた私はすごく驚いたのだ。と、ここまでのエピソードだとなぜ驚いたのか、むしろありふれた日常の出来事のようにも思える。
それは私の父は早くに病で亡くなり、母はバリバリ働いていたこともあり、子供の頃から私の中では「母は夫のいない人=奥さんではない」という意識でいたのだ。まぁ娘といるのを見れば「お母さん=奥さん」だったのかもしれないが、当時その場にいた私は、うまく言語化できない感情の答えが見つからないまま、月日が過ぎていった。
それと同時に思い出したことがもうひとつあった。祖母が生きていた頃、家に来た水道屋かなんかの男性に「おばあちゃん」と呼ばれ「私あんたのおばあちゃんじゃない」と言い放ったという痛快なエピソードだ。
そうなんだよ、その通りなんだよ。私が言語化できずにいた感情は、要はそういうことだったのだ。
これまで、なんとなくの慣習に倣うことを疑いもしない世の中の矛盾を、今回のオリパラを機に、見た目や年齢や性別やそういったことで人をカテゴライズしたり、評価することって違うよねってことが、広く世の中に投じられた。まるで文明開化のごとくそれは四半世紀の時を経て、私の中で答え合わせのパズルのピースがひとつ埋まった。
「スポーツの祭典」などと言われるオリパラは、選手として出場することや、勝ち負けや、夢中になって応援することはもちろん醍醐味の一つではあるが、東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会は、時代を意識を変えてしまうくらいの改革がもたらされたことが、最大の功績のひとつだったのではないかと思っている。
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