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18|モダニズムとか民藝とか、富山の家は揃っている

住宅街を車で走っていたら、前川國男の自邸のような家があった。とても格好良かった。中から知り合いが出てきて、庭の端につくられた鶏小屋のニワトリに餌をあげはじめた。前川國男の家みたいで格好いいですね、と話しかけると、パクりました、と笑っていた。こんな住宅街でもニワトリって飼えるんだなあと思った。

「民藝ってモダニズムじゃないの。機能的なものは美しい」

その後、昼ご飯を食べながら夫が言う。コルビジェの弟子、前川國男から連想したのだろう。夫は民藝がよくわからないという。

「いや、用の美っていう機能美の話じゃなくて、用即美なんだって。使うためにつくるものが美しくなる、わあ!っていう。そこに超越的な自然と、人の調和する地点を見出す、宗教的な、調和する地点には美しさがあるっていう話。機能美も物理とか、やっぱり超越性が関係してくるわけだから、どう違うのかっていうと…どこに置いても同じように機能する、物理そのものを形にするのは民藝じゃないと思う。その土地にある素材や気候風土と関係した生活の必要性から生まれてくるものが、美しく感じられるということだから」

「土地との関係性ね。じゃあバラガンだね。ローカルモダニズム」

「うーん……わからない…バラガンはいいよね」

私たちは新婚旅行でメキシコにバラガンの建築をみにいった。行くまでは、ピンクの壁の家って謎すぎると思っていたが、いざ行ってみると、私はバラガンの建築が大好きだった。

メキシコの気候風土には、ピンクの壁がぴったりと調和していた。日本の気候風土とは何もかもが違った。けれど、気候風土に何者かを見出す感覚には、近しいものがあるとも思った。

「ヨーロッパの近代建築も起源は貧しさにあると思うんです。バウハウスのオリジネーターたちは、近代建築の論理はキリスト教に非常に酷似しているということを言っていました。近代建築と宗教との取り合わせというとピンとこないかもしれないけど、ドイツの宗教革命を例に挙げると、あれはローマ・カトリック教会が免罪符を高額で売り出したのをマルティン・ルターが、お金がない人は買えないじゃないか、教会の堕落だ、と非難したことに端を発したものです。まさに貧しさへの輝きだね。本当の新しさはそんなところから生まれると思う」石山修武「経済合理性・物質性・美学ー「貧しさ」から建築の可能性を考える(建築雑誌2021年2月号)


モダニズムと信仰を民主化したプロテスタントが似ているのなら、それは信仰を民主化した浄土真宗とはおそらく似ている。浄土真宗と民藝には繋がりがある。柳は浄土真宗に民藝との共通性を見出しているし、富山の浄土真宗のお寺には民藝に共感した人たちが多くいる。ならばモダニズムと民藝も、貴族のものではない、民にかかわるものという意味で、似ているところはあるのかもしれない。

ただ、図式が違うと思う。「民主化の方法論」をつくりだして普及させることや、その方法を外側から取り入れてローカライズすることと、すでにここにある、価値を見出されていなかった民のものの価値を再発見することは、方向が違う。

私たちがやろうとしているのは、どちらかというと再発見のほう。でもそれを、世界中に汎用している現代の工業製品にもお世話になってやるから、純粋にわたしの解釈する民藝でもなくて、内実を書いていくと複雑である。文章が逆説だらけになってしまう。

たとえば断熱材は、基本的にはポリスチレンフォームやグラスウールという、ごりごりの工業製品だ。それらは外壁と内壁あいだに押し込まれるから、見えなくはなるのだが、その壁に竹を編んだ竹小舞と土壁が持つような力強さ、美しさは顕現しないと思う。

「自然に沿う」を「腐る」方向でかなえるなら、伝統工法だけでつくるほうがいいし、思想的にも格好良い。自然素材だけで断熱をかなえる方法もある。でも私はものすごく寒がりだから、断熱性能がよりしっかりしているほうを選ぶ。エゴイスティックだけれど、暖房を使うのならば、そちらのほうが総体としては環境負荷は低くなる。

お風呂はシステムバスをぽこんと入れるかもしれない。オリジナルな組み合わせには基本的にお金がかかるし、掃除や手入れにも自信がないから、手入れしやすさを考えられてつくられている商品がいいと思う。自然素材のほうが美しいけれど、カビとのたたかいに尻込みする。

工業製品が快適な暮らしをかなえてくれている現代においては、美しさよりも使いやすさ。そういう相が確実に存在する。予算からおのずと決まることも多い。

それらは全部バランスで、矛盾しないことを目指すわけじゃない。思考は突き詰めたがるが、目的は突き詰めることじゃなくて、住みたい家をつくることだ。

ただ方向性としては、モダニズムのローカライズじゃなくて、ローカルを工業製品も利用していいかんじにすること。

ローカルが先立つことが重要なんだと思う。

「最近『ふつう』という本を書いた。(中略)デザインや建築にとってのふつうとはなんだろうとよく考える。
 仕事でミラノとフランクフルトを往復することが多いが飛行機から眼下に家並みが見える。ドイツもイタリアもほとんどが緑で覆われその中にたまに集落が現れ見えてくる。集落は決まってテラコッタの屋根ばかりだ。家の形がほとんど似通っているのがわかる。これをふつうの家とするならば、日本は皆異なった姿の家を建てたがる。(中略)そのバラバラさが日本のふつうともいえなくもないが、やはり何か違和感を感じるし、よい心地がしない。(中略)
 しかしここが日本らしいところでそれぞれの家の品質や機能が極めて高いのはよくわかる。それが故にそこに住まう人からの文句は出ない。個としての分子の質はいいがデザインが悪いから集落としての美しさもない。自分勝手な家の寄せ集め感は否めない。なぜ個性とか自分らしさとかと同時に町全体の美を考えられないのだろう。」

同じ雑誌に、深澤直人さんの論考も載っていた。たしかにと思う一方で、なぜか富山は違うんだよな、とも思った。

特に県西部の、市街地から離れたところは、家並みがすごく揃っている。黒々とした瓦。白い漆喰と柱のコントラストが美しい外壁。土壁の納屋。伝統的建造物群保存地区でも何でもない普通の家々が、格好いい。

前に遊びに来た友人が、「富山の人は従順なんだね」と言っていた。揃っている家を見てそう感じたらしい。

新築や改築がうかがえる建物もある。それらもあえて「揃えて」いる。全体性への配慮、意匠意識を感じる。

どうしてだろう?というのはおそらく、浄土真宗が関係している。浄土真宗がある土地の精神性、我の主張のなさや、素直さみたいなものが、揃っている家と、全体の風景をつくっているのではないか。

見栄っ張りだからとか、人と違うことをしたがらないからとか、窮屈だとか、同質性が高い社会で居心地が悪いとか、マイナスな話も聞く。そういうのも、移住する人が増えてまぜこぜになっていったら、いい感じに変わっていくと思う。

「民藝はモダニズムのローカライズではないんだよ。土地との関係のなかから生まれてくるものの再発見。どちらかというと」

「じゃあ、バナキュラー建築やな。それを建築家が建てるっていうのは矛盾じゃないの?」

「いや、民藝の作家はいるから。民藝に流れているものに合流しようとするなら、作家とか作家じゃないとかは関係ない。あと、無名性といったって、それを一番初めにつくりはじめた誰かはいるわけだよね。その土地における革新者というかさ。富山のアズマダチだって、ずうっと昔からあったわけじゃないわけでしょ。やった誰かがいて、格好いいやんてみんな真似した。これは工芸風向の高木さんが言ってたけど、今の益子焼のイメージって、ほとんど濱田庄司がつくりだしたものなんだって。浜田が益子に来る前の益子焼とは全然違う。だから高木さんに言わせれば浜田焼きだと。でもそうは呼ばない。土地の中で、浜田の名前は消えてる。無名性ってそういうことだって。小鹿田焼だって、ずうっと昔から飛びガンナなわけじゃないんだって。やり始めた誰かがいる、知られていないだけで。だから、白黒というよりグラデーションのなかの、人と土地のどっちに力点が置かれてるかだと思う」

「民藝は、コンセプトからつくるんではないんだよね。美しいものがある、そこに共通するものはなんだろうって共通項を見出していった結果、無名性とかって言葉が出てきた。べつに民藝って言わなくてもいいんだけど、コンセプトがないとつくれないって君がいうから。『コンセプトなし』をコンセプトにするっていうこと」

「民藝は教えみたいなものだよ。方法論じゃない。教えとして、照らしてくる存在として意識するものだと思う」


参考:建築雑誌2021年2月号


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