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育児は身体にいい

子どもができてから、自炊が基本になっている。会社で働いていたときに比べると、とても健全な食生活だと思う。子どもがいると、いくら自分が忙しくても、食事を抜くことはできないから、何かしらつくる。できあいのものを買うこともあるけど少ない。これだけでかなり身体によさそう。

独身時代は、疲れすぎて風呂に入る余力もなく、いつのまにか床で寝てしまい、気づいたら朝で、身体が痛くて余計に疲れている、とかもよくあった。今は子を風呂に入れるのに自分も入るし、寝落ちするなら寝かしつける布団のなかだ。

保育園が休みの日はわたしも休む。それで、野原で遊んだり、海で遊んだり、公園に行ったり、外で遊ぶ。思いっきり走る。笑う。転げ回る。子がいなくても外には出るけれどこういう身体の使い方はしないだろう。ランニングやヨガとはまた違う、予測不能な動き。筋肉痛になりつつ、身体が歓んでいる感じがする。

小さい子どもがいると、生活がすっとばせない、省略できないものになって、生活が生活の中心になる。それは自主的に希望して、というより、ならざるを得ない、くらいのなかば強制力をもつものだが、そうでなければ、なんだかんだずっとPCに向かってるか、本を読むかばかりしそうだから、無理矢理にでも中断されるくらいが良いのだと思う。

淡々とした日々の暮らしは地味だが、地味であると感覚が開かれてきて、地味さのなかの差異を豊饒に感じられるようになる。それは認知の仕組み的にそうなっている。地味さのなかにあるちょっとした変化に気づけるようになるし、少し華やぐことがものすごく華やかに感じられる。お得であり、貪欲なことでもある。

子どものいる暮らしは親にとっては自由が制限される部分がある。でもそのおかげで、色々な意味で健やかに暮らせている。完全に自由だとして、わたしは自由意志だけではそんなにうまいこと自分にとって心地よい状態をつくることはできないと思う。つい面倒で食事をつくらない、買って食べる、自分への手入れを後回しにして横になる誘惑に負けてしまう、ネットを見続けてしまう、など。これはもちろんバランスで、自由がなさすぎると苦しいから、適度さが重要だけど。

子どもが先日4歳になって、自分でできることが増えて、たまにわたしは泊まりの出張に行けるようにもなって、たぶん今、不自由さと自由さのバランスがちょうどいいのだろう。これまでは不自由の割合が多くて、しんどかった。ただ今のわたしが「しんどい」と感じられることと、当時のしんどさは違って、わたしっていう心身が丸ごと違う状態にいた、とも思う。

こどもが0歳だったときは、ただただ生命に振り回されることが当たり前で、それしかなくて、わたしと子どもが生きている、それだけが至上命題で、わたしは自由を求めてすらなかった。少し休めればよかった。それが、子どもが成長するに従って、自由を求める心も戻ってきて、わたしが、わたしに帰ってきてる感覚が、毎年少しずつ増している。

子にもたらされた、あの、ただいのちに従って在るような日々は、今思えばとても特殊で、くるしくもゆたかな、それまで生きてきた、今わたしが戻りつつあり、子どもも向かいつつある社会とは、違う場に存在していた。

どこにも行ってないけど、わたしはものすごく遠い、遥か彼方に出掛けていた。異世界を生きた。そこで得たもの、ひらかれたものがたくさんあった。

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