見出し画像

自分のものさしで見てはいけない

子どもが自転車を漕ぎたいというので、モールにヘルメットを買いに行った。トイザらスは鬼門で、入ったら最後無傷では出られないから、できるだけ近寄りたくないのだが、ヘルメットは試着の必要があるから行くしかない。で、意外に、トイザらスはすんなりと出ることができて、あとはいくつか別の店に用事がありつつ、子が今使ってる水筒はそろそろサイズが小さいかも、どういうサイズ感のがあるのかな、何かいいのないかな、と水筒が置いてありそうな店をちょいちょいとのぞいていたら、子が、淡いピンクの本体にフルーツの絵がちりばめられている水筒と出会ってしまった。

「これほしい!」
「ああ、この色柄はかわいいね。いいかも?どうかな?」
「まだ大きすぎるよ。ほしいからって買ってたらキリがないでしょ」
「そうね、まだ大きいか」

夫はその場にとどまる子をかついで店を出た。子どもはバタバタと、店に戻ろうとする。私たちは店から離れていく。

「おみせにもどりたい~はやくもどってええええ~~~~もどらないとなくなっちゃゔゔゔゔ」

バタバタバタバタ、ビチビチ。ああこのイキのいい魚を抱える図みたいなやつ、久しぶりだなあ。子はなんとか地面に降りて、夫の手をひっぱって、さっきの店に連れて行こうとする。

あの水筒が、そんなに気に入ったのか。自分の欲しいものは他の人も欲しくて、早く手にしないと、無くなってしまう。きっと保育園で人気のあるおもちゃは取り合いみたいな、そういう感覚なのかな。

「じゃあ、6歳になってもまだ欲しくて、同じものがあったら買ってあげるよ。ただそのときにもあるかどうかは、わからない。あるかもしれないし、ないかもしれない」
「だめ!いまかわないとなくなっちゃう~~~!」

泣き始める。大泣き。絶叫。夫が別の店に入る間、わたしは子どもをおんぶする。

「すいとうがほしい~~~」
「すいとうを〜〜〜〜〜かってほしい~~~~」
「すーいーとーうー」大声で泣きわめく子ども。す、すごい情熱だなあ…
わたしは笑いがこみ上げてきて、マスクの中で笑ってしまう。泣きわめく子どもをおぶいながら爆笑してる母親。おかしい。で、また笑ってしまう。わたしはこういうときに笑ってしまうので、叱られることがあります。

大絶叫なので、みんながこっちを見る。また笑える。モールを出るといよいよ、店に戻れないことがはっきりして、泣き声はさらに大きくなる。すれちがうおばちゃんに、かわいそうにい、どうしたの、と声をかけられて夫婦で愛想笑いを返す。

「お腹がすいてるんじゃない?あと、もう眠いんだよ」
「すいとらんー!ねむくないー!すいとうがほしだけえええええ」

こんなに欲しいって、すごいなあほんとに。もう出会ってしまったんだから、我が家にあの水筒をお迎えしてもいいじゃない。どうせいつかは必要になるサイズだし。私と夫がこれいいね!て思うデザインだったら、抑えとこって買ってたと思うし。心が揺らぐ。でも夫は断固として買わない、という。それは子どもの心を鍛えることになりそうな、良い判断に思う。

今は、モールでもスーパーでも、こんなふうに泣きわめく子どもってあまり見ない。私は自分がそういうタイプの子どもじゃなかったから、子どもの頃は他の泣きわめいてる子をみて、どうしてそういう行為ができるのか全く理解できん、と思ってたけど、いまや見かけることがないから、欲しいものを買ってもらえなくて泣きわめく子って都市伝説みがある。それがここにいる。これって、何らか希少なものかも。ちょっと大事にしてみたい。

車に戻っても子どもはバタバタと泣いていて、涙で肌が荒れていた。

その日、子どもははじめて自転車に乗れた。はじめの30分くらいは車体を支えてあげたけれど、そのあとは一人で、バランスをとりながら、ペダルに足を置いて漕ぎだすことにチャレンジして、転んでもめげずに挑戦して、ついに漕げるようになった。家族で喜び合って、盛り上がった。果敢にチャレンジしていく姿に心が打たれた。

夜は疲れたのか、お風呂に入る前に眠気がきてしまったのを、夫が抱えて風呂に入れた。そうしたらバチっと起きて、「やーーめーーてーーーーーー」と、また水筒騒動のような大絶叫になったので、そそくさと風呂からあげて、寝かせた。

感情の振れ幅が大きな1日だったのだろう。泣きながらの大声の寝言が何度もあって、何度も起こされた。これも夜泣きのひとつなのかな。「すいとう~~~かってよおおおおおお」とも言っていた。そこまで水筒が心に強く残ったんだなあ。すごいな。わたしは4歳の頃、そこまで欲しいもの、あったかな。寝言でまでいわれると、また、心が動く。折れたくなる。欲しい気持ちに寄り添いたくなる。喜ぶ顔がみたくなっちゃう。

意志の強さ、想いの強さ、肯定感、主体性、自分から挑戦していくことと、わがままさ、自分勝手、自分こそがルール、執着、とかって、表裏一体に感じて、親としてどこをどうしたらどうなるのかってのは、なかなかわからない。自由にさせすぎても、抑えすぎても、何らかの反動はあるでしょう。ということはわかっても、どこが「すぎる」ポイントなのかは、わからない。子どもにもよりそう。

寝言でまで…と思うと、私は買ってあげたくなってしまうけど、夫は買わないほうがいい、という。人が二人いる意味ってこういうところ。これについてはなんとなく、買わないほうがおもしろいかな、やっぱり。


数日後。宅急便を送るために子と一緒にコンビニに行ったら、入り口付近にチープなおもちゃが色々と陳列されていた。コンビニ側の思惑に見事にひっかかり、「これ欲しい」という子ども。みると100円のボール紙でできた紙飛行機。こういう、買おうと思えば買えてしまうが、買っていいのかここで、みたいなものって困る。

「買わないよ。今日はおもちゃを買いにきたんじゃないから」
「じゃあ、いつだったらかえるん?」
「クリスマスプレゼントか誕生日プレゼントの時だよ(そうなのか?)」
「じゃあクリスマスプレゼントにして」
「え、あれでいいの?じゃあクリスマスの時まであったらね」
「いや!なくなっちゃう!いまかって!」
「じゃあ、水筒はどうするの?おかあさん、水筒どうしようかなって考えてたんだけど」
「すいとうはいらん。ひこうきにする!ひこうきがいい!」

…! 水筒いらんのかーい。

わたしの逡巡を返してほしい。

わたしは自分が泣きわめくタイプでなかったのに、それでも子に自分を投影して、あそこまで泣きわめくのだからよほど欲しいのだろうと考えてしまってたことに気づいた。どうやら、この子のあれはそういうことではないのだ。あたりまえだけど、私とは違うのだ。子どもって本当に他者、というかわたしと子の関係はそう。どういうふうでそうなってるのか、わからん。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?