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読みきりの短編や、中編・長編の試し読み
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記事一覧

[掌編]星を拾った日

琥珀色のパラフィン紙で幾重にもくるまれた星を買った。 不愛想な店主に軽く挨拶をして店を出た。インバネスに湿った空気がまとわりつき、空を見上げると、月が雲に隠れ、星も疎らにしか見えない。不意に肩を叩かれて振り向けば、店主が無言で黒い蝙蝠傘を差し出した。 夜半にさしかかった町は静かで、たまに車が通り過ぎるだけだった。私は周りに人のいないことを確認し、今しがた買った星を取り出した。 包まれている星はランダムで、開けてみるまでわからない。 何度か購入しているが、めあての赤い星

[短編]小夜と珈琲

 二年前から、ある地方銀行の保養所となっている小さな山小屋で働いている。  小屋は春から秋の間だけ保養所として使われ、管理人は網野さんという初老のご夫婦が務めている。既に還暦を迎えている彼らに代わって買い出しで町に行くほかに、ほとんど山から出ることはない。常に何かに追われていたような町での暮らしに比べ、山の暮らしは穏やかだ。  玄関を掃くために扉を開けると、涼しい風が吹いていた。下界はまだ暑い盛りであるにも関わらず、ここに吹く風は既に秋の気配で、アキアカネが空を覆いつくす

[掌編]球体関節人形

 その少女は、西側の昇降口から入ってすぐの階段を上った、三階にある美術室にいる。  肌は透き通るように白く滑らかで、栗色のまっすぐな髪は肩より少し長い。一直線に切り揃えられた前髪の下にある硝子の瞳は青みがかかった深い灰色で、レースのようにしなやかな、長い睫に縁取られていた。  僅かに開いた唇は小さく、赤いバラの花びらを思わせる。生徒たちから時代遅れだと評判の悪い制服も、彼女にはとてもよく似合っていた。  僕はそっと彼女の隣に座り、窓から見える夕陽を眺めた。  うっす

[試し読み]紅の石使い 第1話 天空の砦

 吹き荒ぶ風が顔を刺す。千切れそうなほど髪がうねる。感覚を失うほど皮膚が冷えていく。息をすることさえままならず、全身に大きな獣がのしかかるような風圧に耐え、薄く瞼を開くと、灰色の雲間を真っ逆さまに落ちていることを確信した。 *  そのときリックは迷子になった仔羊を探していた。父に言われ、数頭の羊を連れながら空を眺めていたときのことだ。リックの碧い目は白い半月が浮かぶ空を映し、ますます碧くなった。  流れる雲を目で追っていると、白い鳥の群れが滑らかに飛んで来るのが見えた。

[試し読み]モナート 第1話 おはよう、世界

 目が覚めたとき、私は少年になっていた。  ジュラルミンの台の上で身を起こすと、傍らには二人の人間がいる。ひとりはネイビーのスーツを着た眼鏡の中年男性で、もうひとりはモスグリーンのワンピースを着た白髪の老年女性だ。私はゆっくり首を回し、隣にある巨大な鏡に映った自分の姿を確認した。  瞳の色はサファイアのように青く、体は細身で肌は白い。プラチナブロンドの髪はボブカットにしてある。最初は少女と錯覚したが、骨格、体の凹凸、白と紺の水兵服に膝丈のショートパンツという格好から、十二

[試し読み]星の子供たち Episode.1 暁

さらさらとした砂ばかりが続く白い大地に、暴力的な太陽の光が照りつける。地表から草木が姿を消して千年、大気が薄くなるにつれ、紫外線は強さを増した。昼間は大人でも防護服なしで外を歩くことができないのだから、十三歳になったばかりの俺が、そう簡単に外へ出ることは適わない。 子供が外に出ることを許されるのは、陽が沈んだ後だけだ。それでも酸素が薄く、昼とは逆に凍えるほど気温の低くなった外に出ていられるのは僅かな時間。限られた時間で食い入るように見つめるのは、宝石を散りばめたような眩い夜

[掌編]珈琲と眼鏡

いつの間にか鼻まで下がっていた眼鏡を外すと、午後の三時を回っていることに気がついた。まだ昼も食べていない、と思った瞬間に喉が渇く。朝からディスプレイを睨んだままで、テキストが眼鏡のレンズに貼りついてしまったんじゃないかと思ったが、もちろんそんなことはなかった。 もう昼はいい。とりあえず珈琲を淹れよう。 珈琲を淹れる動機はそれが飲みたいからではなく、豆を挽きたいからだ。戸棚からミルを取り出し、銅のスプーンで豆を掬う。ハンドルを回してがりがりと豆を挽いているときに漂う珈琲の香

[短編]まくら工場の秘密

 そのとき私は、まくら工場で働いていた。 *  その工場は、陽あたりのよい丘の上にあった。そこで作られたまくらは、派手に宣伝をしているわけでもないのによく売れた。 「よいまくらは、存在を主張しません。そこにあることを忘れさせるのです」  出勤初日、老年の工場長はそう言って私に検針の仕方を丁寧に教えた。  仕事をする際は白い帽子に白いマスク、白衣を着用すること。ベルトコンベアで流れてくるまくらはやさしく静かに持ち上げること。まくらの表面に爪を立ててはいけないこと。指の腹で丁

[掌編]3月11日

 それは私がとても幼い頃の、春の日の話だ。  芽吹き始めたふきのとうをしゃがみこんで見つめていると、突然、地面が大きな影に覆われた。驚いて顔を上げれば、町を飲み込むほど巨大な黒いクジラが悠々と空を通り過ぎている。  クジラの皮膚は黒く、しっとりと湿り気を帯びていて、尾ひれが規則正しく上下する。その都度強い風が吹き、足元の乾いた砂を巻き上げた。  これほど大きなクジラが通り過ぎたにも関わらず、町で騒ぎ立てる人はいなかった。私だけが呆然と、その黒い塊を見つめていた。  悠然と空