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自己紹介をします。

はじめまして。振付家・ダンサー 兼 書道家の黒沼千春と申します。

このnoteでは、日々アーティスト活動を行う上でお伝えしたいこと、感じたこと、経験談や疑問に思っていることや、自分がタメになったなと感じることなどを書いていこうと思います。

今回は、noteの初回ということで、いろいろな方に聞かれることが多かった内容を中心に自己紹介をします。後から追記したり編集することもあるかと思いますので、長ったらしいところは飛ばし飛ばし、気になるところだけお目通しいただけますと嬉しいです。

自己紹介 | 黒沼千春 CHIHARU KURONUMA

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撮影:本橋千尋

日本大学芸術学部文芸学科卒業後、株式会社バンダイに入社。3年目で退職し、イギリスのTrinity Laban Conservatoire of Music and Danceへ留学、Diploma in Dance Studiesを取得。同時に、Trinity College London のProfessional Performing Arts Diploma LV4も取得し2015年に帰国。

帰国後、ダンス作品の制作と東南アジア・東アジアを中心にパフォーマンスやワークショップ開催、フェスティバルの参加を行い、日本国内ではミュージックビデオやCM、演劇、ライブなどの出演や振付を行う。

2020年からは、ジャグラーの岡本晃樹とI/O Multimedia Performance Companyを結成し、国内公演および、海外のフェスティバルに参加。


ダンスと書道の2軸で活動をしています。両方とも8歳からずっと続けてるのですが、両方のキャリアを一気に書くと訳が分からなくなると思うので、今回は、ダンスに絞って自己紹介をしたいと思います。

こうしてダンスの道へ進みました

日焼けした子猿。8歳でバレエを始める。

8歳から地元のバレエスタジオはじめました。

本当は、わんぱくで日焼けしてショートカットで子猿みたいでした。
サッカーをやりたかったのですが、引越し先で知り合いも友達もいなかった上、人見知りが酷かったので、集団になるサッカーチームに入るのが怖くて入れず……。

1年後くらいに、クラスメイトの2人に誘われて、しぶしぶ体験に行ったバレエが楽しくて3人で始めたら、なぜか最後は私だけ残っちゃった。

私が通っていたスタジオでは自分でダンス作品を振付する、ということを8-9歳のころにはやらせていただき、10歳くらいで初めて発表会に出た時には、自分が振付をしたパートもあったり。

中学生になるまでは、ダンススキルというよりは楽しくダンス作品を創って踊っていましたね。

高校になってから、新たな先生たちの出会いで、基礎を鍛えなおしていただいて、ちゃんどバレエの楽しさを知りました。

20歳の夏。私の人生を変えたジャズダンス


ジャズダンスクラス後

20歳の頃、バレエスタジオに講師で来てくださっていた先生の影響で、バレエススタジオに加え、都内の有名なジャズダンスのスタジオに行くようになりました。

今の私では考えられないほど、当時は「知らないところ」に行くことがとても怖くて、そのスタジオに通うようになるまで、実は1年くらいかかりました。(自分なんかが言っていいのだろうか、となっていました。)

そんな私がジャズダンスのスタジオに通うようになったきっかけはズバリ2つ。

①憧れの先生の背中を追いかけて

1年くらい新しいスタジオに行くかどうか迷っていた私。先生を他のスタジオまで追いかけていったら気持ち悪いと思われないかな、という不安が当時は強かったのです。

でも、その憧れの先生と飲みに行ったときに、「ジャズダンスやりたいなら、おいでよ!」と言っていただけた一言で、「こんな私でも行って良いんだ!」と思えて、すぐ行きました。(単純)

当時は、ジャズを踊りたい気持ちはもちろん強かったですが、それよりも、その憧れの先生の背中をとにかく追いたかった、という純粋なのか不純なのかわからない気持ちでした。本当に憧れていました。

ちなみに、この先生に憧れすぎて、ここから5年後にコンテンポラリーの道へ進むべく英語を猛勉強してイギリスへ行くことになります。

憧れ心というもののパワーは本当にすごい。

②ハイスクールミュージカル2のダンスに憧れて

もう一つの理由は、ちょうど20歳の夏に見たハイスクールミュージカル2のDVDに同時収録されていたリハーサルシーンを見て、ダンサーが大人同士で稽古場で練習しているシーンを見たことでした。

今までバレエばかりだった私にとって、ジャズダンスの自由さは眼から鱗でした。さらに、私が通っていたスタジオでは、いつも年下の生徒さんたちと踊っていたので「私も大人の現場で踊りたい」と思うようになりました。

それこそ、8歳から20歳くらいまでは他の夢があったので、ダンスは趣味で踊れたら良いと思っていたのですが、この夏にいきなりプロ志望になりましたね。

そのハイスクールミュージカル2のダンスシーン (本番の方)がこちら。今見ても格好いい。私もやりたい。笑

初めて受けたジャズのクラスは、いきなりプロ向けの人気クラスで、自分の踊る場所を確保するだけでも大変な混み具合。その中で、憧れの先生のようにうまく踊れるようになりたいという気持ちが凄かったです。


③背中を押してくれる方々のおかげ

上述のバレエの先生とはまた別のバレエの先生が、良い意味で厳しい言葉を投げかけてくれたり、一緒に外のバレエスタジオに連れ出してくれたりしていました。

留学するには年齢的に遅いとハッキリ言ってくれましたが、それでも私は行きたい!と大泣きしながら先生と一緒に日本酒を飲んだ日のことは一生忘れません。本当に感謝しています。

あとは、ジャズクラスを一緒に受けていた方、(通称ダンスの母)は、実は意外と引っ込み思案の私を、他のスタジオへ呼んでくださったり、レッスン後に落ち込んでいる私を励ましてくれたり、とても支えてくれました。

いろいろな方から反対されても押し切って留学まで至ったのは、この方の励ましで勇気づけられたからといっても過言ではないです。

よく、「君はエネルギーがあるから出来るんだよ…」と言われるのですが、めちゃくちゃ勇気を出したのです。


脱サラしてロンドンへダンス留学


Londonの街並み

一言でいうと、私は脱サラダンサーです。

大学卒業後、奇跡的に大手玩具メーカーのバンダイに新卒で入社しました。(倍率すごかったんだぞ!ドヤ!笑)

もともとダンサーになりたい気持ちはありましたが、会社員というものや、社会がどのように回っているのかを勉強したかった、ということもあり、会社員の道へ。

就職をしたことで、平日の昼間に多くあるのプロフェッショナルクラスを受けることを断念して、平日の夜と土日に踊れるクラスで踊っていました。友達との遊びよりダンス。旅行に行くにも、ダンスクラスが終わってから新幹線や特急で合流してました。とにかくレッスンは絶対休まなかったです。

新卒1年目は毎朝4時半起きで出社してましたが、ダンスを受けに行く日は終電まで踊って帰ってましたね。若かったからできたことですね。今は無理です。

職場では、英語も全然できないのに周りは留学経験者、帰国子女、海外勤務経験者ばかりの外資系のような部署に配属されちゃいまして、英語ができないことで迷惑をかけてしまうことと、悔しさで、社内の英語部に入ったり、とにかく英語は死ぬほど勉強しました。

そんなこともあり、海外留学に興味が沸いて、留学経験者のバレエの先生に相談をしたり、自分でエージェントに当たったりして、2年準備をしてから25才で会社を退職して、ロンドンのTrinity Laban Conservatoire of Music and Danceという学校に入学。

Trinity Laban 校舎

25才でダンス留学って、一般的には結構遅いと思っていまして、どきどきしながら留学しました。でも、私のコースは大学と大学院の間のコースのようなポジションだったので、10代後半~40代まで様々いて、これも本当に1年間死ぬ気で勉強しましたね。

自分のコースには日本人がいなかったことと、プレゼンの機会が多く、英語力は一年で半端なく上がりました。休日も、プロジェクトを詰め込んで、とにかく留学期間を無駄にしないように勉強しました。一時期ストレスで、ストレス性難聴なんかにもなりましたが、現地で出来た友人達に支えられながら、とにかく無我夢中で勉強してました。

そしたら、卒業式で、まさかの賞を受賞して表彰されました。えへへ。

東南アジアを回りまくった20代後半

イギリスで、大学院に行く話まで固まっていたところで、当時テロがヨーロッパ周辺で勃発しており、VISAのガイドラインが変わってしまったことで、泣く泣く帰国の道をたどることになります。

だからか、どうしてもイギリスに戻るぞ!という熱意はあったものの、貯金が底を尽きていたので、お金をためつつ働いていました。

すると、ロンドン時代の友人で台湾人の子から、台北フリンジフェスティバルに参加するから、振付をしてほしいというオファーが来て、一つ返事で台湾へ行ったことから、あれよあれよと、色んなご縁で、カンボジア、タイ、マレーシア、ラオス、シンガポール、韓国などの様々なプロジェクトやフェスティバルに参加させていただくことになりました。

営業にもたくさん行きました。めちゃくちゃ体当たりでしたが、下心で誰かに近づくことはせず、素直にぶつかっていったのは本当。だからこそ人を次々と紹介してもらえたりしたのだと思います。ありがたかったです。

初めてのソロ公演をTPAMで上演

2020年に初めてのソロ公演「点x線|Dots x Lines」をTPAM (Tokyo Performing Arts Festival) で上演。

スタッフにダンス関係者が一人もいないという不思議なメンツでしたが、本当に皆ボロボロな私を助けてくれました。感謝しかないです。

ソロ公演でしたが、2日で100名ご来場いただきました。バンダイ時代の元上司や、高校の先生なども来てくださいました。本当にありがとうございました!

しかし、この会期中からコロナが広まり始め、魔のパンデミックの闇に飲まれていくのでした。

I/O Multimedia Performance Companyの設立

I/O Multimedia Performance Company

2020年に、梅田宏明さんの振付家ワークショップに参加した際に知り合ったジャグラーの岡本晃樹さんに声をかけてダブルビルで公演を行うプロジェクトを立てました。

TPAM, YPAMをきっかけに、海外の様々なフェスティバルにデジタルツアーで作品出品させていただくことができました。

2023年のEdinburgh Festival Fringe では、私だけ現地で公演をしてくる予定です。
(オンラインではダブルビルで上演します。)

I/Oの話はとても長くなるので、詳しくはまた今度。



Core Collective

コアコレ

こちらも、振付家ワークショップで知り合った方々を中心として、舞台芸術に携わる方向けのコミュニティとして立ち上げました。

当初は、また他の目的があったのですが、今の形に落ち着いてきました。

今後も色々企画があるので、改めてご案内します。


これから自分が目指すもの・やっていきたいこと

私が目指すものは、イギリスのサドラーズウェルズで公演をすることです。

Brexit以降、イギリスのプラットフォームが正しいのか、とか、日々勉強をしているこういうマーケットに対して正しいのかはちょっと横に置きます。

私のとても尊敬している方がサドラーズウェルズで踊っていて、とても憧れを持ちました。

更に、私の大好きなNew Adventures (マシューボーンのカンパニー)をサドラーズウェルズで観た時に、自分の作品をここでやりたいと思いました。

私の夢です。本当に理想郷を掴むような夢ですが、夢があると私は前に進めるのでとても大切にしています。

もちろん、日本国内でもアジア圏でも他の国でも目指したい場所はたくさんありますが、そのお話もまた今度。


長くなりましたが、自己紹介はこの辺で。






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