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野草とともに暮らす



【反料理主義】


近所の人のところで、スロヴァキア風のすばらしいグーラッシュをごちそうになったときに、スーパーでもらえる料理マガジンを一部持っていかないかと聞かれた。そのときはとっさに、「私、料理しないから」と断ったのだけれど、あとになって、料理しないわけじゃなかったなと思いついた。

料理の本に載っているような料理など、もうずいぶん長いこと作っていない。レシピ通りに作ろうと思ったら、あれこれの材料を買いに行かなければならないわけだけれど、そもそもスーパーに入ることさえ、もうほとんどない。自然食料品店には週に一回くらい行っていたけれど、それも食料品店内でマスク強制になったときから行っていない。卵やはちみつ、玉ねぎなどを農家の無人販売所で買う以外は、ネットで穀物とかオイル、塩などまとめ買いしている。

ネット買いした穀物類に、その季節ごとにある野草やキノコなどを使って、その場その場で料理して食べているだけなので、料理なんていうものでもない。そういう食生活を送っていると、料理に手をかけるのがどんどん面倒になっていって、ますます料理がシンプルになっていく。

食べ物は手をかければかけるほど、素材の味は失われていく。春先の野草の若葉などは、摘んだのをそのまま口の中に入れるのが、一番おいしいくらいだ。だから、サラダさえ作る気になれず、庭を歩きながら牛みたいモグモグ草を食べていたりする。

野草のキッシュとかクリームスープとかもよく作っていたけれど、それもこの頃は作る気になれない。そうすると野草でも、いかにもちゃんとした料理という感じにはなるのだけれど、それよりもシンプルに炒めものにでもした方がおいしいと思うようになった。穀物は穀物でシンプルに炊いて、野草は炒めものにしたり、菜飯みたいに入れたり、チャーハンにしたりだ。この頃は、そういう風な最小限の手間しかかけていないようなものばっかり食べている。

前は料理にはずいぶん凝っていて、レシピ本もずいぶんそろえたし、お店でいろんな食材を買ってきて、あれこれ作っていた。フランス料理も日本料理も中華料理も作った。だけどどこの料理も、つまるところ、その土地で採れるおいしい食材がおいしく食べられるように料理を作っているわけなので、そういうものをスーパーで買った食材で作るとなると、結局はスーパーの料理にしかならないのだ。

そして、スーパーというところは、そういう料理を作らせて、なるべく多くの食材を買わせるように商売していて、そのために料理レシピのたくさん入った宣伝雑誌なんかを配っている。こういう食生活をするのが豊かなことで、そういうのがちゃんとした家庭だみたいなイメージが作られていたわけなのだ。

この頃、豊かさのイメージというものが、実は産業主義によって作り出されていたものにすぎないということに気づいてしまったせいか、もうそういう豊かさとか、こういうのがちゃんとした生活だみたいなものが、どうでもよくなってしまった。どうでもいい以上に、そういうのがもう退屈に思える。いくら立派でも、何だか中身がスカスカしていて、見せかけだけのようだ。それよりも、冷凍ものの野菜の味がないことや、スープストックの化学調味料の味が気になってしまう。

スーパーで買い物していた頃は、今思えば、加工食品をずいぶん買っていた。加工食品をだんだんと買わなくなっていったのは、実のところは、プラごみを減らしたかったからだったのだけれど、プラスチック容器に入ったものを買わなくなったら、加工食品はプラスチックのにおいがついていて、味気がなくなっていることに気がついた。あの頃作っていたあれこれの凝った料理も、結局は味気のない食材をそれなりにかっこうつけた料理にするようなものでしかなかったような気がする。

今は、加工食品といったら、野草やキノコや果物などを保存するために自作したようなものが、うちにはたくさんある。季節になると、食べ切れないほど採れるのを、瓶詰めにしたり干したりして、保存しておく。冬の間は、だいたいそんなものを食べている。果物やベリーはコンポートにしたりジャムにしたり、あるいは干しておく。それで、そういうものをおいしく食べるための料理ができる。

コーヒーはタンポポの根っこやドングリで作っているし、紅茶は白樺やヤナギランの葉っぱで作っている。出汁にはイラクサの根っこやキノコの茎を干したのを使っているし、ハーブソルトやキノコの塩もある。そういうものをあれこれ作っているから、けっこう手をかけてはいるわけなのだけれど、それは、料理に手をかけていると言えるようなものでもない。

毎日、ただ玄米かキビを炊いて、それを菜飯とかチャーハンにして食べている。あるいそのまま、茹で小豆と一緒に食べている。小豆を煮るのもキビを炊くのも、水を入れて、薪ストーブの上に置いておくだけのことだから、料理しているという感じもしない。それで、そのときどきに生えている野草を採ってきて、炒めるなり塩もみするなり、あるいはただ刻むなりして、食べている。キビと小豆だったら、そこにシソで作ってあったふりかけをかけたり、チャーハンなら干してあったイラクサの種とかクレソンのハーブソルトとかをかけたりする。

あるいは、どこの料理ももともとはそんな風にして、土地で採れるものをそのときどきに使ってこしらえた食べ物にすぎないのかもしれない。その土地の素材でその季節に作ってこそ、おいしい食べ物であり、運ばれた素材を買ってきて作っても、見かけだけのものにしかならないのかもしれない。料理をするということが、あまりにも消費生活と一緒になってしまって、本来のものから離れてしまっているのかもしれない。

このところ、料理とも言えないような料理ばかり作って食べていて、料理をしているという自覚もないくらいなのだけれど、消費社会の中でできていった料理文化など、もう終わっていく時が来ているのかもしれないと、この頃思ったりする。グローバル企業が作り出す流通チェーンも不確かになり、化学物質や遺伝子組み換え食品で汚染された加工食品がチェックされなくなってきた今、もうこういう消費生活をやめるべき時が来ているということなのかもしれない。


野生のクレソンをたっぷり入れたキビのチャーハン


茹で小豆とキビ。庭の紫蘇を干して作ったふりかけをかけて食べる

2023年4月4日


【自家製のサイダー】


4月になってからまた冷え込んで、天水桶の水に厚い氷が張ったりしていたけれど、陽が射すととたんに春の陽気で、そうするとサイダーが飲みたくなってくる。

ペットボトル入りの飲み物を買いたくないので、飲み物ももう何年も自家製のものしか飲んでない。庭や森に生えるベリー類のシロップとかリキュール、それかこの辺で自生しているエルダーフラワーのサイダーだ。

エルダーフラワーは、6月頃に甘い香りのする白い小さな花をつける。その花の房を10個くらい摘んで、水と砂糖に漬けておく。3日くらいして香りが移り、発酵しかけたら、密封できる瓶に詰めて、地下室に6週間くらい置いておく。そうすると、見事に発泡する香りのいいサイダーができあがる。

このエルダーフラワーのサイダーは、一年以上置いておくと、わずかにアルコール化して、シャンパンになる。だけど今頃のは、まだアルコール分はほとんどない。

密封の加減の問題なのか、瓶によってよく発泡してたりしてなかったりする。中には、酸味がついてお酢になってしまっているのもある。お酢になってしまったのは、サラダのドレッシングに使ったりすると、これがまたすばらしい香りのするサラダができあがる。自家製のものは、どうなろうと何かに使えるという面白さがある。

それで、この春初めて、去年の残りのエルダーフラワーのサイダーを開けた。意外とまだすごく発泡していて、開けたら噴き出してきて、キッチンのテーブルに水たまりができた。ほどよく酸味もついて、すばらしくおいしいサイダーになっていた。

エルダーフラワーが終わると、空いたサイダーの瓶に松葉のサイダーを仕込んでおいたので、一年中何かしら飲み物はあることになっている。水と砂糖と自然の植物が発酵しただけの飲み物で、ケミカルな添加物も農薬もまったく入ってないし、プラスチック容器のにおいもついてない。

こういうのを飲んで暮らしていると、お金もかからないのに、生活が実に豊かだ。買った飲み物では、どんなに完璧にできていても、やっぱりお金の味しかしないような気がする。それまでは当たり前だと思って、そんなことは考えもしなかったけれど、買う生活から離れてみると、そのことがよくわかる。


去年の6月の写真。エルダーフラワーを水と砂糖に漬けたところ


庭のエルダーフラワー。生け垣のところに自生してきた。自生してきたエルダーフラワーは、家の守り神だと言われている。

2023年4月6日


【野草サラダと木の芽のお茶】

野草サラダの材料。
タンポポの葉っぱ、菜種タビラコ、玉ねぎの葉っぱ、ニンニクガラシ、ペンペン草の花


最初のタンポポが咲き始める頃になると、野草の葉っぱが柔らかくなって、生でもおいしく食べられるようになる。そうなると、朝ごはんは野草のサラダになる。

竹ザルを持って、庭を一回りして、その日のサラダの材料を集めてくる。今はタンポポの葉っぱが主になって、そこに菜種タビラコが少しとニンニク辛子の葉っぱ、それにペンペン草の花と、畑に残っていた玉ねぎの葉っぱを添える。

その時に生えているものを集めてくるので、入るものは毎回違う。今は、花はまだペンペン草とヒナギクくらいだけど、順にタンポポが入り、フウロソウが入り、ヘラオオバコが入り、ヤロウが入り、と変わっていく。

6月くらいになると、葉っぱよりも花が多いくらいになる。野草サラダの季節は、その頃までだ。花がつき始めると、葉っぱはだんだん固くなってくる。苦みを帯びてきたりもする。葉っぱがおいしくなくなってきたら、それは、もう食べないでくれと、野草が言っているということなのだ。あとは、植物が根っこを育てたり、種を作ったりするのに必要な葉っぱだから、採らないでおいておく。

ニンニク辛子は、葉っぱがニンニクみたいな味がするので、これを何枚か刻んで入れたら、サラダドレッシングはオイルとリンゴ酢と塩だけでいい。

春先の野草サラダの味は、マイルドだけど、栽培種のレタスなんかには絶対にないような味の濃さがあって、何よりも春先に勢いよく伸びる成長の力を、身体のすみずみまでもらえるような感覚がある。この味に比べたら、畑のルコラだって要らないくらいだ。自生する植物の生命力の強さなんだと思う。味とか栄養とかいうよりも、この生命力をもらっているという感覚なのだ。それを全身の細胞が味わっているような感覚がある。

あと、今の季節の楽しみは、木の芽を摘んできて淹れるお茶だ。今日はちょうど山桜の新芽が出てきていたので、いくつか採ってきてお茶にした。この山桜も、この辺に自生している植物で、勝手にいろんなところに生えてくる。残しておいたら大きくなって、花も咲くけれど、残さないのは、新芽を摘んでお茶にする。ほんのり桜の香りがするお茶になる。

今日は桜の他にブラックベリーの新芽も摘んで、一緒に淹れた。出たばかりの木の葉は、まだ柔らかくてそのままでも食べられるし、お茶にしてもいい香りだ。この先出てくる白樺の葉っぱのお茶もおいしいし、ナラの葉っぱもパワフルな味のお茶になる。

こういう木の芽のお茶も、味とか香りとかいうよりも、命の力をもらっているという感覚なんだと思う。舌で味わうというんじゃなくて、全身で味わっているような、不思議な感覚のものなのだ。

春先の野草サラダ


春先の野草茶の材料。ブラックベリーと桜の若葉

2023年4月7日


【天然の出汁の素】

西洋イラクサの根。水洗いしたところ。


春先に芽が出はじめるときは、根っこを掘るときでもある。葉っぱが伸び始めてしまうと、根っこはやせてきてしまって味が落ちるのだけれど、まだ芽が出たばかりで葉っぱが伸び切っていない頃なら、いい根っこが掘れる。

イラクサは根っこで越冬して、春一番に葉をつけるのだけれど、この根っこが意外にもすばらしい出汁になる。イラクサはタンパク質が多いので、葉っぱもちょっとムッとするような肉っぽさがあるんだけれど、根っこもまたタンパク質が多いのかもしれない。根っこを掘り出して、よく洗って、適当に切って干しておくと、これを一切れ二切れスープに入れると、こんなんでけっこういい出汁が出てしまう。

出汁になるものは他にもあって、森で採れるキノコなんかは、干しておいたらすばらしい出汁になる。和風の出汁だったら、何といってもハナビラタケがいい。これを干したのを少し水から入れて煮たら、あとはちょっと鰹節でも入れたら、清汁にもなるし、味噌汁もいい。秋にたくさん生えてくるカラカサタケは、塩と一緒にしてすり鉢ですって干して、キノコで作るハーブソルトみたいなものを作っておくと、これだけでスープストックみたいな感じに使えてしまう。

木の切り株に小さいのがたくさん生えるセンボンイチメガサやナラタケみたいなキノコは、茎をそのまま干しておいて、出汁みたいに使っている。クリームスープとかだったら、イラクサの根っことセンボンイチメガサの茎、カラカサタケの塩くらいで、十分いい出汁が出る。

あとは、野生のクレソンで作るハーブソルトがすばらしくて、これはけっこう何にでもよく合って、いい香りをつけてくれる。ハーブソルトはいろんな野草で作れるんだけど、クレソンの塩が何といっても最高で、この頃はクレソンの塩だけ季節のときに一年分くらい作っている。これは、ふりかけみたいに食べてもおいしい。

前は市販のスープストックとか使ってたこともあるし、加工品買うのやめてからは、ガラや骨付き肉とかでスープ取ったりもしていた。肉料理しなくなってからは、根菜やパセリで作るヴェジタリアンの出汁を使っていた。だけど今は、庭や森で採ってくるもので、実に野性味のある出汁を取っている。根っこだの茎だの、食べられないようなもので出汁が取れてしまうというのが、また自然の面白さだ。

天然の出汁の素。イラクサの根、クレソンの塩、カラカサタケの塩


森の中に散在している花崗岩の巨石

2023年4月10日


【野草のスープ】

イラクサのスープ


今年は復活祭が終わっても、寒い日が続いているのだけれど、春になって伸び始めた野草の葉っぱが、その分柔らかいままなのは、ある意味いいことかもしれない。

春先の野草の葉っぱは、実に柔らかくて自然の甘みがあり、生のままでもおいしく食べられる。これから野草の葉っぱはいよいよ繁り始めるけれど、でもこの柔らかさと甘みは、この季節だけのものだ。

だから、今のうちに食べないと思って、この頃はザルいっぱいにタンポポやイワミツバの葉っぱの柔らかいのを摘んで、サラダにして食べている。ニンニクガラシやシャク、玉ねぎの葉っぱの刻んだのを薬味に入れて、あとはオリーブオイルとお酢とクレソンの塩だけだ。

そろそろイラクサの新芽が伸びてきたので、今日はたっぷり摘んできて、ポタージュをこしらえた。新芽が生えてきた頃は、塩もみにして玄米ご飯に混ぜて、菜飯にして食べていたけれど、こう伸びてきたら、たっぷり食べられるポタージュがいい。

イラクサというのは、とにかく生命力の強い植物で、摘んでも摘んでも、あとからまたすぐ生えそろってくる。だから、イラクサさえ生えさせておけば、飢えることはまずないんじゃないかと思う。葉緑素が濃厚で、鉄分も豊富だし、何よりタンパク質が多いから、これだけでも栄養もかなり間に合ってしまうんじゃないかと思う。痩せた土地、荒れた土地でも生えてきて、タンパク質たっぷりの葉っぱを繁らせてくれる。イラクサは細かい根っこを地中に張りめぐらせて、荒い土も細かくしてくれる。

イラクサのほかに、イワミツバとシャクも摘んできて、一緒にポタージュに入れると、香りがいいスープができる。イラクサはちょっとヌメッとするくらいタンパク質が多いので、これがヴォリューム感のあるスープになる。それだけでもいいんだけど、イワミツバやシャクを入れると、ちょっと春らしい香りがつく。

玉ねぎを少し刻んでオイルで炒め、ジャガイモ一個くらい皮をむいて小さく切ったのを入れ、そこに葉っぱをザッと刻んだのを入れて炒め、水を入れる。そこに、イラクサの根っことかキノコの茎とか、出汁にするのに干しておいたのをが一緒に入れておく。それでジャガイモが柔らかくなるまで煮たら、ハンドミキサーでポタージュ状にして、豆乳を少し入れ、あとはハーブソルトなんかで味つけする。

イラクサのスープは少し濁った緑色で、見栄えはあまりよくないんだけど、これを背景にして、食べられる野草の花なんかを飾ると、とたんに春らしいスープになる。今日は雨でタンポポがつぼんでいたので、その開いてない花を2つに裂いて載せてみた。

イラクサのスープにエディブルフラワーを飾るのは、フランスの高級料理店でやっているのをテレビ番組で見たことがある。それは、イラクサのスープの緑を池の表面に見立てて、キンレンカのオレンジ色の花びらと小さな蓮の葉っぱみたいな葉っぱを浮かべて、モネの睡蓮みたいな絵をこしらえていた。

だけど、飾る花はそのときにあったもの何でもよくて、緑色の背景にどれも見事に映えてくれる。

2023年4月18日



【草タワシの季節】


5月も近くなって、草が伸びてくると、私にとっては、草タワシの季節が来た、ということになる。イネ科の繊維の硬い細長い葉っぱは、食用にはならないけれど、この硬い繊維のおかげで、何かを洗ったり磨いたりするのには、すばらしい素材だったりする。

もともとは、プラスチックフリーの生活をしようと思って、スポンジの代わりになるものを探していたのだった。スポンジもアクリルの古着で作ったタワシも、洗うたびにマイクロプラスチックが下水に流れていって、これが分解されずに海まで流れて漂っているという話を聞いてから、使うのをやめた。

ゼロウェイストショップにヘチマを輪切りにしたタワシとか売っていたので、そういうのを買ってきて使ったりもしていたけれど、それほど長持ちするものでもない。庭でヘチマ栽培しよう思って種を蒔いてみたりもしたけれど、標高600メートルで気候が寒冷すぎるせいか、まるきり育たなかった。

キャンプしながら自転車ツアーしていた頃、食器はいつもその辺に生えている草で洗っていた。特にイネ科の細長い草がよく洗えて、食器がピカピカになった。そのことを思い出して、庭に生えている草を刈り取って、それをタワシ代わりに使ってみることにしたのだ。

やってみたら、これがなかなかすばらしい道具だということに気がついた。どんな汚れもよく落ちるし、草の成分のせいなのか繊維のせいなのか、洗剤も使わずに、実にさっぱりときれいになる。洗ったあとは、草の香りがほのかにして、洗い上がりのさわやかさがハンパじゃない。

食器を洗うのも、シンクやバスタブを洗うのも、草タワシだけで実にさっぱりきれいになる。油汚れだったら、タワシをジャンジャン使い捨てにしてしまえばいいし、使ったタワシはコンポストするから、食用油もみんな下水に流れずに、いい肥料になるわけだ。

草タワシを使ったときの独特のさわやかさは、すべてが無駄なく循環していくというその感覚なのかもしれない。スポンジとかを使うと、汚れとしてスポンジについてしまって、それを洗わなくてはならなくなる。だけど、自然のものを使ってコンポストしてしまうと、汚れというものがそもそも存在しなくなってしまうのだ。どんなものも皆土に還って、養分になる。無駄なもの、排除しなければならないものというのが、生活の中に存在していない。それが実に潔い感じがする。

最初はただ草を束ねて縛ったりして使っていたんだけれど、三つ編みにして丸くすると、草がバラけないで使いやすいということがわかったので、この頃は草を刈り取ると、三つ編みにしたタワシをいくつも作っておく。

草のある季節は、ずっと草タワシで何でも洗っている。床掃除も、草を一束刈ったのを床に撒いて箒で掃いている。冬になって草が枯れて使えなくなったら、次の春になるまでは、亀の子タワシとかへちまタワシとかを使っている。だから、春になって草が生えてくると、いつ草タワシができるくらいに草が伸びるかと、楽しみにしているのだ。

草タワシにする草
草タワシ


2023年4月25日



【自然のサラダ畑】

トゲヂシャ Kompass-Lettich サラダの原種


タンポポが庭中に咲き始める頃になると、タンポポの葉っぱはそろそろサラダで食べるには固くなってくる。そうするとうまい具合に、別な野草がサラダに食べ頃になってくる。

去年はどういうわけだか、ほとんど生えてこなかったトゲヂシャが、今年はあちこちに群生している。トゲヂシャは、レタスの原種なのだそうで、だから野生のレタスだ。トウが立つ前のトゲヂシャの葉っぱは、柔らかくて、このままサラダで食べられる。確かにレタスみたいな味がするけど、レタスみたいに水っぽくはなくて、葉緑素たっぷりの濃厚な味がする。

ナタネタビラコは、トゲヂシャよりも味が淡いんだけど、今頃のトウが立つ前の葉っぱは、サラダで食べるのにいい。ナタネタビラコはトウが立ってしまうと、あっという間に葉っぱが細く固くなって、おいしくなくなってしまう。この野草は、真冬に地面が凍っても生え続けていて、その頃の葉っぱは分厚くなって甘みがあり、菜っ葉みたいに煮たり茹でたりして食べられる。ナタネタビラコは、冬に食べるのが一番おいしいんだけど、今頃の葉っぱはサラダ向きだ。

それから、今頃のサラダに入るのは、イワミツバの葉っぱだ。今頃、地面に一面に生えてくる葉っぱは、まだ透き通った緑で、こんな風に透き通っているのは、柔らかくてジューシーなので、そのままサラダで食べるのが最高だ。

イワミツバは、ミツバそっくりの味がするので、お汁に入れたり、スープに入れたり、いろいろに使えるけれど、サラダには、生えてきたばかりの透き通った葉っぱを集めてくる。これは、お汁に入れたりするには、ちょっと香りが淡いんだけど、サラダにはぴったりだ。これは、今だけ食べられる季節の味だ。

ニンニクガラシは、葉っぱがニラみたいな味がするので、薬味みたいに葉っぱを何枚か刻んでサラダに入れる。これも去年は何故だかちっとも生えてこなかったんだけど、今年はあっちこっちに生えてきてくれた。これは、炒め物にしてもおいしいやつだ。

野草というのは、どこにでも生えるようでいて、実はけっこう気難しい。生える場所にしか生えないし、生える時にしか生えてこない。植物には植物の事情があるのだと思う。どういう条件で生えてきたり生えてこなかったりするのかわからないけど、とにかくいつも何かしらはあるようになっているから、植物はちゃんと私たちのことも考えてくれているんだと思う。植物は、人間が考えるよりずっと大きな共生感覚で生きているのに違いない。だから、何が生えてきたりこなかったりしても、それは植物たちに任せておけばいいのかもしれない。


菜種タビラコ
イワミツバ


ニンニクガラシ

2023年4月26日


【春の薬草リキュール】


5月が近づいてくると、日が射せば庭のタンポポが勢いよく黄色の花を開き始める。森の家の庭では、草刈り機で草を刈ったりはしていないので、タンポポの株が大きくなって、びっくりするくらい大きな花を咲かせる。草刈りしているところでは、今頃はタンポポが一面に生えるけれど、花はずっと小さい。タンポポとはそういう大きさのものだと思っていたけれど、森の家に来てから、自然のタンポポはずっと大きくなることを知った。

それで、花が咲き始めたタンポポを掘り出して、今年初めての薬草リキュールを漬けることにした。タンポポの他に、ヘラオオバコ、欧州ヨモギ、西洋ダイコンソウも根っこごと掘り出して一緒に漬けた。

根っこをきれいに洗って、適当に切って、瓶に入れて、ホワイトリカー1リットルに対して、砂糖100グラムほど入れる。これを暗いところに6週間以上漬けておけば、液が黒っぽくなって、トロトロしたおいしい薬草リキュールができあがるのだ。

リキュールが飲みたくなるのはだいたい寒くなってからなので、それまでにまた生えてきた薬草をあとから入れたりする。5月になれば、ヤロウやスギナが生えてくるので、それはあとから入れようと思っている。

森の家で暮らすようになってから、リキュールを漬けて飲むのが楽しくなった。それまでは、リキュールを飲む趣味はなかったんだけど、庭や森で採れるもので漬けたリキュールは、まったく別なおいしさがある。何というか、植物の精とかエネルギーみたいなものが漬け込まれている感じなのだ。工場で作られてスーパーで売っているような大量生産品のリキュールは、三次元的に存在する味や香りだけだけど、庭や森から採ってきたもので自分で漬けたリキュールには、植物の精の味がする。だから、リキュールは植物の精を保存するための手段なのだと思う。

大量生産品だと、漬け込まれる植物も、自然に自生してきたようなものではなく、栽培していたりするからなのかもしれない。庭に自生してくる植物は、住んでいる人に必要なものだという話があるけれど、実際、庭に自生してくる野草を見ていると、人の意識を読んでいるとしか思えないようなことがたくさんある。いや、人の意識が読めるというのは、植物にとっては当たり前のことで、それができないと思っているのは人間だけなのかもしれない。とにかく、庭に自生してくる植物とは、何かしら意識が通じているようなところがあって、そういう植物を漬けるから、植物の精が入ったリキュールができるのかもしれない。

森の家で暮らすようになってから、アルコールを飲むことが少なくなった。自然の中で暮らしていると、そういうものが必要なくなるようなのだ。その代わり、いろんなリキュールを漬けておいて、冬の夜にちょっと飲んだりする。それはアルコールというよりも、自然の精を味わうといったような感じのものだ。

夏になって、森にベリー類が実るようになると、ブルーベリーやコケモモでリキュールを漬ける。青いまま落ちてしまうリンゴや洋梨の小さい実も、香りのいいリキュールになる。春になって植物が生え始めるのは、私にとってリキュールを漬ける季節が来たということでもある。

野草リキュールに漬ける野草。タンポポ、ヘラオオバコ、欧州ヨモギ
西洋ダイコンソウ。根っこがグローブみたいな香りがする。
リキュールを漬けたところ

2023年4月27日


【白樺の葉っぱで作る緑茶と紅茶】

白樺の若い木


白樺は、木の中でも、春になると真っ先に葉っぱをつける。私が住んでいるオーストリア北部の森林地帯は、白樺がよく育つ気候なので、白樺は雑草みたいに勝手にいくらでも生えてくる。

白樺の葉っぱは、そのままでなかなかおいしいお茶になる。特に、春先に出たばかりの、まだ緑が透き通っている頃の葉っぱが、さわやかな味がする。それで、白樺の葉が出た頃には、いつも葉っぱを集めてお茶を作ることにしている。

森の家の庭では、そうやって勝手に生えてきた白樺が、大きいのはもう2メートルくらいにはなっている。そのまわりには毎年若い白樺がたくさん生えてくるので、あまり殖え過ぎないように、適当に引っこ抜いている。その引っこ抜いた若い白樺を、ただコンポストするんじゃもったいないので、葉っぱを採ってお茶にするわけだ。

葉っぱをザルに集めて、ストーブの上に数時間置いておいてよく乾かしたら、これはそのまんま白樺の緑茶になる。白樺の葉っぱは新緑のさわやかな味がして、不思議と緑茶そっくりの味がする。

この干した白樺を、フライパンで焙じたら、これがおいしい紅茶になる。紅茶は焙じる前に発酵させているから、紅茶というより焙じ茶なんだけど、これがまた不思議と紅茶みたいな味なのだ。焙じたあとで、瓶に入れて数日置いておくと、味が熟して香りが出てくる。そうすると、紅茶みたいな香りもしてきて、それは不思議と甘いイチゴみたいな感じの香りになる。イチゴの香りといったらちょっと違うかもだけど、よく熟したウィスキーの甘い香りのことを「イチゴのような」と形容するような意味でのイチゴのような香りだ。

葉っぱでお茶を作るのは、数年前からやっていて、いろんな葉っぱで試してみたのだけれど、白樺が一番おいしいと思う。ドングリの若い葉っぱで作ったのも、なかなかいい香りだし、桜の葉っぱの作ったお茶は、桜のいい香りがする。ロシアで伝統的に作っているヤナギランの紅茶は、本当に紅茶そのものの味になる。これは、今はまだ地面から芽が出たばかりなので、葉っぱを採るのは、秋口になってからだ。

庭に勝手に生えてくる植物の葉っぱでおいしい紅茶ができることがわかったら、お茶はもう買わなくなってしまった。お茶の木はこちらの気候では育たないので、お茶はインドとかで栽培したのを買うしかないわけなのだけれど、お茶の栽培にはかなりの農薬を使うという話を聞いてから、オーガニックのお茶だけを買うようにしていた。オーガニックのお茶は、たしかに自然で純粋な味がして、それを飲んでいると、オーガニックじゃないお茶は、やっぱり不純物の味がするのがわかる。

白樺やヤナギランで作ったお茶は、やっぱりお茶の葉っぱで作ったお茶とは違うけれど、それでも住んでいる土地に自然に生えるもので作ったお茶は、身体に合っているんだと思う。何よりも、自分の庭に自然に生えてくる葉っぱでお茶を作って飲んだりしていると、植物の精霊が喜んでいる感じがする。

いや、喜んでいるのは私なのかもしれないけれど、何もしないのに地面からニョキニョキと生えてきてくれる植物が、おいしいお茶を出してくれるということを、しみじみと感じながら葉っぱを摘んでいると、植物の方も何だか喜んでいるような気がするのだ。


白樺の若い葉っぱを集めたところ
白樺の葉っぱが干し上がったところ
干した白樺の葉っぱをフライパンで焙じる


焙じたばかりのお茶を淹れたところ。まだ味が若いけれど、数日経つと味が熟してくる。

2023年5月1日


【タンポポのジュレと茎の煮物】


ジュレのために摘んだタンポポの花200本。



5月になると、森の家の庭にはタンポポが庭中にものすごく咲き始める。そうなると、私にとっては、タンポポのジュレを作るときが来たということになる。

タンポポのジュレというのは、要するに花に入れて煮出した汁をジャムにするのだ。砂糖と寒天を入れて、好きな硬さに固める。トロトロのジャムみたいにすれば、ヨーグルトとかに入れるソースになるし、固めにしてゼリーみたいに食べてもいい。

タンポポの花自体にそれほど味とか香りとかがあるわけじゃないんだけど、ジュレにするとはちみつみたいな色になって、味も不思議とそんな感じになる。

だけど、タンポポのジュレは、私にとっては何といっても、春の太陽の味なのだ。味というよりも、タンポポの花のエネルギーというか、タンポポの花に入った春の太陽のエネルギーを食べているんだと思う。

ジュレを作るには、花を200個ほど摘んでくる。だから、それなりにたくさん咲いてくるまで待っているんだけど、そうするとだいたい5月の初めになる。200個も採ったらなくなるんじゃないかと思うかもしれないけれど、この頃になると、それくらい取っても、少しも減ったようには見えないくらい、咲いている。それで、翌日になるともっと咲いて、採る前よりも多いくらいになる。

これは、どうしてか知らないけれど、いつもそうなのだ。私が喜んで花を摘んでいると、タンポポも喜んで、もっと咲かせてくれるんじゃないかという気がしてしようがない。野草は、私たち人間が何を食べるのかちゃんと見ていて、ジャンジャン補給してくれているんじゃないかと思う。植物と動物の間には、そういう共生関係みたいなものがあって、だから住んでいる土地に生えてくる植物は、住んでいる人に合わせて出てくるようなところがあるのだと思う。

タンポポは花だけ集めればいいんだけど、花を摘んで茎だけ残しておくのも嫌なので、いつも茎ごと採っている。それで、茎は茎で、刻んで炒め煮にするのだ。これは、さわやかな苦味があって、意外とハマる味だ。ごま油でさっと炒めてから、みりんと醤油で煮る。花200本分の茎といったら、けっこうな量になるけれど、残りは瓶にでも入れておけば、しばらくおいしく食べられる。

ジュレは、花だけ取って鍋に入れて、水を2リットルくらい入れて、数分煮出して、そのまま一晩つけておく。この液体がはちみつ色になっているので、これをザルでこして、汁に砂糖と寒天粉を入れて、また煮るのだ。砂糖は、ゼリーみたいにするんだったら1リットルに100グラムくらいで、ジャムとかソースみたいにするんだったら、もうちょっと多めに入れる。酸味をつけるのに、少しレモン汁とかリンゴ酢とかを入れている。去年は、エルダーフラワーのサイダーがお酢になってしまったのが何本かあったので、それを少し入れて酸味をつけた。今年は一本もお酢にならなかったので、リンゴ酢だ。これは、リンゴのサイダーがお酢になってしまったやつだ。

夏になるとベリー類が次々と熟し始めるから、それでベリーの残りをそのたびにジャムにしておくんだけど、タンポポの花のジュレは、春になって初めてこしらえるジャムだ。ベリー類が熟し始めるのは6月以降のことなので、それまでは花のジュレを食べている。タンポポのあとは、これも庭中に咲く赤ツメ草がおいしいジュレになり、そうこうしているうちに、最初のベリー類が熟し始めることになっている。


タンポポのジュレ


タンポポの茎の炒めもの

2023年5月6日



【キノコの季節の始まり】

センボンイチメガサ


5月も半ばになると、そろそろ最初のキノコが出始める。今年は雨がちで寒い日が続いていたので、いろいろ生え始めるのが遅いのだけれど、カゴを持って森へ行ってみたら、いつもの切り株に、センボンイチメガサが生えていた。

これは、ドイツ語でStockschwämmchen シュトックシュヴェムヒェンと言って、日本語にすれば、切り株キノコというような意味だ。木の切り株に群生するキノコで、これは冬でも生えていることがある。凍っても平気で、ゆっくりだけど成長し続けるのだ。春になって真っ先に生えているのも、このキノコだ。

センボンイチメガサは、猛毒のヒメアジロガサと似ているので、見分け方を知らないと手が出せないキノコだ。キノコの見分け方というのは、植物と違って、形や色ではっきり区別できるようなものではなく、茎の斑点のつき方とか、そういうどうでもよさそうなところが重要だったりする。一度見分け方を覚えたら、どうということもないのだけれど、どこをどう見るかは、図鑑を見ただけではなかなかわからない。

だから、前だったら、土地のくわしい人に見てもらって覚えるしかなかったんだけど、この頃ではオンラインでくわしい人に聞くということができる。それで、フェースブックでドイツ語のキノコ採集のグループを探して、そういうところに写真を送って聞いていた。すると、だいたいいつも誰かがすぐに答えてくれる。その写真じゃわからないから、茎のところが見える写真を送ってくれとか、根元にコブがついているかどうか見ろとか、答えが返ってくる。それでまた写真を撮りに行って、確かだとなったら、採ってくるわけだ。図鑑を買ってきて調べたり、オンラインで聞いたりしながらキノコ採集しているうちに、一年くらいでだいたいのキノコは見分けがつくようになった。

だけど、センボンイチメガサみたいな猛毒キノコとまちがえやすいキノコは、キノコグループでも返事をしてくれる人はまずいない。こんなキノコに手を出すなと言われるくらいだ。ただ、猛毒キノコとの見分け方を解説した図とかを送ってくれたりはする。あとは自分の責任で判別してくれというわけだ。だから、このキノコは、かなり見分け方がわかるようになってから、よくよく確かめて、採ってきて食べた。

ほとんどの毒キノコは、毒といっても、食べたらせいぜいお腹下すとかそれくらいのもので、そもそも苦かったり臭かったりして、当たるほど食べられないことが多い。だから、間違えて採ってきても、大したことは起こらない。ポルチーニと間違えて、ニガイグチを採ってきてしまったら、キノコスープを鍋ごと捨てることになるとかそんなものだ。

気をつけなくちゃいけないのは、タマゴテングダケとかヒメアジロガサみたいな、ちょっとでも食べたら肝臓やられるようなやつで、これは最初のうちは、似たようなキノコには一切手を出さない方がいい。キノコというのは、成長の段階でさまざまに形や色が変わるので、うっかり間違えることがあるからだ。

だけど、キノコというのは、一度自分で見分けて食べてみると、そのキノコと関係ができるみたいで、次からは確実にわかるようになる。特にセンボンイチメガサみたいな切り株に生えるキノコは、いつも同じところに生えてくるから、遠くから見ただけでも、また生えてきたなとわかるのだ。おなじみのキノコが生えてきたときは、家にいても直感的に何か感じることがある。何故だかどうしても今すぐ森に行かなければという気になったりすることもある。それで歩いていると、キノコが生えているのだ。そうすると、このキノコが呼んでいたみたいだなとわかる。

キノコというのは、実は森の地面に広がっている菌糸のネットワークが本体なので、私たちがキノコとして見ている部分は、その菌糸ネットワークの果実のようなものなのだそうだ。だから、キノコというのはある意味、森そのもののようなところがある。上に木々が生えているように、地面の下にはさまざまなキノコのネットワークが生きているのだ。

だからなのか、キノコ採りをしていると、森そのものの精霊のようなものとコミュニケーションしているような感覚になることがよくある。キノコに呼ばれて森に行くようなときは、まるで森に導かれるように、まっすぐキノコの生えているところに歩いていたりする。そうしたことも、キノコの本体が菌糸のネットワークなのだと思ったら、当然のことが起こっているだけのようにも思える。森の木も、地下の微生物でコミュニケーションしていて、何キロも先まで情報が伝わっていくのだそうだ。そういうコミュニケーションが、自然界には存在していて、それを知らないでいるのは、私たち人間だけだったりするのかもしれない。

今日はセンボンイチメガサを見つけたので、もう花が咲いて終わりかけの野生のクレソンを少し採ってきて、いつものタリアテレを作ることにした。スペルト小麦は近くの自然農家で作っているのをいつも買ってあるから、それに半量の卵と塩水を入れて練る。秋に集めてあったイラクサの種を少し入れると、味わい深い麺になる。それを、少し寝かせておいてから、麺棒で伸ばして、パスタメーカーで切れば、できたての手打ちパスタが食べられる。

豆乳も生乳もなかったので、今日はオリーブオイルとニンニクと白ワインだけだ。キノコのゴミを取って、刻んで、軽く炒めて、クレソンを入れ、茹で上がったタリアテレと合わせて、この間たっぷり作っておいたクレソンの塩とコショウくらいで味つけする。

キノコというのは、森が生やしてくれる植物性のタンパク質なのだ。それが、夏が近くなってくると、生え始める。キノコが生え始めるのは、キノコを探して森を歩き回る季節が始まったことを意味している。

センボンイチメガサと野生のクレソン
森のキノコとクレソンのタリアテレ
森の小川
このあたりの森に自生するスミレ。沼地スミレ

2023年5月17日


【庭の住民たち】


メタリックグリーンのハナムグリ。


5月になると、庭で草が伸びて、花が咲き始める。うちの庭では、何でも生えてくるものを生えさせているのだけれど、そうすると、次から次と順々に花が咲いて、花の絶えることがない。

自然というのは、実にうまくできている。タンポポが庭中に咲き誇っているときに、クローバーが伸びてきていて、ちょうどタンポポが綿毛になって終わる頃に、赤と白のクローバーが咲き始める。その頃には、いろいろな種類のエニシダも咲き始め、庭中に勝手に生えてくるコデマリが満開になる。

コデマリは、このあたりで自生しているわけではないのだけれど、勝手にどんどん生えてきて、庭中に茂っている。土地が合うのか何なのか、伐ってもまた生えてきて、生い茂っている。

コデマリが咲き始めると、緑色のハナムグリがたくさんやってくる。このハナムグリは、コデマリの花の上に止まるのが好きなのだ。この季節になると、晴れるととたんに夏みたいな暑さになるのだけれど、そうすると、コデマリにいろんな虫たちがやってくる。

ハナムグリは、幼虫のうちは、白いカブトムシの幼虫を小さくしたような姿をして、土の中にいる。春先に土を掘り起こしていると、よくそういう幼虫を発見するから、庭の地面の下にたくさんいるのだ。あとの虫たちは、どこでどうやって育っているのかわからないけれど、庭のいろんなところに住んでいるのだろう。地面の下なのか、草の茂みの中なのか、あるいは木のどこかなのか。

私が庭の草を刈らないで、何でも生えさせているのは、虫たちが自然に住める環境を作ってやりたいからでもある。蝶や蜂、コガネムシなど、花の蜜を食糧にしている虫たちはたくさんいるけれど、彼らが好きなのは、何と言っても、野生の花なのだ。自然に何でも生えさせていると、次から次から絶えまなく花が咲く。それは、ちゃんといつも虫たちに食糧を提供するためでもある。自然のままに生えさせていると、絶えまなく花が咲いて、虫たちが来る環境が、すぐにできていく。

私は、子供の頃から野草とか虫とかが大好きで、野原で花や昆虫を見ていられれば、それだけで幸せな子供だった。この頃は、どこも芝刈り機で草をカリカリに刈ってしまうので、虫たちが生きられるような環境が少なくなってしまった。だから、うちの庭だけでも、野草たちが伸びたい放題に伸びられて、虫たちが生きられる環境を作ってやりたいのだ。だから、この季節になって、庭の花にいろんな虫たちが来るようになると、それを眺めているだけで、何だかすごくいいことをしたような気分になる。虫たちは、うちの庭に満足しているのに違いない。

ハナムグリとマルハナバチ
Soldatenkäfer 光らないけどホタルの仲間

2023年5月23日


【野草の包帯】


手鎌で庭の草を刈っていたら、鎌で指を切ってしまった。草が毎日ぐんぐん伸びていくこの季節になると、だいたい一回くらいはやってるなぁと思う。

うちの庭では、芝刈り機で一面に草を刈ったりはしないので、道のところだけを、ちょこちょこ手鎌で刈っている。それで、草を刈っていると、鎌の刃を左手に当ててしまって、指を切る。

こういうときには、オオバコの葉っぱがいい。オオバコでもヘラオオバコでもいいんだけど、葉っぱを摘んで当てておくと、傷が自然に治る。虫刺されのときに、葉っぱをもんで汁をつけるとかゆみが止まるのは知っていたんだけど、切り傷にも使えるのは、2年前に知った。それで、手鎌で切ったところに、ヘラオオバコの長い葉っぱを包帯みたいにクルクル巻いて、茎で縛っておいたら、血が止まって、痛みも消えた。

子供の頃は、ケガしたら何でもマーキュロとかつけてたけど、そうするとあとでよく膿んできたりした。そういうものだとずっと思っていたけれど、マーキュロもオキシフルも何もつけなくなってから、傷が膿むなんていうことはなくなった。この頃は、傷を洗いもしないで、ただ口に入れて、ヘラオオバコの葉っぱをクルクル巻いている。結局、これが一番早く治る。

家のまわりに野草を生やしておくと、必要なものはだいたい間に合うようになっている。切り傷や虫刺されに効くものも、関節炎や風邪、胃腸に効くもの、何でもちゃんと揃っている。で、こういうものが、どんな薬よりよく効くのだ。自然のものだからというのもあるけど、何よりも、住んでいるところに生えてくるものだからなんじゃないかと思う。自生してくる植物は、住んでいる人に合わせて生えてくるようなところがあるらしいのだ。野草とともに暮らしていると、植物が私の意識を読んで生えてきているとしか思えないような不思議なことがよくあるのだけれど、植物は人の意識だけじゃなくて、体質とかまで読んでいたりもするのかもしれない。それで、ちょうど合うように生えてきたりするのかもしれない。


ヘラオオバコ

2023年5月31日


【花を食べる季節】

野草の花の冷やし中華風パスタサラダ。
野生のキキョウ、黄色いレンゲ、カラスノエンドウ、ヒナギク


春になって野草の季節が始まると、しばらくはタンポポ料理を楽しんでいる。まだ若くて柔らかい葉っぱのサラダに始まって、根っこのキンピラに炒めもの、花のジュレに茎の炒め煮など、タンポポは春先から5月までたっぷり楽しめる。

タンポポが綿毛になって終わってしまう季節になると、他の野草も若葉から花の季節になるので、葉っぱを食べる季節はそろそろ終わる。この頃になると、葉っぱを生で食べられるのは、ナタネタビラコとトゲヂシャくらいだ。これもそろそろトウが立ち始めて、葉っぱはやせてくる。

葉っぱを食べる季節が終わると、今度は花を食べる季節が始まるのだ。6月になると、森の家の庭は、野草の花で百花繚乱になってくる。その中で、食べられる花をカゴに集めてきて、料理にのせている。だから、この頃の料理は、サラダでもチャーハンでもパスタでも、庭の野草の花が色とりどりにのっている。

花というのは、葉っぱと違って、それ自体にはっきりした味があるわけでもない。花を食べるのは、味というより彩りであり、地面を離れて飛んでいこうとするような花のエネルギーを食べているんだと思う。野草の葉っぱや根っこには、大地と繋がって養分をもらっているというグラウンディングする感覚なのだけれど、花はむしろ大地から離れて飛んでいこうとするような力だ。この地上で守られているだけじゃなくて、冒険すること、自分の思いを実現していくこと、そういう力だと思う。

花の季節の料理として、私が一番気に入っているのは、冷やし中華風のパスタサラダだ。これは暑くなってくると、もうこればっかり食べていたりする。パスタは、去年の秋に採っておいたイラクサの種を入れたスペルト小麦の手打ち麺で、この生地を練っておいてから、寝かせている間に庭をひとまわり回って、カゴに野草の花を集めてくる。

今日入れたのは、野生のキキョウと黄色いレンゲ、それにヒナギク。ソースは、ゴマをすり鉢でゴリゴリすったところに、味噌と醤油、自家製のリンゴ酢を入れて、生姜を下ろしたのを少し入れている。そこに、庭の野草の葉っぱの刻んだのや、ヘラオオバコのツボミのオイル漬け、ブタナのツボミの酢漬けなんかを入れている。ヘラオオバコのツボミは、オイル漬けにしておくと、トリュフみたいになるし、ブタナのツボミは、塩をしてから酢漬けにしておくと、ケッパーみたいになる。季節ごとに、あるものを漬けておくと、何かしら漬けたようなものは、だいたいいつもあることになっている。こういうのを、サラダに入れたり、チャーハンに入れたり、パスタに入れたり、あるいはシンプルにパンと一緒に食べたりする。

タンポポの花のジュレを食べ終わって、ベリー類が実るにはまだ早いという頃に、アカツメクサのジュレの季節がある。庭中に生えているアカツメクサの花を200個くらい集めてきて、これをヒタヒタの水で煮出した赤い液で作るジュレなのだ。いつもは酸味をつけるために、リンゴ酢を少し入れているんだけど、ちょうど庭にイタドリが生えてきていたので、リンゴ酢の代わりにイタドリを入れた。イタドリは、酸味があるだけではなくて、独特の甘い香りがある。

アカツメクサは、女性ホルモンみたいな成分があるとかで、更年期にいいとかいうそうなのだけれど、エネルギー的には第2チャクラを養ってくれる感じのエネルギーだと思う。野草の効能というのは、化学的成分なんかじゃなくて、本当は植物の持つ生命エネルギーなんじゃないのかと私は思っている。花は、植物の生殖器なわけなので、交わろうとする喜びのエネルギーとか、自分の美しさを信じることとか、新しい生命を生み出そうとするような力が入っているんだと思う。

葉っぱから花へ、花から実へと、野草を食べる季節は移り変わっていく。5月の終わりから6月にかけての季節は、ちょうど葉っぱも終わりかけて、実がなり始める前の、花しかないような季節なのだけれど、花しかないならないで、花を食べるのが楽しい季節ではある。

野生の桔梗
黄色いレンゲ
アカツメクサとイタドリのジュレ

2023年6月4日



【エルダーフラワーの発酵サイダー】

エルダーフラワー


エルダーフラワーが咲き揃ってくると、あたりに独特の甘い香りが漂い始める。そうなったら、発酵サイダーを漬ける時だ。

エルダーフラワーでは、よくシロップを漬けたりするんだけど、数年前に初めて発酵サイダーをこしらえたら、これがおいしかったので、以来、毎年サイダーばっかり漬けている。

エルダーフラワーの発酵サイダーは、ドイツ語ではホルンダ・セクト Hollundersektと言っていて、エルダーフラワーのシャンパンという意味なんだけど、色と泡の立ち方がシャンパンに似てるだけで、アルコール分はない。一年くらいおいておくと、何%かアルコールがつくらしいけれど、飲み頃なのは、2ヶ月か3ヶ月経った頃だ。その頃は、エルダーフラワーの甘い香りがして、シュワシュワ泡が弾ける、実においしいサイダーになっている。

水10リットルに対して、砂糖が1キロ、りんご酢100mlほどで、エルダーフラワーを15房くらいだというんだけど、一番大きい鍋が5リットル入りのだから、水4リットルに砂糖400グラムで漬けた。

これを毎日かき混ぜながら、涼しいところに3日ほどおいておくと、発酵してくる。そしたら、エルダーフラワーを濾して、密封できる瓶に詰めて、地下室に置いておく。最初のうちは、発泡しすぎて瓶が割れないように、毎日蓋をちょっと開ける。薄手の瓶だと割れることがあるので、ビール瓶みたいに分厚い瓶がいい。スクリューキャップの空き瓶でもできるんだけど、やっぱりしっかり密封できるフリップトップの瓶の方がおいしくできるので、去年何本か瓶を買ってしまった。

これを3日後に瓶詰めしたら、エルダーフラワーがまだ咲いているうちに、2回目の分を漬けるわけだ。

エルダーフラワーは、甘い香りのするお茶になるので、お茶にする分だけ干しておく。風邪引きそうなときには、エルダーフラワーのお茶を飲むと、身体が一発で温まる。

エルダーフラワーは、ヨーロッパでは自生していて、森の外側とか川辺とかに、勝手にいくらでも生えてくる。うちの庭には、数年前に生け垣のところに生えてきて、あっという間に大きくなった。最初は5房くらい花がついただけだったけど、今年はもう2メートル以上になって、100房くらい咲いている。

エルダーフラワーは植えるものではなくて、生えてくるもので、勝手に生えてきたエルダーフラワーは、家の守り神なんだそうだ。ケルトでは、エルダーフラワーは地下の妖精の国の入口だというのだそうで、何かしら強烈に精霊の世界と繋がるものがあるらしい。

秋になると真っ黒い実がついて、これはコンポートにするとおいしいし、まだ青い実は、塩漬けにして、ケッパーみたいにしてもおいしい。

エルダーフラワーの木が大きくなって、花をたくさんつけるようになると、野草生活が実に豊かになることは確かだ。


2023年6月10日


【ヒレハリソウのチンキ】

ヒレハリソウ


ヒールが高いサンダルをはいていてこけてしまい、足首をひねってしまった。筋や筋肉には、トウヒの松脂で作ったクリームがいいんだけれど、それを足首に塗っても、今ひとつピンと来るものがない。それで、他に何が効くだろうと考えていた。

野草の薬効は、含まれている化学成分によるものだと思われていることが多いのだけれど、本当に効いているのは、植物の生命力というか波動エネルギーようなものだと思う。ホメオパシーとかバッチフラワーとかは、そうした波動エネルギーを転写したものを使って、化学成分の薬よりも効果を上げていたりするのだ。

そういう波動エネルギーで効くときというのは、つけた瞬間にもうわかる。エネルギー的に活性化するというか、癒やされるというか、そういう感覚がするのだ。だから、そういう感覚があると、これが当たりだなということになる。

ヨーロッパには、野草の効用に詳しい人たちが昔はどこにでもいて、家族の病気やケガなどは、庭に生えているような薬草で治していた。そういう人たちのことを、ドイツ語ではクロイターヘクセ(野草魔女)と言うのだけれど、こういう魔女たちは、薬効の理論なんかじゃなくて、野草のエネルギーを感じて、直感的に何が効くかがわかったりしたんじゃないかと思う。たぶん、そこが何だか謎めいていて、魔女っぽかったりしたんだろうけれど、エネルギー的な感覚がわかったら、割と誰でもできることだったりするんだと思う。

骨とか関節とかに効くものといったら、ヒレハリソウがある。これは英語でコンフリー、ホメオパシーではシンフィトゥムと呼ばれている。これで骨折した骨もすぐに繋がるとか、骨に関する問題ならてきめんに効くと言われている。これまで必要を感じたことがなかったので、使ってみたことはなかったんだけれど、森の家の庭に自生してきたヒレハリソウを、何かのときのためにと大事にしていたのが、かなり株が大きくなっていた。これを試してみようと思った。

ヒレハリソウは、根っこを掘って、それで軟膏を作るのだけれど、葉っぱもそれなりに効くらしい。それで試しに葉っぱ一枚摘んで、揉んで足首につけてみたら、その部分がスッと落ち着く感覚がする。これは効きそうだと思って、ネットでヒレハリソウの使い方を調べていたら、根っこをアルコールに漬けて、2週間くらい陽の当たるところにおいてチンキにすると書いてあった。それで、葉っぱと花を摘んで、刻んでホワイトリカーに漬けておくことにした。これを、オリーブオイルと蜜蝋を入れて、クリームにすればいいらしい。

ネットでヒレハリソウの薬効について調べていると、肝臓に障害が出るので禁止されたとか、ハーブティーも危険だから飲んではいけないとか書いてある。外用には使えるけれど、今はもう使わないと書いてある記事もあった。ヒレハリソウといったら、葉っぱを天ぷらにして食べたりするくらいで、どんな化学成分が入っているからと言って、そんなに毒性の強いものであるはずがない。薬効になるか毒になるかは、何でも量の問題なので、どれくらいの量まで使えばいいのかを気をつければいい話なのに、それを使ってはいけないとか、禁止になったとか、どうもおかしな話だと思った。

薬局で市販されている化学製薬は、ヒレハリソウなんかより遥かに毒性が強いはずだ。どれだって、食べられたりするわけじゃないんだから。それを、ヒレハリソウが危ない危ないというのは、どうもあやしい。これは、ヒレハリソウがあんまりよく効くので、こんなもので治されてしまったら、薬屋が商売できなくなるというので、毒だというデマを流したんじゃないかと思った。

ここ20年くらい、そうやって野草を使わせないように、されてきているのだ。昔から使われてきて、害がないことがわかっているようなものでも、薬品と同じように認可が要るようにして、売らせないようにしていたり、ちょっとでも有害と言われる成分が入っていたら、有毒だから使ってはいけないという情報を流していたりする。要するに、そうやって大企業しか営業できないようにして、大企業の製品がなければ生きていけないように思わせようというわけなのだ。

こうしたことも、3年前に奇妙なパンデミックが起こる前までは、気がついていなかったけれど、実はこの世の中はそういうことで動いているということが、よくわかった。主流メディアやヴィキペディアやグーグルで上位に出てくる情報で、一斉に毒だ毒だと言っていたら、それは実はいいものである可能性が高いし、逆に一斉に害がないないと言っていたら、用心してかかった方がいい。

それで、ヒレハリソウは危ない危ないと書いてあったので、これはきっとよほど効果のあるものなのだろうと確信した。ホメオパシーでも野草魔女たちも、ヒレハリソウは骨の問題についてはこれほどよく効くものは他にないと言っている。それが近年になって、急に有害で効果がないものになるわけがない。

庭に野草を生え放題にして、野草とともに生きていると、生活に必要なものは、ほとんどすべて自生してくるということがよくわかる。季節ごとに食べるものもあるし、お茶にするもの、飲み物にするもの、薬にするもの、何でも庭に生えてくるのだ。ただ、見分け方と使い方を覚えればいい。

ヒレハリソウは、根っこを掘って使うというので、根っこが掘れるくらいに殖えてくるのを待っていた。今年は株がかなり大きくなって、葉っぱもよく繁り、花もたくさん咲くので、サラダに花を入れたり、葉っぱを少し緑肥にしたりしていた。今年は秋になったら、根っこを少し掘り出して、軟膏作ろうかと思っていたところだった。それでちょうど足首をひねってヒレハリソウが必要になったのだから、実によくできている。庭には、住んでいる人に必要な野草が生えてくるというけれど、必要になったときには、ちゃんと生えていることになっているのかもしれない。


2023年6月19日


【百花繚乱の庭】

手前の黄色い花が、ハチミツの香りのする珍しいエニシダ。紫の花はカラスノエンドウ。その向こうの黄色い花は、このあたりに生える黄色いレンゲ。


6月になると、森の家の庭は百花繚乱の状態になる。5月にタンポポが一面に咲いていたところには、ありとある種類のヤナギタンポポが咲き、カラスノエンドウやアカツメクサが咲き乱れる。紫やピンクのルピナスの花が盛りをすぎると、今度はハチミツの香りがする珍しい種類のエニシダが一面に黄色い花を咲かせて、庭は甘い香りでいっぱいになる。青紫の野生のキキョウやピンクのジギタリスも咲き始めて、どこを見ても花でいっぱいで、その景色が毎日変わっていく。

このあたりの土地は、ヒース(荒れ地)と言われるようなやせた土地で、土壌は花崗岩が風化した砂利の上に腐食土が薄くかぶさっているだけなので、何でも育つというわけではない。だけど、そんな土地でもよく育つ植物はちゃんとある。自然はそういう植物を知っていて、ちゃんとどこでも花がいっぱいに咲くようになっているのだ。だから、自生してくる植物に何でも生えさせていると、いたるところ絶妙なタイミングで花が咲き変わっていく見事な庭ができあがる。これは人間が作ろうと思っても、とても作れるようなものではない。

ずっと都会にばかり住んでいて、土のある暮らしなどしたことがなかった。植物を育てることもまるきり知らなかった。初めて自分の庭を持って、最初の頃は木の苗を買ってきて植えたりもした。だけど、何年か経ってみて、植物というものは木でも何でも、勝手に生えてくるものなのだということがよくわかった。

しかも、植えた植物よりも、勝手に生えてきた植物の方がよく育って、早く大きくなるのだ。水をやったり世話をする必要もない。そればかりではなく、一つの花が終われば、次の花がその下でもう待っていて、とたんに茎を伸ばして花を咲かせるという具合に、次々と移り変わっていく。

それで、ほとんど何も植えていないのに、森の家の庭には、ありとある種類の花が咲いている。4月のタンポポから始まって、8月までずっと何かしら花が咲き続ける。その中でも、6月は庭中が百花繚乱の状態になる。そうなると、いろんな種類の蜂や蝶や甲虫もやってくるし、いろんな鳥もやってくる。

6年前にこの家を買ったときに、庭中粗大ゴミが散らばっていて、そこにブラックベリーのツルが絡んでいるような状態だったので、ユンボで一回整地してもらった。そうしたら、薄く上に乗っているだけだった腐葉土層が剥がれてしまい、花崗岩の砂利が露出して、砂漠のようになってしまった。

植物が根を絡み合わせているからこそ、地面は安定しているものだったのだ。土を引っくり返して植物が根こぎになり、腐葉土層が剥がれたら、その下は砂漠の状態で、風が吹くたびに砂ぼこりが立っていた。

腐葉土をトラックで運ばせて入れた方がいいと言われたけれど、どんなところだってちゃんと生えてくる植物はあるはずだと思って、そのままにしておいた。すると、まず最初にヤエムグラの類が生えてきて、砂漠状態の地面を網のように覆って安定させてくれた。それから、タンポポとか根っこを深く下ろす植物が生えてきて、地面がカラカラに乾いても、立派に育っていた。

それから、青い花を咲かせるヤシオネという花が一面に生えてきた。これは、パイオニア種と言われる荒れ地に育つ植物で、土壌が肥えてくると、消えていく。二年くらいヤシオネが庭中に咲いていたと思ったら、昨年からパタリと生えなくなった。すると、ヤシオネが一面に生えていたところに、今度はヤナギタンポポが一面に生えて、地面を葉っぱでしっかりと覆ってくれた。

私は、草を刈っては何も生えていないところに敷いていた。そうしておくと、露がたまって、その下から草が生えてくる。そうやって少しずつ土ができていったのだ。草が生えれば、細かい根っこが張り巡らされて、そこに土ができていく。そうやってだんだんと土が肥えてくると、それに合った植物がまた生えてくる。

そうやって、そのときそのときに合った植物がちゃんと生えてくるのだ。このあたりで見かけない植物もどこからともなく生えてきて、生い茂っていった。それを見ていると、一体植物というものは本当に種から殖えるものなのかと疑問になるくらいだ。本当は種なんかじゃなくて、土から生えてくるんじゃないかとさえ思う。

世話といったら、手鎌でところどころ草を刈るくらいのことで、あとは自然に何でも生えるまま生えさせているだけなのだけれど、年々花の種類が増え、実のなる植物も増え、虫の種類も鳥の種類も増えて、季節ごとに刻々と変わっていく実に美しい庭ができあがるのだ。

隣近所の人たちは、庭というものは野草はいつも刈り込んで、園芸種の植物だけを生えさせておくべきものだと思い込んでいるようなのだけれど、それだといつも草を刈ったり水をやったり、ものすごく手間がかかる上、植物に自然の生命力というものがない。自生する植物たちにかこまれて暮らしていると、どんなにきれいに造園した庭も、私には何だか窮屈に思えてしまって、野草がのびのびと生えている森の家の庭に戻りたくなるのだ。


ハチミツの香りがするエニシダ。マルハナバチが花に頭を突っ込んで蜜を吸っていく。Schwärzender Geißklee


桃の葉桔梗。この花の中に座っているのが好きな虫たちがいる。
Pfisisichblättrige Glockenblume


このあたりに自生するマツムシソウ。甲虫がよくこの花に止まっている。
Witwenblume


ワタみたいな花が咲く野生のクローバーの一種。
Wundklee


ジギタリス(狐の手袋)
Fingerhut


このあたりに生える野生のハタザオの一種。ドイツでは絶滅危惧種のリストに載っているらしい。
Turmkraut


野生のハタザオの花
Turmkraut

2023年6月20日


【カラスノエンドウの絹さやと豆】


庭に自生してくる野草の何がすべて食べられるのかを知りたいというのが、私が野草を食べる大きな動機になっている。住んでいるところに生えてくるのなら、何かわけがあって生えてくるのだろう。植物は、太陽光から炭化物を生成できる地上の唯一の生き物として、そこに生きている動物たちに食糧を提供する役割があるわけで、食べられるとか薬になるとか、あるいは単に土を肥やしてくれるとか、何かしら意味があるはずなのだ。

今年はカラスノエンドウが庭中にものすごく生い茂って、今はさやをたくさんつけている。このあたりに生えるカラスノエンドウは筋が硬いので、葉っぱは食べるのに向いていないんだけれど、さやや豆はどうなのだろう? 

エンドウ豆も、豆がまだ小さくてさやが柔らかいうちは、さやごと茹でて食べるわけで、これが絹さやだ。豆が大きくなった頃には、さやは硬くて食べられなくなるので、さやをむいて豆を茹でて食べる。これがエンドウ豆だ。それで、カラスノエンドウの柔らかいさやを集めて茹で、豆が大きくなって硬くなったのは、さやをむいて豆を集めて茹でてみた。

かなり小さいものなので、エンドウ豆みたいにモリモリ食べられる感じではないのだけれど、野生のものというのは、少量でも満足できるような不思議なパワーがある。味は、まあ絹さやとかエンドウ豆の味と似ていて、小さい割には味が強いんじゃないかと思う。そして何より、栽培された野菜にはない、自生している植物の生命力の強さがある。

夏は手打ちパスタを冷やし中華風にしたサラダパスタばっかりよく食べているんだけど、それにカラスノエンドウの絹さやと豆をたっぷり入れてみることにした。

すり鉢に炒りゴマをすって、そこに味噌と醤油とお酢、ごま油を入れて、茹で上がったパスタを水にさらしてから、そこに入れてたれと和える。その上にカラスノエンドウのさやと豆の茹でたのを入れ、庭にちょうど咲いているあれこれの花をのせただけのパスタサラダだ。これが夏の暑いときには最高なのだ。

今ちょうど咲いている花は、野生のキキョウと黄色いレンゲ、アカツメクサ、ホワイトヤロウ、イワミツバなどだ。夏至の頃に咲き始めるオトギリソウ、セントジョーンズワートも最初の花が咲き始めたところだ。

暑くなってきたときに咲く花は、暑さに対応できる身体を作ってくれるようなところがある。だから、自生しているもので、そのときそのときに食べられるものを食べていたら、自然に季節ごとに合う力をもらえるようになっているんだと思う。

春先には、新芽や若葉がおいしいんだけれど、この頃はもう葉っぱは食べる季節ではない。花が咲く季節になると、葉っぱは痩せて硬くなってきて、おいしくなくなってくる。おいしくなくなるのは、食べるときではないということなのだ。花がおいしいときには花を食べ、花が終わって実がなったら、実を食べる時がくる。

そろそろ最初のイチゴが熟し始めたところで、花の季節から実の季節に入ったのを感じる。イチゴが熟す頃、カラスノエンドウの豆も食べ頃になるわけなのだ。

うちの庭は、野菜はろくに育たないで、野草ばかり茂っているのだけれど、それでもちゃんと食べるものはたくさんある。エンドウ豆を植えても、ちっとも育たないで虫が喰ってしまうのに、カラスノエンドウは勝手にいくらでも生い茂るのは、何故なのだろう? 虫が喰うのは、生命力がない植物なのだろうから、うちの庭にはエンドウ豆は合わないのかもしれない。それで、エンドウ豆が採れない代わりに、勝手に生い茂っているカラスノエンドウを採って食べたりしている。だけど、エンドウ豆が採れるよりも、自生してくるカラスノエンドウを採っている方が、不思議な幸福感があって、こんなものがあるのなら、野菜なんて植えなくていいなと思ってしまうのだ。



カラスノエンドウ


カラスノエンドウをたっぷり入れたキビのターメリックピラフ

2023年6月24日


【スギナのういろう】

スギナのういろう


今年はスギナがやけにたくさん生えてくる。スギナは、うちではこの辺で生える野生のヨモギ、オウシュウヨモギとホワイトヤロウの花と一緒に煮出し汁をお風呂に入れている。だから、今頃の季節にいつも一年分を干しておくんだけど、一年分採って干しても、まだありあまるくらいにものすごく生えている。

こうたくさん生えてくるということは、食べろっていうことなのかもしれないと思って、スギナを干して粉末をこしらえることにした。スギナをよく乾燥させて、ミキサーにかけるなり、手で揉んですり鉢でするなりすれば、抹茶みたいな感じの緑色の粉末ができる。これは、パンやケーキに練り込んでもいいし、パスタ生地に入れてもいい。

しかし何といっても、このスギナ粉をたっぷり入れて作ったういろうが最高なのだ。見かけは抹茶ういろうみたいだけれど、抹茶じゃなくて、スギナ粉だ。味も何となく抹茶ういろうみたいでもあるけれど、それよりも葉緑素とミネラルがたっぷりっていう感じの食べ物だ。

ういろうというのは、小麦粉と片栗粉を水で練ったものを、型に入れて蒸せばいいので、意外と簡単にできる。小麦粉と片栗粉を7:3の割合で混ぜ、この総量の三倍の水を入れて練ればいいのだ。家にあった流し缶が、400CCくらい入るものだったので、小麦粉70グラムに片栗粉30グラム、それに水が300CCでやってみた。そこにスギナ粉と砂糖を好きなだけ入れればいい。

粉を全部混ぜておいてから、水を少しずつ入れて、ダマができないように混ぜていく。それを、流し缶に入れて、20分くらい蒸せばいい。

これが、野性的なういろうって感じで、なかなかいけるのだ。スギナはあまり入れすぎると、アクが強くなるので、量は加減した方がいい。

スギナはまだまだ庭にいくらでも生えているので、今年はスギナ粉をたっぷり作っておいて、冬中スギナのういろうを食べようと思っている。


スギナを干しているところ


スギナ粉

2023年6月25日


【いちご摘みの季節】


うちのあたりはオーストリアでも寒冷な地方なので、イチゴが熟すのは、6月も半ばになってからだ。イチゴはツルが伸びていって、根を下ろすので、一度植えたら、何もしなくても勝手にどんどん殖えていってくれる。最初は5−6株だったイチゴ畑も、毎年広がっていって、けっこうな大きさになった。

去年は何故だか実がちっとも大きくならなくて、少しだけ大きくなった実は、ナメクジたちが片づけてしまい、まるきり収穫できなかった。イチゴは株が古くなると実がならなくなってくるとか、肥料が足りないんじゃないかとか、いろいろな人が言ってくれたので、昨年秋に古い株を引っこ抜いて、堆肥とか緑肥とか入れておいた。そのせいなのか、今年は実も大きくなった。

2週間くらい前に最初のイチゴが熟して、毎日少しずつ収穫が増えていく。最初のうちは、数個しかないので、ナメクジが先に手をつけてしまったら、私たちの分はない。だけど、一週間もすると、実がどんどん熟してきて、ナメクジもさかんに食べているけれど、それでも私たちも分も食べ切れないくらいにあるようになる。

それでこの頃は、一日に2回、朝と夕方に熟したイチゴを摘んでいる。先のところまできれいに赤く熟したのだけを探して、ザルに集めていく。完熟するまで待っていると、ナメクジに食われる可能性もある。彼らは人間と違って、未完熟な果実には手を出さないのだ。完全に熟した実の、一番よく熟したところだけを、喰っていく。ナメクジが喰った痕があるイチゴは、喰ったところをナイフで削り落として食べるんだけど、こういうイチゴはまず確実に熟し切っていておいしいやつだ。

先のところがうっすらと白っぽい実を見ると、明日には彼らに食われてしまうかもしれないと思う。今摘んでしまえば、丸ごと食べられるけれど、そこでがめつくなって、未完熟の実を食べるのもつまらないので、摘まないでおいておく。

果物は、熟し切ったのを摘んで、摘みたてを食べるのが最高だ。これは、自分の庭にあってこそのものだ。売っている果物は、熟し切ったらもう運べないので、完熟しないうちに摘んでしまう。だから、切ると中が白いけれど、庭で熟し切ったイチゴの実は中で赤いのだ。甘いだけじゃなくて、香りがぜんぜん違う。イチゴというのは、こんなに香りがあるものなのかと驚く。

自分の庭を持つようになって、庭のイチゴが食べられるようになって、初めて本当に熟し切ったイチゴを食べた。本当のイチゴの味を知ってしまうと、売っているイチゴは未完熟なのがわかってしまう。味がないし、香りがない。未完熟のイチゴは、口の粘膜がピリピリする感じの酸味があって、お腹が重くなる感覚があるんだけど、庭で完熟したイチゴは、あれがないのだ。前はああいうのがイチゴの味だと思っていたけれど、あれは未完熟だからだったのだ。そういうことを知ってしまうと、売っているイチゴは本当に食べる気がしなくなってしまう。だから、イチゴは庭にある分だけ食べて、それで終わりだ。季節でないときに食べる必要もない。

それで、熟し切ったイチゴを他の生き物たちと分け合うことになる。ほとんどはナメクジだけれど、鳥が食べていることもある。自分が植えて栽培した果物だと、「喰われた」と思ってしまうけれど、彼らにしてみれば、そこにあるものを食べているだけなので、誰が植えたから誰のものだとか、そんなことを考えているのは、人間だけなのだ。それに、彼らは自分が食べられる分だけ食べて、あとは他の生き物に残しておくけれど、人間は食べられない分まで全部採って、冷凍したりジャムにしたりして、独り占めしようとする。それで、虫がちょっと食べたからって、喰われた喰われたというのも、どうもあさましいような気がしてくる。

大きく熟しておいしそうだったイチゴが、翌日ほとんど皮しか残っていないくらいに食べられているのを見ると、さすがにがっかりするけれど、それでもきれいな熟した実もちゃんと十分に残しておいてくれるのだから、ありがたいと思うべきなのかもしれない。そんなことを考えながらイチゴを摘んでいると、喰われたという意識が消えていって、いろいろな生き物たちと共生しているのだということが、何だかうれしいような気もしてくる。

庭の植物とともに暮らしていると、虫たちや地中の生き物たちが、自然の循環にとって大事なのだということがよくわかる。ユンボで整地したばかりのところには、植物もろくに生えず、虫もいないけれど、植物が増えてくると、虫も増えてくる。地中にはミミズやコガネムシの幼虫がいて、ナメクジやカタツムリや蟻やいろんな甲虫が棲息するようになる。そうなると、地面も絶えず掘り返されて柔らかくなり、生き生きしてくるし、枯れ草がいろいろな生き物に喰われて循環し、腐葉土になっていく。

それを考えると、イチゴを喰ってしまうナメクジたちも、おそらくは植物が循環していくのに必要な生き物たちなのだ。それを思えば、狙っていたイチゴを先に食べられてしまっても、私たちは一緒に分け合って生きているんだと思えてくる。それが共生するということなのだと思うと、あの虫たちも仲間のように思えてくる。

最初の実が熟し始めて2週間ほどして、今日は食べ切れないイチゴで最初のジャムを煮た。毎日熟したイチゴを摘んで、食べられるだけ食べたら、残りは切って砂糖に漬けておく。完熟した実は、翌日までおいてはおけないのだ。それで、ある程度たまったところで、ジャムにして、瓶に詰めておく。

イチゴのあとには、ラズベリーが熟し始め、それからブルーベリーやブラックベリーが熟してくるので、イチゴが熟し始めると、ベリーの季節が来たことになる。毎日熟したのを摘んで、食べ切れない分をジャムやコンポートにする。そうやって、ジャムやコンポートは、一年中何かはあることになっている。

イチゴ畑と自作のオブジェ

2023年6月27日


【太陽熱シャワーの季節】




6月も半ばを過ぎると、日が射せば夏の暑さになる。こう暑くなってくると、私にとっては、太陽熱シャワーの季節が来たということになる。

もともとは、外に置いてある車の中があまりにも暑くなるので、この熱を使えないかと思ったのだ。それで、茶色いガラス瓶に水を入れておいてみると、半日もしたらシャワーくらいの温水になった。それで夕方、その温水でシャワーを浴びるのが、夏の楽しみになった。

どういう熱源を使っているかで、料理の味が違うということがある。薪の火で料理したものは、電熱調理器で作ったものとは、味がぜんぜん違うし、ガスの火で焚いたものともまた違う。何といっても、薪の火で料理したものが最高だ。

熱は熱なのだから、何を燃やしても同じことのように思えるけれど、どういうわけだか、これが違うのだ。ダウジングなどで波動エネルギーを測ると、電気で加熱したものはエネルギーが低いし、電子レンジでは皆無になるらしい。一方、薪の火で加熱したものは、エネルギーが高い。

おそらく、それと同じことなのだと思うのだけれど、こうやってガラス瓶を太陽に当てて作った温水は、肌に実に気持ちがいいのだ。ペレットのボイラーから出る温水や、電気湯沸かし器で作ったお湯とは確かに違う。肌に柔らかくて、しっくりする感じがする。

太陽熱温水器を屋根に取りつけている家の温水シャワーも浴びたことがあるけれど、あれともまた違う。水道管を通ってきていないからなのかもしれない。シンプルにガラス瓶に入れて作った温水は、ずっと肌にやさしい感覚がある。

水も、水道の水ではなくて、雨水桶の水を汲んでいる。地下を通っていない雨水は、水が柔らかいし、水道管のにおいもついていない。何日も雨が降らないと濁ってくるけれど、多少の微生物はいいことにしている。雨が降ったあとの雨水桶の水は、実にさっぱりした洗い上がりだし、何日か経った水は、柔らかくて温かい感じがする。

茶色いガラス瓶をただ陽の当たるところに置いておいただけでも、この季節なら、夕方までにはシャワーを浴びられるくらいに温水にはなっている。石鹸もシャンプーも使わないので、ただ瓶から温水をかけて流すだけなんだけど、これが実に快適でさっぱりするのだ。

オーストリアも対ロシア経済制裁につき合わされて、エネルギー費が高騰しているんだけど、税金から補助金を出している再生可能エネルギーなんかには手を出さず、自然にあるタダのエネルギーを使って、快適に暮らしている。再生可能エネルギーなるものも、結局のところは、お金やシステムに依存した生活に縛りつけるものでしかないことがわかったので、もう興味がない。

それで、森の家では、薪ストーブで廃材や庭の枝を焚いたり、ガラス瓶で太陽熱温水を作ったり、なるべく自然にあるもので暮らしている。水もエネルギーも、本当は自然にいくらでもあるのだ。雨水を太陽に当てて温めたお湯でシャワーを浴びる。まったくお金がかかっていないようなものが、実は一番快適で、豊かなものなのだ。これは、自分でやってみないと、なかなかわからないけれど、やってみると、もう他のものは使いたくなくなってしまうくらいだ。

2023年6月29日


【野草の入浴剤】


ヤロウの花を干しているところ


夏至をすぎたら、庭のあちこちにホワイトヤロウの花が満開になってきた。ヤロウの花は、いい香りがして、お茶にもなるけれど、うちでは欧州ヨモギとスギナと一緒に煮出した汁をお風呂に入れている。ヤロウの花は、香りがいいだけじゃなくて、肌にいいらしい。虫さされや日焼けで肌が荒れているときも、すっと鎮めてくれるようなところがある。

お風呂に野草を入れるようになったのは、2020年の2月頃だった。正体のよくわからないパンデミック騒ぎが始まって、何が効くだろうとあれこれ調べていた。普通、流行病のときには、症状のパターンがはっきりしているので、どういうパターンなのかがわかりさえすれば、ホメオパシーのレメディを1種類か2種類に限定できる。それが限定できれば、誰でも簡単に治せるようになるので、たとえパンデミックに発展しても、何の問題もないはずだ。

ところが、症状のパターンの情報がちっとも入ってこなかった。ドイツのホメオパシーのサイトも見たけれど、症例が少なすぎて、パターンがつかめないとある。インドではすでに流行しているという話だから、インドのホメオパスたちはすでにレメディを見つけているだろうと思った。インド政府が、予防的にアルセカムを勧めていた。あの頃は、人がとつぜん呼吸困難で倒れる動画が中国から来ていたから、アルセニカムは合っているように思えた。アルセニカムは、死の恐怖を感じて、息苦しくなり、呼吸困難におちいったりする。そのことからして、急激に肺炎を起こすのではなくて、心理パニックがパンデミックの原因なのじゃないかと思った。しかし、あの画像も、実はやらせだったことが、あとでわかったわけだった。

その頃、マダガスカルでヨモギのドリンクが効くということを発見して、マダガスカルの大統領が、これをアフリカの他の国にも配ろうとしていた。それで、ヨモギが効くのかと思って、庭に生えていた欧州ヨモギを煮出して、お風呂に入れてみたわけだった。すると、これが実に快適で、ウィルスだか何だか知らないけれど、何でもかんでも浄化してくれそうなすっきり感だったのだ。身体も温まるし、浄化力もパワフルなようだ。それで、ヨモギのお風呂に入っていれば、どんなパンデミックが来ようと問題ないなと思った。

それから、マダガスカルのヨモギドリンクは、世界保健機構が認めなかったとか、毒を入れたらお金をやるとかいうことを言われたとかいう話で、大統領がブンブン怒っている動画が拡散されていた。この大統領は、アフリカだからってバカにしているのか、と怒っていたけれど、その後、ハイドロクロロキンもイベルメクチンも禁止になって、腎臓やられることで知られていた抗ウィルス剤だけが推奨されていたから、アフリカだからとかいう問題ではなかったことも、あとでわかった。

それで、庭の欧州ヨモギを煮出した汁をお風呂に入れて入っていのだ。感染予防とか何とかいうよりも、身体中生き還るようで、全身の細胞が生まれ変わるかのようだ。身体が緩んで血行がよくなり、温まる。こういう感じになっているときは、循環が活性化しているから、身体はどんな問題でも治してしまうのだと思う。

そのうち、スギナが入ると肌や髪が生き還ることがわかり、スギナも入れるようになった。それから、ヤロウの花が肌荒れにいいことがわかり、それも入れるようになった。どれも、庭にいくらでも生えてくる野草だ。

夏の間は、そのたびに庭から野草を摘んできて、煮出してお風呂に入れている。冬に使う分は、今のうちに摘んで干しておく。それでこの頃は、ヨモギやスギナやヤロウを摘んでは、干している。

ヤロウの花はいい香りがするので、花束みたいに束ねて、部屋のデオドラントみたいに使っている。この香りは神経を鎮めてくれるので、ベッドのところに置いておくと、よく眠れるのだ。それで、よく乾いたら、花のところだけ切って、紙袋に入れておく。これで、来年また咲く季節まで、干した花をお風呂に入れることができる。

野草は、食べたりお茶にしたり薬にしたり、いろいろ使えるけれど、お風呂に煮出し汁を入れるのは、実は最も野草のパワーを全身に感じることができる。住んでいるところに自生してくる植物は、その人に必要なものだというけれど、野草のお風呂に浸かっていると、庭の野草に守られているというのを、しみじみと感じるようだ。

ホワイトヤロウの花


オウシュウヨモギとスギナ。 ピンクの花は、アルペン・アカツメクサ trifolium alpestre。ドイツでは絶滅危惧種の指定されている地方もある。

2023年7月3日


【スギナ粉の料理】

スギナ粉入りのポテトサラダ。庭に生えていた花をのせた。桃の葉桔梗、ヒメジオン、西洋オトギリソウ、黄色いレンゲ、野生のタイム。


今年はあまりスギナがたくさん生えるので、久しぶりにスギナのういろうを作ろうと思って、スギナ粉をこしらえた。スギナ粉は、要するにスギナをパリパリに乾燥させておいて、ミキサーなんかで粉々にすればいいんだけど、これが抹茶のような感じでいろいろに使えるのだ。

抹茶というのも、要するにお茶の葉っぱを乾燥させて、粉に挽いたものなわけだから、まあ同じようなものだとは言える。葉緑素たっぷりな粉末だ。スギナはお茶の香りはしないけれど、葉緑素の味はする。

残ったスギナ粉を、試しにミューズリーに入れてみたら、これがなかなかいける。オートミールにスギナ粉をふりかけて、そこに豆乳とハチミツを入れただけなんだけど、抹茶のような緑色になったオートミールは、それだけで何もいらないくらい、パワフルな食べ物に変身する。

ポテトサラダにも、パセリの感じでスギナ粉をふりかけてみたら、これもなかなかいける。ポテトサラダにスギナ粉をふりかけ、庭に咲いている花を適当にのっけたら、それだけでけっこう気の利いた料理になってしまった。

それで、おからに片栗粉を混ぜて蒸したおから団子にも、スギナ粉を入れてみた。生地にも混ぜて、あとで上からもスギナ粉をかけた。

あまりにも抹茶に似ているので、熱湯を入れて、抹茶みたいに淹れてもみた。抹茶みたいにきれいに溶けて泡立ったりはしないんだけど、このスギナ粉茶もこれはこれでなかなかおいしい。カフェインなしで、葉緑素たっぷりな飲み物だ。

庭に生える野草は、だいたいもう食べ方を知り尽くしたと思っていたけれど、新しい食材はけっこうまだまだあるものだ。花が咲き、実がなる季節になると、葉っぱは硬くなって、苦味が出たりして、食べる時季ではなくなるんだけど、スギナを粉にすると、こんな季節でもたっぷり葉緑素が食べられるわけだ。

これもこの間、新たに発見した食材のカラスノエンドウのエンドウ豆も、この頃すっかりハマっていて、何かというとカラスノエンドウを採ってきて、ゴマ粒みたいに小さいエンドウ豆を、あれこれの料理に入れている。ご飯と一緒に炊き込んで豆ご飯にしたり、チャーハンに入れたり、パスタサラダにたっぷりのっけたりしている。

そこらじゅうに自生してくる野草で、季節ごとにいろんな料理を作って食べるのが、それだけで面白くて、また豊かな気分でもあり、草さえ生やしておけば、いつも面白おかしく生きていけるんじゃないかと思うのだ。


スギナ粉入りのおから団子


スギナ粉入りのミューズリー


スギナの抹茶

2023年7月4日


【ベリーの季節】


今日の収穫。上半分はラズベリー。左側のが野生種に近い種類。左下が栽培種のイチゴ、右下が赤スグリと黒スグリ。真ん中の紫の小さい実がジューンベリー。

このあたりはヒースと言われるような痩せた土地で、育たない植物もたくさんあるのだけれど、ベリー類だけは何もしなくてもよく育つ。育つというより、勝手にジャンジャン生えてくる。ブラックベリーやラズベリーなんかは、地下茎でどんどん殖えていって、茨の茂みになってしまうので、ときどき引っこ抜かなくてはならないくらいだ。そうでないと、まるで眠りの森のお城みたいなことになってしまう。 森の家では、6月半ばにイチゴが熟し始めると、ベリー摘みの季節が始まる。最初の数日は、ほんの数粒熟したのを採ってきて、初物の味を楽しむ。そのうち収穫がどんどん増えていって、毎日カゴいっぱいに採れるようになる。2週間くらいは、毎日イチゴを飽きるくらい食べて、残りはジャムにしておく。イチゴがだんだん少なくなってくる頃には、ラズベリーが熟し始める。 イチゴは栽培種の苗をいくつか植えたのが、毎年殖えていった。だけどラズベリーは、何もしなくても勝手に生えてきて、殖えていく。うちの庭には、野生種のラズベリーと栽培種のと、3種類くらいのラズベリーが生えている。栽培種のラズベリーは、隣の家の庭から来たのか、前の所有者が植えたのが残っていたのか、よくわからない。ラズベリーやブラックベリーというのは、二メートルくらいまでユンボで引っくり返しても、また生えてきたりするそうだ。一度、野生種のラズベリーだけ残して伐ったんだけど、それでもどんどん生えてくるので、今は栽培種のも生えさせている。これは、野生種のラズベリーよりよほど勢いがよくて、たちまち茂みになって、実をたくさんつけてくれる。 ラズベリーは、野生に近い種類になるほど、香りがあっておいしい。やけに大きな茂みになる栽培種のラズベリーは、実がずっと大きくて、大量に実るし、甘みがあるんだけど、香りはあまりない。それでも、よく熟したのを摘みたて食べるのは、やはり格別だ。ラズベリーは、少し黒ずんでくるくらいの色になったのが、よく熟したやつだ。指先で軽く触れたときに、クニャッとつぶれそうな感じがして、軽く引っぱっただけでスポッと抜けてくる。引っぱっても抜けてこなかったら、まだ熟し切ってないやつだから、そういうのは採らないでおいておく。そうやって、毎朝よく熟した実だけを摘んでくる。 最初に栽培種のラズベリーが熟れてきて、少し遅れて、野生種のラズベリーが熟し始める。これは、実がずっと小さいんだけど、味の濃さと香りは栽培種のラズベリーとは比べものにならない。野生種のラズベリーの味を知っていると、栽培種のラズベリーは、やっぱり水ぶくれしている味だと思う。形は大きいし甘みもあるけど、ラズベリーの本当の味がない。 ベリー類は、熟し方で味がまったく違ってしまう。よく熟して柔らかくなったやつじゃないと、本当の味がしない。そこまで熟してしまったら、もうそのまま口に入れるか、少なくともその日のうちには食べないと、翌日にはダメになってしまう。だから、熟した本当の味がするベリー類というのは、店では絶対に買うことができない。その場で食べるからこその味なのだ。 あと、今熟れてきているのは、黒スグリと赤スグリ、野生のブルーベリー、野いちごとジューンベリーだ。ジューンベリーは、ドイツ語でフェルゼンビルネ、Felsenbirne 「岩梨」っていうような意味で、紫色の小さな実がなるんだけど、これが小さいのにものすごく甘くて、洋梨みたいな味がする。これは、野生でも生えているらしいんだけど、園芸店で苗を買ってきて植えた。春先に白いスモモの花みたいな花をつけて、ブルーベリーくらいの小さな実がなって、濃い赤紫色になると、食べ頃だ。 黒スグリと赤スグリは、パートナーのお母さんが庭から分けてくれた苗を植えたので、今まではほんの数粒しかならなかったけど、今年はけっこう実が房になってなった。赤スグリは酸っぱいんだけど、よく熟したやつは、けっこう甘みがある。街に住んでいた頃は、よく農家の朝市で買っていたけど、売っているやつは、それほど熟し切ってはいないので、かなり酸っぱかった。だから、たいていはケーキにしていて、そのままの赤スグリがおいしいなんて、思ってもいなかった。熟し切ったスグリの実を食べるなんていうのも、庭に生えていてこその楽しみだ。 ブルーベリーは、このあたりでは、木が茂っているところには、いくらでも自生してくる。7月になると熟し始めて、9月初めくらいまである。うちの庭に生えてきたブルーベリーは、日がよく当たるところに生えているのが、先に熟し始めたので、通りかかると摘んで食べているけど、本格的な季節には、まだ一週間くらいはある。 野イチゴは、生け垣の下に生えてきて、毎年少しずつ殖えている。これは、ほんの小さな実なんだけど、ものすごく濃い味がして、香りがある。これは、栽培種のイチゴには絶対にない香りだ。野イチゴも、触ったら潰れるくらいに熟したのが、本当の野イチゴの味がする。だから、摘んだらそのまま口に入れるか、そのままジャムにするしかない。うちの野イチゴは、まだそれほど実がならないから、せいぜいその場で食べるくらいだ。だけどこれが、たったのひと粒でも、びっくりするくらい香りがあるのだ。 ラズベリーが終わる頃には、ブルーベリーが熟し始めて、ブルーベリーが終わりかける頃になると、ブラックベリーが熟し始める。自然というのは、ちゃんと順々に時季をずらして実がなるようにできているのだ。それで、虫にも鳥にも動物たちにも、ちゃんといつも食べるものがあるようになっている。植物というのは、太陽光から食物を作り出すことができる唯一の生物なのだから、ちゃんとすべての動物たちを養うようにできているらしい。だから、当たり前といったら当たり前なんだけど、すばらしいベリー類が、勝手に自生してきて、次々と時季をずらしては花を咲かせては実をつけていくのを見ていると、自然が共生しているということの見事さを感じないではいられない。

栽培種のラズベリー


野生のブルーベリー


野生のサクランボ


野イチゴ


ジューンベリー Felsenbirne

2023年7月6日

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