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愛とワークショップの話

前回のnoteで「おもしろいをシェアしたがりさんがワークショップに目覚めた話」を書いた。

そんな私がなんやかんやとワークショップと出会って運命を感じたのには、「考えるってこういうことだ!」と考える楽しさに目覚めたのがひとつだけど、もうひとつ、ワークショップにはその場にいるすべての人への愛がある、と思ったことも大きいと思う。

前回noteに「大学で何をやりたいかわからなかった」って書いたけど、ほんとは大学入学当時、「不純だなあ」と思って堂々とは言えなかっただけで、個人の中で探究していたテーマは実はあった。

それが「愛って何?」ってこと。

当時付き合っていた人は今の夫なのだけど、高校1年生からの付き合いで、控えめにいってベタ惚れだった。
だからこそ、慣れない我が恋愛感情(主に嫉妬とか)に振り回されることも多々あって、高校時代には一時的に別れることを選択したこともあった。

そんな中で浮かんできた問い。
「どうして人は好きだけじゃうまくいかないのか?」「愛しているはずなのに、相手を傷つけたり幸せにできないこともあるのはなぜなのか?」「どうしたら愛する人とハッピーに愛し合えるのか?」etc..

これらはまさに、18歳の私にとって、最も我が身にせまる重要なテーマだったのだ。

だから大学1.2年次は、哲学の授業にどハマり。アリストテレスとかプラトンとか。生きるってなんなのか?人を愛するってどういうことなのか?そういうのに真正面から取り組むおもしろさがあった。

そして真正面からメラメラと心の中で取り組み続けた結果、学部後半の専攻を決める頃には、「人によって愛って何かは変わってくるし、それは経験や文化によって影響されるらしい。だとしたら、こんな十数年しか生きていない私ごときが、先人たちの文章をただ読んだところで、何が愛かなんて、わかるはずがない」という結論に至った。

でもだからこそ、あらゆる「ヒト」に普遍的な、文化によらず通底的な「愛」はあるんだろうか?

そんなことが気になって、文化人類学を専攻に選んだ。
結果として、研究室に入ってすぐ、他の人の研究したいこととか関心領域があまりにちゃんとしているように聞こえて、「やべえ、愛について知りたいですとか言えねえ」とひよってしまったのと、人類学という学問に伴う最低限の教養についていくのにそこからは必死だったのと、人類学の王道たる婚姻はなぜかちょっと気乗りしなかったのとで、そこからはあんまり「愛について」は学問の場では真正面から取り組めていなかった。

ただ、好きな人とほぼ同棲状態で、何度も喧嘩したり話し合ったり、自分の人生と好きな人と過ごす時間のバランスについて悩んだり…いろんな実体験を経て、「私にとって大事なのは、普遍的な正解の愛のあり方じゃなくて、目の前のこの人とわたしにとってのハッピーな愛のあり方だな」という考えに至っていた。(ある意味、その究極の個別具体性にこそ愛の普遍性があるような気がしてる。)
それから、好きな人を「愛する」ためには、その人や自分自身と向き合い考え続ける「強さ」や「賢さ」も大事なんだ、とも思った。

そんななかで、ワークショップに出会った。
「こうだよ」と明示的に教わることが中心なのではなく、仕掛けのなかで遊んでみる、やってみる中で「考える」ことが中心にあること。
そういう新しい「学び」の場の装置のおもしろさに最初はたしかに惹かれた。

だけど徐々に、そうした場を作り出しているいろんな人たちと関わるにつれ、結局仕掛けや装置以上に大事なのは、ひとりひとりが「自ら考えそれを恐れずにアウトプットできる」ために、ひとりひとりのあり方や考え方を「そういうものなんだね」と受け止める、場を作る人の懐の大きい愛なんじゃないか、と思うに至った。

ワークショップデザインが、普段と違う視野から考えを前に進めるための楽しい仕掛けづくりだとしたら、ファシリテーションは、あらゆる考えを受け止めるためのリアルタイムな愛の表現だ、と思っている。

目の前のその人、その場に誠実であること。それから粘り強く相手と自分自身に向き合い考え続けること。

そういう論理と情熱というか、左脳的なところと右脳的なところというか、人間全体が求められるところにこそ、ワークショップの面白さがあるような気がするのだ。

#ワークショップ #ファシリテーション

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