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夢を買う【短編小説】

 「夢を買ったらしい」
 北千住。駅前にあるチェーン店の海鮮居酒屋で小島先輩が言った。
 はあ、恵比寿洋平は曖昧な相槌を打ちながら、卓上に並んだ枝豆を口に運ぶ。
 「営業の田中。先月末で辞めただろ」
 田中さんが辞めたことと夢を買ったってことのつながり、文脈が分かりかねた。
 「夢って、やりたいことですか」
 「違うねえ」
 小島先輩はジョッキに入ったビールを美味そうに舐める。もったいぶった様子で洋平をにやにやと見る。
 「恵比寿くん、君は夢を売る男の噂を知ってるかい」
 夢を売る男? 洋平は首を横に振った。
 「それはメタファーとしての夢ってことですか」
 「いや現実的に睡眠時にみる夢のことだ」
 「ますます意味がわかりませんね」
 互いにジョッキの中の液体をぐぐっと飲み干した。洋平は片手を上げて店員を呼ぶ。生でいいすか。小島先輩が頷く。生二つ。先にオーダーしておいた浜焼きや刺身の盛り合わせと冷えた生ビールが同時に運ばれてくる。
 「その男は夢で金塊の在り処を見たことがあるらしい。でな、後日気になってその場所に行くと、本当に金塊が出た。億万長者だ」
 「一夜にして」
 「そう。出来すぎた話だよ」
 透き通った鮪の赤身を醤油へ付けて、舌の上に載せる。とろける旨味に洋平は悶絶しそうになる。これ美味いっすよ。小島先輩は、ここ意外と魚の鮮度良いよなとほくそ笑む。億万長者にはきっとない慎ましい喜びだ、洋平はそう思う。小島先輩が話を続ける。
 「男はその後も不思議な夢を見た。競馬や宝くじが立て続けに当たり、男は次第に怖くなってきたらしい。これほど幸運が続くということは、今後悪いことが起きるかもしれないと」
 「別にいいじゃないすか、お金に困らないんだから」
 洋平が悪態をつくと、小島先輩は、人間そういうもんだよと洋平を諭した。
 「そのうち男は人に夢を売ってみることにした。田中はその男に出会ったらしい」
 「じゃあ田中さん今頃億万長者ってことすか」マジ? 洋平は目を見開いた。
 小島先輩は周囲を伺って声を落とす。
 「田中が言っていたんだ。その男は北千住の飲み屋をはしごしているって」
 そういうわけか。飲みに誘ってきた小島さんがわざわざ職場のある浅草ではなく、家から遠ざかる北千住を指定してきたのは。
 「でも何でただであげないんです? 男は売らなくてもお金に困ってないんでしょう」
 「それは俺もわからんが、ただであげて、そいつが嫌なヤツで、言いふらしたり、悪用したら、恵比寿くんならどうする?」
 「めんどくせえな、って思いますね」
 「だろ。それなりの対価が必要だろ」
 「田中さんは何か資格みたいな、男に認められる何かがあったんですかね」
 「純粋に運がよかったのかもな」
 「世の中、無料、タダって言葉のほうが怖いぜ。カラクリがあんだよ」
 洋平と小島先輩が向かい合う卓の上のポップに、『弊社のアプリに登録してくれたら、生ビール一杯無料』と書かれていた。洋平は登録しようか迷っていたが、小島先輩の話に、ですね、と同意した。先輩の言う通りこれにもカラクリがあるのだろうか。
 小島先輩は飲みの席のネタとして【夢を売る男】の話を持ってきただけで、話を信じているわけではなさそうだった。その後、話題は社内の恋愛ネタや上司の悪口、上がらない月給と自分の立場の話に終始した。うだつの上がらない会社員でも、未来に期待しなければ悲観はない。酒に夜を溶かして時間が過ぎた。
 「じゃあ気を付けて帰れよ」席は小島先輩のおごりだった。洋平はつくばエクスプレスの改札まで彼を送って、ごちそうさまでしたと礼を述べた。終電まではあと一時間ほどあった。洋平は一人で飲み直そうと再び繁華街へと出る。金曜の夜、まだまだ多くの人が行き交い、混雑を避けるように、洋平はマクドナルド横の細い路地へと入っていった。
 
 『ドンッ』不意に死角から老人が出てきて肩と肩がぶつかった。老人が持っていたストロング缶が、中身をぶちまけながらカラカラと乾いたアスファルトの上を転がっていく。
 「すみません」洋平はとっさに謝った。老人の顔の半分は白い髭で覆われていて、底の見えない湖のようなブルーの瞳と目が合った。
 「ケガはないですか?」「ああ」
 洋平は安堵すると、近くのコンビニへ走り落としてしまったストロング缶と同じものを二本買ってきた。老人へ渡すと、なぜ二本なんだ、と彼は尋ねた。
 「気分良く吞まれていた時間を止めてしまったので、もう一本はお詫びです」
 「ありがとう」老人は洋平をまじまじと見た。洋平も老人へと向き直る。どこかこの世を悟っているような不思議な雰囲気を老人は持っていた。足は悪くなさそうだったが、腰が曲がっていて、実際の身長よりも低く、洋平の肩ほどであった。服は麻のオーヴァーにカーキ色の動きやすそうなパンツ、足元には下駄を履いている。
 「君は────」老人が口を開いた。声はしゃがれていた。「────夢を見るか」
 「あまり見ませんね」睡眠は洋平にとって一瞬の出来事だった。夜、布団に入り眼を瞑れば朝が来る。
 「なぜ人は睡眠時に見る映像と、なりたい将来像、どちらも《夢》と呼ぶようになったんだと思う?」
 「わかりません」答えながら、身体がどこか宙に浮くような、足元がおぼつかない感じがしていた。酔いが今になって回って来たのだと洋平は考える。
 「無意識とイメージが交差する場所に、たくさんの宝が眠っている」
 老人の声が鼓膜を通り過ぎて脳内にぶつかっては反響していく。
 「それを私は──見つけたのだ」
 えっ? 洋平は老人を見つめて意味を確かめようとする。しっかりと二つの眼で捉えた。日に焼けた深い皺の刻まれた顔、ブルーの眼は高温で燃える炎のように妖しく光っている。
 「かつて、フロイトやユングすら辿り着けなかった場所。それは確かにここにある」老人は右手の人差し指で自らの額をコンコンと叩いた。
 「そこに行けばあらゆる夢は叶うことを、私は知った」
 洋平は眼を離せない。老人の語り口に次第に引き込まれていっている。危険だ──。洋平の神経細胞たちがアラートを告げている。
 「その通り、夢や無意識を扱うのはとても危険なことである。私は愚かだった。自らの欲望のためだけにその力を利用してしまった。私は私を自戒するために、力を、人へ惜しまないで使おうと決めた」
 夜道を通り過ぎる人たちには、まるで洋平と老人の姿が目に入らないようだった。彼らは何かに急いで、帰り道や次のお店へと足早に歩いていく。時間は昨日と明日の境から脱線し波打つようにゆらゆらとその場に漂い始めていた。
 「夢を買わないか」
 老人の言葉は妖しく、洋平の心をざわめかせた。
 「夢をですか」
 ついさっきの、小島先輩とのやりとりを必死に思い出そうとする。夢を買う。退職した田中さん。夢を売る男。億万長者。北千住────。
 「週末に船橋競馬場であるレース、その順位が見えた。いくら賭けるかは君の自由だが、数年は生活に困らない暮らしができるだろう」
 そんなに。
 手には汗が滲んで、喉は渇いてきた。
 「君はわざわざ同じ酒を買いに戻った、しかも二つも。優しい人物だ。話す姿勢、顔つき、トーン、信用できると私は踏んだ。次は君の番だ。さあどうする」
 「良い話ですけど──」
 断るのか。今のままの生活、仕事。単調な繰り返し。このまま残りの人生を生きていくのか。俺の人生、悪くはないんだと言い聞かせて。
 どこかで諦めきれない、だから────帰らずに終電まで、この街を、この男を、探してみようと思ってしまったんじゃないか。夢を買う。話を聞いて出会った。今がまさに、タイミングだろう。洋平はごくりと唾を飲んだ。
 「いくらですか」
 洋平は聞いた。声は少し震えていた。
 老人は片手を上げる。五本の指を開く。   
 五。
 「ごまん」
 「五十万だ」
 そんなに。
 「君の覚悟を知りたい」と老人が言う。
 俺は。
 洋平は舌先で唇を湿らせて、老人に聞く。
 「夢が本当になるって、証拠はあるんですか」
 老人の微々たる変化も見逃さないよう、洋平は腹をくくる。
 「ある」
 その表情や身体の動きに不自然なところはなく、老人はさらりと言った。
 「見せてください」
 ひるむわけにはいかなかった。
 老人は腰に付いている巾着を外して、洋平の前に差し出した。巾着はじゃらっと重そうな音をたてた。
 「この中に一部だが宝石、金、ダイヤモンドの類を入れている。こんな身なりでこれを持っているのは十分に証拠になると思うが」
 洋平は手を伸ばす。と、老人はその巾着を持っている腕を引っ込めた。
 「見せることはできるが──中身を見た場合、君には夢を売れない」
 「どうして──ですか?」
 「そういう決まりなんだ」
 決まり、何の? 洋平は首をかしげた。しかし、老人はそういう事になっているんだ、としか言わない。
 「ひょっとすると、君は蝕まれていたんじゃないか」
 「何がです」
 「退屈だよ」
 洋平の背中に冷たい汗が伝っていく。退屈。繰り返しのルーティンの毎日に刺激を求めていないとしたら嘘になるだろう。でも。
 「それは、みんな同じじゃないですか?」
 洋平の声は裏返って、北千住の地面へと力なく落ちていく。
 現実的じゃない出来事が現実に洋平の身体を硬直させている。億万長者。馬鹿げている。だけど、もし本当だったら。五十万は妥当かもしれない。いや、そんなわけない。
 酒に酔った会社員がふらつきながら、道を歩く。どけよ。路上に近い場所は汚いものであふれている。
 「買います」
 洋平は決断した。
 老人は答えの代わりに巾着を洋平の手の平へと落とした。
 じゃらら。洋平が中身を見ると、ずっしりとした重さの金や宝石が入っていた。
 ホンモノ────。
 老人はゆっくりと頷く。
 「では先に五十万頂こう」
 洋平はATMに走った。身体の力は抜け、高揚感が身を包んでいた。
 「これでいいですか」
 「確かに」
 五十万を老人に渡すと、洋平は迫った。
 「で、何を買えばいいんです?」
 「何がじゃ」
 「馬券ですよ」
 とぼけないで早く教えてくださいと、老人に詰め寄る。
 「その夢は今夜見るんだ」
 「いや、約束が違う」
 「これから一生遊んで暮らせるというのに一夜も待てんと言うのか」
 「む」
 「何、信じられんのだったらその宝石を担保にしてもよいぞ」
 洋平はもう一度まじまじと巾着の中身を見た。光沢や重量、さすがに本物にしか見えなかった。これだけあれば、確かに。
 「わかりました──」
 洋平は渋々と頷いた。
 「明日の夜、北千住のロータリーで落ち合おう。二十四時に」
 老人は歩いていく。

 やはり信じられない。後を付けようと、洋平は帰ったふりをして身を潜めた。しばらくして、路地を引き返す。老人が見えないのが不安になったが、数ブロック先を右に曲がったところに彼はいた。
 老人は階段の段差に腰掛けてストロング缶を二つ続けて煽った後、おぼつかない足取りで歩き始めた。
 気持ちよさそうに鼻歌をうたう。
 老人はポケットから、洋平が渡した五十万のうち数枚を取り出して、夜空に掲げた。
 それから勢いよく紙幣を引き裂いた。
 洋平は驚いて声をあげそうになる。
 びりびりに破かれた諭吉はひらひらと舞い、風に運ばれていく。
 「おい」
 衝動は止められなかった。「俺の金だろうが」
 洋平は後ろから老人の肩を掴む。
 老人は悠然と振り向いて言う。
 「もう私のお金のはずだが」
 老人は紙幣をさらに数枚、びりびりと破いては道端に捨てた。
 「やめろ」
 何なんだこいつは、意味がわからない。洋平は強く老人を揺さぶった。
 「これは俺が働いて稼いだ金だ」
 老人は残念そうな顔を浮かべると、「ただの紙切れだよ」と呟いた。酒臭い息が顔にかかる。
 「いい加減にしろ」
 洋平は老人を突き飛ばした。
 路上へ倒れた老人は力なく言う。「かわいそうに」
 はあ? 洋平は老人を睨みつける。老人は続けた。
 「君は────君が本当に欲しいのは、金と夢、どちらだ」
 明らかに洋平を憐れんでいる眼。
 うるさい。洋平は地面に散らばる紙幣の切れ端に手を伸ばす。
 「退屈は────」
 地面に近い位置に洋平も、老人もいた。
 「────金じゃあ埋まらない」
 老人は天に紙幣を掲げて、破る。破る。
 上気した頬、握りしめた拳に浮き上がる血管、速くなる心臓の音。
 洋平は膝をつき必死に拾い集めた。
 日付が変わり、終電がなくなっても、ひとり。
 路上に散らばるただの紙切れを。

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