見出し画像

あの頃、通知表に書かれた「正義感が強い」は褒め言葉じゃなかった。

小学生の時に通知表に書かれていた正義感が強い、は単なる長所とか褒め言葉じゃない。と今思ってる。いや、当時だって子供ながらに嬉しくはなかったし、喉につっかえて飲み込めなかった。

理由のひとつはシンプルで、多分、正義感が活きる世の中じゃないと昔も今もよくわかっているからだと思う。大事に伸ばしたところで何になるのか。
いじめは良くないと声を上げればいじめの対象になる、不正を正そうとすれば解雇や左遷にあう世の中だ。正義感なんてなんの役にも立たないことは多い。
今、日本のどこを見渡しても(私の思う)正義はほとんど勝たない。


そもそも、正義は人の数だけあると言ったら大げさかもしれないけれど、互いの正義感を持って戦争が起きるくらいには、正反対のそれが存在することは確かで、

究極を言えば正義感は時に人を殺す形のない武器にだってなってしまう。

身近では、いじめは良くないという正義がある一方で、
自分の居心地のよさを確保するために気に入らないモノは抑え排除すべきという正義が働いている。

少なくとも中学生の頃わたしの隣で「あの子、いじめちゃおっか…?」と諦めたように呟いた子の正義感はそこにあった。
(結局その呟きは私以外誰も聞いてなかったので執行されなかったけど)

あの時、先生の目から見た強い正義感とは何だったんだろう?何を正義としていたんだろう?マジョリティな正義の話だったら、マイノリティな正義を持って、そうするより他に居心地を維持できないいじめっ子たちは、どうしたらいいんだろう?

画像2

片一方の正義感だけを褒めることはできない。
自分の正義感を一度疑う力と、
正反対にある正義の中身を見に行く力と、
必要があれば真ん中を見つけるか、交わらないようにする努力が要るって、もっと早く教えて欲しかった。

正義感が強いことが褒め言葉として馴染まなくとも、伸ばすべきところだ、自分は間違ってないんだ、と一辺倒に来てしまった大人はとても手強いものだから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?