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真実が出てこられる場

以前からそうだったけれど、最近特に「場づくり」のことを考えている。
私が「場づくり」と言うとき、その場に求めているものは何だろうか。
そう自分に問うてみて、出てきた答えは

「その人にとっての真実が出てこられる」ということ、だった。

そして、「出てきたものがその人の真実だと信じられる」こと。


「察する」に価値を感じていない

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「この人はこう言っているけれど、本当はこう思っているだろう」
そう察することそのものにも、察することができるという力にも、私は価値を感じない。
もし、ほぼ百発百中に近い形で相手の内側を「察する」ことができるとしても、だ。

それよりも、その人が自ら真実を語れることにこそ価値があると思っている。

なぜ「察する」のか。雑な理解かもしれないけれど、それは相手をわかろうとし、良い関係を築きたいからではないだろうか。
(スポーツの試合などにおいて敵の心中を察して裏をかく、というようなときは別として。)

その人にとっての真実が見えてこないと、人は人に対して不安になるのだと思う。

私のこと、どう思っているんだろう?
これを言ったら「今さら?」と呆れられるのでは?
「こんなことも知らないのか」とバカにされるのでは?

そうして、その場やその人との関係に、本音・本心を言わずに済ませる、ということが増えていく。
その人の真実が出てこられないことが続き(自分のも他の人のも)、ますます不安感が増していく。

それを和らげたくて、「察する」という力を使うこともあるのかもしれない。「きっとこうなのだ」と自分の中でだけでも答えを置いてしまえば、すっきりするし。

また、良かれと思って、「察する」こともあるだろう。

彼女は気丈に振舞っているけれど、実はプレッシャーを感じながらなんとか踏ん張っているのだろうな。
弱音は吐けない、と思っているかもしれない。
私が裏方でできることは 先回りしてやっておいてあげよう。

それも一つのやさしさだとは思うけれど、その彼女が「こんなところにプレッシャーを感じているんです」と言える場のほうがいい、と私は思う。
「ときどきもうダメかも、とも思うけれど、弱音を吐きたくない気持ちも同時にあって、その二つが両方で綱引きしている感じ」なんてところまで出せるなら、とても素敵だと思う。

察する力を磨くよりも、場づくりを意識したいのだ。

皆も真実を表現しているから思いや考えがわかる。私が感じたこともそのまま真実として受けとめてもらえる。
そういう場をつくることができたら、「相手がどう思っているのだろうか」という不安感を和らげる必要性もなくなる。


「場づくり」の肝

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会議の場でも、チームという場でも。誰かとの、もっとゆるいつながりという場でも。
真実が出てこられる、真実を語ることが歓迎される。そんな空気感をつくるのが、「場づくり」だ。

そこで肝となるのは、「受けとめる」ということ。

何が出てきても、あなたの大切な真実だからOKだよ、という空気感。
そして出てきたものを、実際お互いに受けとめ合うこと。

代表を務めている よさがみえるラボで、最近、こんな記事を書いた。

ここ最近のテレワーク実施・対面打ち合わせの自粛によって機会が格段に増えた、zoomなどによるオンライン会議の「場づくり」について、だ。

その記事では、オンライン会議ですぐに使える5分施策を紹介した。(ご興味を持たれた方は、ぜひお読みください)

会議の冒頭や後半に、5分ほどでできる具体的な方法の記事。この記事を書くときに私がいちばん思っていたことは、この「場づくり」の肝、「受けとめる」ということだった。

場にいるすべての人が、安心して発言できる空気感。そして、それぞれの人の中にあるアイデアや気持ちが「ないことにならずに」場に出されること。

そのために、5分ほどの「受けとめてもらえる」と感じやすい時間を提案したのだ。
「皆の内側を何でも出してね」「どんな小さなことでもOK」とするのも大事なポイント。

「受けとめる」という空気感をいかにつくるか、ということを私はいつも(無意識に)考えているのだと思う。

リアルに会議室に集まってする会議も、画面を通して話す数十分も、「会議」でなくても人が集まって話す場はすべて、「場づくり」が大切にされていない(多くの場は意識すらされていない)と感じると悲しくなる。

真実が出てこられる場。
出てきたものが、その人の真実だと信じられる場。
そこから生み出されるものは、信頼と安心と未来へのワクワクに満ちている、と思う。

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