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生い立ち

今日は私の生い立ちについて
お話ししたいと思います。👶🏼🍼

私は平成5年生まれ。
予定日は平成6.1.1。
父の実家、茨城のど田舎(失礼)で
私は生まれる予定だった。

母は頼れる自分の実家がなかった。
母方の祖母は母が小学生の時に亡くなっている。
精神疾患もあり、母は自分の母をよく知らない。
幼少期は親戚中をたらい回しにされたそう。
母方の祖父は定職につかない人だった。

私の生い立ちについてなので
母の生い立ちについては省略。
とにかく、壮絶で私には想像もできない。

そんな母だったので私を妊娠した時も
まだ結婚していなかったため
父に伝えるのをすごく躊躇ったそう。

父は私を妊娠したことを聞き、
すぐに結婚した。式も挙げた。

ちなみに母もはたちくらいの頃、
精神を病んでしまい記憶のない時期があるそう。
私は先天的にもメンタルが少し
病みやすかったのかもしれない、と思う。

そして運命の日。
翌日から里帰り(父の)して
出産準備をするという日。
の、前日夜。

👩🏻「お腹が痛いかも」
(トイレに行くもなにも出ない)
👨🏻「1ヶ月も早いし、前駆陣痛ってやつかな?」
👩🏻「たしかに本(育児書?)にも
   書いてあるね」

そして次の日の早朝。
👩🏻「無理かもしれない、痛すぎる」
👨🏻「えっ、陣痛?間隔は?」
👩🏻「ない」
👨🏻「ない!?!?!?」

里帰り出産予定だったため
通っている産婦人科の緊急時の連絡先がわからず
主治医に意見を聞けない。
救急車を要請しようとも
「お産は病気じゃないんで(ガチャ」

今なら訴えたら勝てると思う。
と、父は言う。まだ若かったしね。

当時陣痛タクシーがあったかはわからないが
そんな頭も回るはずなく、
片っ端から電話をかけ、
ひとつ受け入れてもらえるという
病院に父の運転で向かう。
その間も「はぅ!」「、、、」と
母は痛みに耐えている。
もう生まれるんじゃないかと思ったらしい。

病院に到着すると看護師さんが
車椅子を持ってきてくれたが
広げようとした父が壊す。(笑)
2台目を持ってきてもらい、
陣痛室をスルーして分娩台へ。
到着から15分で生まれたそう。

だが、ギリ早産だったこともあり
チアノーゼを起こし母子手帳には
仮死状態と記されている。
カンガルーケアができないまま
私は別室に運ばれていったそうだ。

👨🏻‍⚕️「カルテは?」
👩🏻‍⚕️「カルテありません」
👨🏻‍⚕️「えっなんで?」
👩🏻‍⚕️「初診です」
👨🏻‍⚕️「初診!?!?!?」

と大騒ぎだったらしい。

父はその時、看護師さんに
「売店でこれ買ってきて!!」
といわれ買いに行き、戻ると
「どこ行ってたの!!!
お父さんには(私を)会わせたかったのに!」

え、、、しんじゃうの、、、?
と、思ったらしい。思うよね。

チアノーゼだったり黄疸だったりで
小さめだから保育器にも入ったし
母より入院長かったし
父が母乳を運んでくれたし
いろんなケアが必要だったが
なんとか無事に生きている(現在)。

母子手帳には
体重:2356g
身長:44.4㎝
頭囲:52㎝ ←絶対に嘘

当時のパニック状態がわかる。(笑)

なぜこんなに詳しく、
当時のことがわかるのかと言うと
父は酔っぱらうといつもこの話をする。
もう軽く20回は聞いていると思う。

当時はボロアパートで2回の部屋だが
ボットントイレ。私はそこで
産み落とされる可能性もあった。

ボロアパートには生まれてから
3ヶ月くらい住んでいたが
1ヶ月は入院していたし、
実質2ヶ月くらい?

隙間風で寒すぎて
座布団サイズのホットカーペットで
寝かせていたらしい。(笑)

ひとまず無事に病院で生まれ、
言葉が出るのが遅かったり
ちょっと多動っぽかったり
(興味があると触っちゃう)
(3歳そこらじゃ当たり前)
髪の毛が生えてこなかったり、、

いろんな心配をかけたが
ある程度育てば喋るようになり
髪の毛も生え、高校は第一志望の
そこそこな学校に受かり
短大も指定校推薦で受かり卒業し
第一希望の保育園に内定し
もう4月には11年目になる。

背だって158、体重はそこそこ
頭囲は多分今52くらいじゃないかな。
生まれたとき、
本当はいくつだったんだろう。(笑)

何か思い出したら追記するかもしれないけど
とりあえず今日はこのへんで👋🏻

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