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だいたいは、程度の問題だ/「街場の成熟論」を読んで

田舎に暮らしていると、生活していく上でいよいよ大変になってきたなと思うことがたくさんある。こどもが通っている小学校もいつまで存続するか分からないし、電車など公共交通の便数もどんどん減っていて、挙げだしたらきりがない。

そして、こうした課題はたいてい、いろんな要因が複雑に絡み合っている、だから簡単じゃない。親世代が高度経済成長期に体験したような、こうすればうまくいくという、簡単ですぐに効果が出るような特効薬みたいなものはない。そうした状況の中で、私たちはどんな姿勢や心もちで生きていけばいいのか、あらゆる角度から考察されている本だった。

「程度の問題」

内田さんは、本の中で何度も「程度の問題」という言葉を繰り返している。

すべての人間は不完全であり、邪悪であり、嘘つきであるという命題は原理的には正しい。けれども、人間の不完全さや、邪悪さや、不実には個人差があり、程度の差がある。そして、人間を衝き動かすのは、しばしば「原理の問題」ではなく「程度の問題」なのである。
私たちは今ウクライナとロシアの戦いにおいて、「程度の問題」がどれほどの現実変成力を持ち得るのかを見つめている。 ウクライナがロシアより「政治的により正しい国」であるがゆえにこの戦争に敗けなかったという歴史的事実にできることなら私は立ち会いたいと思っている。

私たちの生活に、絶対的な正解はない。黒や白のはっきりとした部分よりも、グレーという圧倒的なグラデーションの中で日々揺れ動いている。

個人の中に正解だと思えることがあったとしても、誰かと一緒に生きていく上では、お互いにとっての具体的な落としどころを見つけていくしかない。お互いが許容できる範囲はどこまでか、これも結局は程度の問題なのだ。私たちは、関わる人たちとていねいに粘り強く、話し合っていく必要がある。だから複雑だし、そう簡単にはいかない。

内田さんはそうした過程を葛藤とよび、私たちが成熟していく上では必ずか抱える必要がある感情として話している。

私たちが成熟について知っている最もたいせつな経験則は「人は葛藤のうちで成熟する」ということである。それは組織についても同じだと思う。 深い葛藤を抱えた組織は、そうでない組織よりも成熟するチャンスが多い。

辞書によると、成熟とは、人の心や身体などが十分に成長することで、成長とは、人や動植物が育って大きくなることらしい。成長ばかりして、見た目ばかり大きくなったり、良くなったりしてもしょうがない。

政治とか企業で上の人達が「成長」ばかり叫ぶ国でうんざりするけれど、今自分が抱えている葛藤をポジティブに捉えることができるようになって、もやもやぐるぐるしていたことに「程度の問題」という言葉がふわっとはまって、少し心が軽くなった。

葛藤をうまく抱えながら、成熟していけるといいな。

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