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「私は」という主語で話すことの大切さ

相手にまったくの悪気がないとわかっていても、いや、むしろ好意ですらあることがよ〜くよ〜くわかっていても「それは嫌なんだ」ということってある。

例えば、お酒を飲まない人に大量のビールを贈るとか。そういう「お気持ちは嬉しいのですが、本当にお気持ちだけでけっこうです」というようなことだ。
愛情や好意とはわかっていても、「それはちょっと」というようなことというのは概して愛情や好意を示す側に「よかれと思って」というのがある。そういうよかれと思って案件は、「もの」だとわかりやすい。
前出のビールしかり、結婚式の引き出物が羽毛布団で、その後の二次会やら、帰りの電車やらの移動がめっちゃくちゃ大変なことになったとか。(いまだに忘れられない思い出)

でも、こういうことって、見えないやりとりでも起きるのだ。たいていは人間関係が微妙になったり、金銭トラブルに発展したり、起きなくていいことが起きてめんどくさいことになりがち。

「よかれと思って」の中には、自分が実はほしいものを人に与えるという罠がある。自分がビールが好きだから、きっと相手も喜ぶだろう的な思い込みで、相手がお酒が好きかどうかも確認することなく贈るようなものだ。

お酒が例だと「えええ、そういうの確かめるのが常識じゃない?」と思うだろうけれども、これがみなえないものだと違ってくる

例えば、しんどい思いをしている人に、優しく言葉をかけ、抱きしめる。優しさとはそういうものだと思っている人は、周りにもそれをする。

でも、世の中にはしんどい時こそ、そっとしておいてほしい。一人にしてほしい人もいる。そういう人にとっては「ああああ、悪気はないのはわかるけど、やめてーーー」ということになる。自分がしてもらって嬉しいことが、相手にとって嬉しいこととは限らないのだ。
この行き違いはどんなに気をつけたところでなくならない。でも、人にはそれぞれ自分とは違う価値観を持って生きているのだという認識を持っている人と、それを持てない人では、人生の質が変わってくるように思う。

そういえば、昔、当時付き合っていた彼の話をしつこく聞きたがる友人がいた。「あなたはあんまり自分の話しないけど、彼とのことで嬉しかったこととかあったら話して〜。私、人の幸せそうな話を聞くのが好きなんだ」というのだが、結局、自分の恋愛ののろけ話を私の3倍は話して終わるなんてことがあったっけ。

その友人もそうだけど、自分が欲しいものを「あなたのために」に変換して与えることで自分の欲しいものを得ようとする
「私が人にしてあげたいと思う、それは、本当は自分が何よりも欲しいものではないだろうか?」いつも自問自答する。
先に人に与えることで、自分が得ようとしてないか?
だとしたら、まず、自分が自分にそれを与えてあげよう

あなたのためにが複数形のみんなのためにとなる人もいる
それもまた同じように自分の本音がわからなくなっている人に多くみられるパターンだ

これについては本日のスタエフで話していますので、よかった聞いてください

https://stand.fm/episodes/64ed4b41bc04cade42796dc2


どっちにしても主語は「私」で話したほうがコミュニケーションはシンプル
「私は」を言えて初めて、「あなた」や「みんなのため」が本当の意味での思いやりになっていくのだろうな



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