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「脳内幽体離脱」というブログタイトル

 アメブロで「とっちらかった道の先」というブログを書いている。
このブログはカウンセリングを学び始めていた2012年の頃に始めたブログなので、かれこれ10年ほど、ここであれやこれやと書いてきた。
主に心のことが中心だ。そして心を見つめるためには身体のメンテナンスも無視できないことから、時には身体のことなどもここで書いてきた。

 2012年以前には、別なブログサービスで「脳内幽体離脱」というブログを書いてた。こちらは日記みたいなブログで、主に当時一緒に暮らしていた二匹の猫のことや、これも当時習っていた箏曲のこと、そして日々のこんなもの食べただの、ベランダの植物がなどなど、本当にたわいもない内容ばかりだ。ここで6年ほど記事を書いていた。訳もなく「人生に一ミリも約に立たないような最もどうでもいいことを書いていこう」と思ってたような気がする(笑)。色々、疲れていた時期だったのだ。
ブログの内容に全くそぐわない脳内幽体離脱というタイトルを付けたのは、気をてらうためではない。

「とっちらかった道の先」もそうだけど、どちらも「これが私である」と、そのように思って大真面目につけたタイトル。ただ、SNSで発信してお仕事しようとする人には全くもってお勧めできないタイトルであることも理解している。

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脳内幽体離脱の話を戻そう


私は小さい頃から、旅行の思い出話などを家族としていると「あそこの時計台の先にアイスクリーム屋があったよね」などど、存在しない時計台の話を持ち出すような子だった。やっかいなことに、アイスクリーム屋はあり、私が時計台があったとする道は存在し、家族もその点は同意してくれるのだけど、時計台だけがない。
「夢でもみてたんか?」とか「別な場所でみたテレビ塔と記憶がごっちゃになってるのかも」といわれて決着がつくのだが、私の中にはくっきりとその時計台は存在していた。「えー、あなたたち(家族のこと)が勘違いしてるんじゃ?」と思うほどにリアルな記憶なのだが、旅行先の写真を見ると家族が言うようにそこには時計台など存在しなかった。

 家族旅行でとある神社に行った時も途中で民芸館によって大きな絵皿を見たと思っていたら民芸館になど寄っていなかったり、学校帰りに息をのむような夕焼けを見たことを夕食時に話したら、今日は夕焼けは見えなかったと言われたり…。

実生活に影響はないけれど、こういう「記憶違い」と周りから言われることがちょいちょいあった。
自らのそんな状態を高校生の頃に「脳内幽体離脱」と名づけた。
その頃には友達が、自分の記憶と違う話をしても「そーか、また脳内幽体離脱してたんだな」と思うだけで、友人に自分の記憶を話すこともなくなった。

なんだか、こうして書くととても危ない人である(笑)
だけど、自分が何かの病気ではないだろうか?とか、あるいはもしかして私は異次元を自由自在に行き来するスピリチュアルな能力があるのではないか?とか(ムーを愛読はしていたけど)そんなふうに思うことはなかった。

自分にはそういうところがあるのだなと思っていた。
そう思えたのも日常生活に支障が出るほどのことではなかったからだろう。

そんなことよりも、高校生の私にとっては親の干渉から解放されたいとか、どうしたら女子力が上がるのか?とかそう言うことの方が深刻な悩みだった。


そこからだいぶ時間が経って、ブログで自分の日常を綴ることになるのだが、最初に思ったのは「脳内幽体離脱状態の私だけの真実が含まれているかもしれない」ということだ。現実には存在しない私だけのリアル。
綴られた内容がありふれた日常であったとしても、だ。
だから「脳内幽体離脱」というタイトルをつけた。

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どうしてこんな話を書いているのかというと、
私のような人が他にもいることを先日知ったからだ。
ピースの又吉直樹さん
彼が相方の綾部さんが出版された本について感想を述べているのだが、まさに脳内幽体離脱現象が起きていたらしく、そのことについて話している動画を見て、ああああーと声にならない声がもれた(笑)

この人の「自分にはいろんな欠点はあるけれども、自分は自分の作品が何よりも好き」と言っているかのような生き方が好きだ。自分に自信が持てなくても自分を愛することができるのだと、そんなふうに思えるからだ。

そしてそういう人の創作の源にあるだろうものに、ほんの少しだけでも「こんな感じなのかな」と触れられたような気がして嬉しい。


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