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愛することは「四六時中一緒にいること」でも「相手の価値観を100%肯定することでもない」のだ

今、コミュニケーションに関するワークショップを考えていて、コミュニケーションとはなんぞや?などど、友人といろいろ考えたり話し合ったり、過去の自分のことを振り返ってシェアしてみたりしている中で、私と母親との関係について改めて振り返ったのでここに書いておこうと思う

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 母親は私にとって小さい頃から不思議な存在だ。ぶっちゃけ同じクラスに母親のような人がいたら友達にはなれなかっただろうなと今でも思っている。
気になるところが本当に違う。いつも母親の「私はこれが気にくわないのよ」とか「こういうふうに生きるべき」という話を聞かされるたびに「へー、意味わからん」と思っていた。そして母親は「この話を『へー』で済ませるあなたがわからない」ということを、母親らしい言葉でずっと言い続けてきたし、今でも言う。きっとずっとお互いに「あなた、意味わからん」のままなのだろうと思っている。

でも、意味がわからない母を私は憎んではいないし、母も私を憎んではいない。「わかるわかる〜」という女子的な会話はまったくできないし、用事がなければ半年でも1年でも連絡をとらない私たちだが「それでも大事に思っている」という意味においては相思相愛だ。まわりから見たら冷たい親子関係に見えるのかもしれないけれどもね。


人を何十年も恨み続けると言うのはある意味粘り強いなと思う。しつこさは粘り強さという裏返しでもある。
小学校4年生の時、転校する私に当時の担任が「継続は力なり」という言葉を色紙に書いて渡してくれたほど、物事に執着しない子だった私のようなものにとって「人を恨み続ける」というのは至難の業である。母のことで言えば「私と同じ反応をしてほしい。なんとしてでも!」というねばり強さは私にはないのだ。

このねばりのなさをずっと「私は冷たい人」と自分を責めて生きてきた。
母親が求める「共感的反応」こそが血の通った人としての正しい在り方であり、そういう反応が心の底から湧き上がってこない自分はおかしいと思っていた

でも、それは違っていたのだ

大事に思っている
愛情があるということと同じ価値観であるということは別なのだ

同じ価値観と愛情はイコールではない

このことが理解できるまで、私は自分を責めたし、また私と価値観を共有してくれない母のことも責め、心理的な復讐モードに入っていた時期もあった。

大切なのは「同じ」であることではない。「違っていても愛している」という自分の中の愛情に気がつくことだ。違っているから愛せないと思うのなら、そこに自分の成仏していない思いがある。相手ではなく、自分の中の問題なのだ

「世界は優しい」とか「そのままで愛されている」とかよく言われるけれど、それは言ってみれば自分の中にある愛に気がつくということだと思う。

愛されている実感とは、自分の中の愛に気がつくことでもあるのだ

そして愛することは「四六時中一緒にいること」でも「相手の価値観を100%肯定することでもない」のだ。愛情の形にはいろんな形があるけれど、究極的には
「ただ相手が幸せであることを願う」ということだと思う。それが例えもう会うこともない相手だったとしても…だ。


そんなふうに相手に対して自分が思っていることに気がつけば
「違う」ということは怖くなくなる
嫌われることすら「あら〜、寂しいけどそうなんだね」と思える

そういう意味で今、私は自分のことを「ものすごく愛情深い人間なのではないか?」とすら思っている(笑)
そして同時に自分はこれほどまでに世界から許されていたのかとも思っている


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