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日常の切れ端の隅っこに宿る恩恵

静かな雨の日に10人くらいの男子高校生の集団とすれ違った。その中に一人松葉杖をついた子がいて、その子を囲むようにゆっくりと向こうから彼らは歩いてきた。激しい降りではないけれど、小雨とは言い難い中、ゲラゲラ笑いながら歩いている。誰も傘をさしていない。駅につくころにはみんなけっこう濡れるだろう。
たまたま制服のシャツが薄いブルーだったせいか、大きな紫陽花の花が雨に揺れているみたいだった。

そんな彼らとすれ違いながら、私はよいシーンに出会えたなと妙に幸せな気持ちになった。彼らは松葉杖の友人を気遣ってはいるけれど、腫れ物にさわるような扱いをしていなかった。人をかわいそう扱いして遠ざけない。みんなで一緒にいるのが楽しいからそうしてるという感じが全体に溢れていて、それが私を幸せな気分にさせてくれた。


一期一会だなと思う。「彼らと」というよりも「その瞬間との出会い」においてそう思う。
なぜならば、次に彼らと出会っても同じような気持ちになるとは限らないから。
彼らのコンディションもあるし、私のコンディションもある。あの瞬間の彼らと私だったから、私がすっと入っていけたレイヤーにその幸せはあったのだ。

そういう一瞬だけでも神聖なものを感じ取れるうちは、様々なレイヤーが存在するこの世界にいろということだろうと思っている。
この世界を信じられることが生きる力を与えてくれる。それは恩恵だ。生きるということそのものが、恩恵を受けるものとしてできるこの世界への循環なのではないか?

自分を楽天的だなぁと思うことがある。
世の中では不安を煽るような事件が起きているのに「なんとかなる」と思っている自分がいたり、自分と同じような環境や境遇で絶望的な気分になっている人がいるというのに。バカなのかもしれない(笑)

きっと私が楽天的なのは、あの高校生とすれ違った瞬間みたいなものを、自分なりに拾い集めてきたからだろう。
小さい頃の冬のある日にこたつで母と弟と3人で横になり、お昼寝をした時の寝入りばなに頭を撫でてくれた母の手の感じとか、男友達と酔っ払って朝方に歩いた幹線道路の風景とか、どうでもいいような、でも二度と会えない「幸せな瞬間」。

家族旅行とか大きなイベントはきれいさっぱり忘れちゃうんだけどねぇ(笑)
そういう日常の切れ端の隅っこに宿る恩恵ををキャッチできるうちは、それを受け取り、誰かに、あるいは何かに手渡していけたらいいなと思っている。




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