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ティアキン批評のはてブコメにレスを付けてみる

まえおき


タイトルどおり。※コメントは一部だけ

もやっとしたひとや自身の考えを深めたいひとの助けになったり、議論を喚起するきっかけになればな、と。

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/note.com/chikahitujiya/n/n6636508f9f97

最初に前置きとして説明しておきたいのが末尾のこの部分。

Zelda: TotK を傑作とし、ゲーム史上最高の、と手放しに称賛するレビューの根底には、デジタルゲームはカンタンであれという欲望が隠れている。

思想も好みもひとの自由だが、自身の根底にある魔物に化かされて視野も解像度もかぎられていては評価者として情けない。本作の手放しな称賛は、デジタルゲームの「自由」を皮相的にしかとらえたがらないプレイヤーとしての欲望によるだろう。

【ティアキン】 ゲームの「自由」に潜む魔物たち 【レビュー】

この部分の僕の主張は、ゲームのカジュアルさには良い面も悪い面もあり、その悪い面にふれない絶賛レビューは「自由」とその面白さの結び付きにたいして浅い見方しかしていないよね、です。カジュアルさが悪いとは書いていません。

僕が重視しているのは面白さ(要素)の積み重ねと結び付きです。

AとBのどちらが好きか?という話ではなく、AとBとCとD…の積み重ねのなかでこの作品にはAとBしかないけど?という主張を文章全体ではしています。それはもう、好みの違いというより、ひとつの作品にどこまで深さと複雑さをもとめるかという欲望とライフスタイルの違いですね。

ティアキンだと、ハード性能の厳しい制約のうえで、没入感と「手触り」の良さにかなり寄せて作られていて、それによって犠牲になったものも多く、わかりやすくいうと「悩んだり学んだりすることがほとんどないぶん、そこそこ面白い状態が一生続く」けど、どうなん?と書いています。

もちろん、その「そこそこ」はひとによっては「全然」でも「かなり」でもありえるでしょう。

が、なぜそうしたが幅が生まれるかの分析のないゲームレビューを僕は面白いとはおもわないし、批評としての意義も薄いと感じますね。

僕自身の考えはもちろん、ゲームの「自由」という観点からですが批評記事にて書いています。

27本ノックいくぞ!


ありがとうございます。これは本当にそう。

物語の展開うんぬんを抜きにすると、学習量を要求せず、成長システムをかなり単純にし、戦闘課題も「答え」を用意したものである以上、ゲーム体験の面白さがいつでもどこでも似たものになりがちなのはしょうがないかなと。もちろん、それを良しとするか、悪しとするかは意見が分かれますね。

ありがとうございます。

これ、正直僕はまったくわからないので、もし説明できる方がいたら教えてほしいですね。ゲームを課題解決するものではなく、日常生活の外部として没入するものとしたらこういう見方もあるのかなと思わなくはないです。

ちなみに、ゲームにかぎらず広義のアート/エンターテイメントコンテンツにはこうした役割というか実用的価値がありますが、この面を過度に重視するとよりカンタンに快楽と解放感を得られるものが至高という価値観になるので、あまり良い見方だとは僕は考えません。本文中でも、没入感を重視した本作のさまざまなデザインに「辛い」のはそういう理由があります。

僕も似た見解ですね。

虚無とまではいいませんが、先述の面白さの「そこそこ」がもっと上には跳ねにくい薄味の(しかし繊細ではない)作品だとおもいます。物語や作品世界への没入感の度合いはひとそれぞれとしかいいようがないので考えの枠内にはいれませんが。

名作かどうかは僕ひとりでは決められないのでなんともですが、ティアキンよりも面白い作品はいっぱいありますよ。なんなら、本文中に挙げた Age of Wonders 4 や Miasma Chronicles の方が僕は面白いとおもいましたし、夢中になれましたし、高く評価もしています。

本文中でハッキリ書いていますが、ティアキンの素晴らしさは、Switch 専売タイトルとして、カジュアルなオープンワールドゲームとして、という限定付きの良さです。そのかぎりでは僕も賞賛しますが、視野を拡げたら少なからず異論も出るのではないでしょうか。

それはそうですね。

これもそうですね。

ただ、誤解しないでほしいのは、僕はティアキンを語るうえで「ぼくのかんがえたさいきょうの~」を求めているわけではないです。ただ、この作品にあるものとないものを「自由」の観点から淡々と腑分けし、あるものにどういった面白さが結び付いているかいないかを分析したうえで、それらを僕個人の考えと責任のもとで評価しているだけです。

それ以上でも以下でもありません。

なるほど、そうなんですね。

「ショボい報酬を求めて薄く引き延ばした世界をスタンプラリーする」のはカジュアルさを重視したオープンフィールドの宿痾ともいえそうです。最近だとホグワーツレガシーがそうでした。

本作は取っ付きやすさからオープンワールド・アクション RPG の入門には素晴らしく、構造的な障壁を排除したオープンフィールドの自由なプレイ感は楽しめるが、それ以上の「自由」をもとめると途端につまらなくなる。

今のところは絶賛調子のレビューが多いが、さまざまな作品をプレイし、その面白さや退屈さを突き詰めて考えたことのあるプレイヤーならだいぶ物足りなく感じるだろう。

オタクを沼に沈めるデザインの功罪、『ホグワーツ・レガシー』批評的感想

ありがとうございます。結局、この作品にゲームとしての面白さをどこまでもとめるかで分かれる話だとおもいますね。

自分のプレイ状況と進捗を先に述べるのは書き手としての僕の誠意です。そういうのを隠して批評を書くことはカンタンですから。

急ぎすぎだというなら、冒頭に挙げた「報酬システムの貧しさ」「戦闘課題の単純さ」「成長システムの退屈さ」をどのように克服したか、あるいはそもそも問題にはならないかを教えてください。

僕自身の考えをいうと、評価者のプレイ環境や進捗、難易度、スタイルを開示するかぎり、はじめの2時間だけの批評もトロフィーコンプ(全実績解除)を達成した批評もひとしく価値がある。

というのも、オープニングだけでわかることは少なくないし、どのジャンルにもいえるが数百時間を費やしたからといって「わかる」ものでもないからだ。プレイ体験からデザインを分析し、概念を操作し、その意図を想像したうえで作品評価を説得的に書くことまで考えると、プレイ時間の量はあまりインパクトのある要素とはいえない。もちろん、プレイ時間が少ないとその分いえることも精確性もかぎられはするけども。

批評論:ゲームレビューを書くことが何故難しいか

自由度が下がるかどうかは別として、そして、下がることが悪いかどうかも別として、本作の武器の工夫ってどれくらいの幅があるんですかね。

戦闘課題が単純なため、戦闘に有効な戦術たりえるという範囲内においてはほとんど武器種と攻撃力と属性の組みあわせのみというのが僕の理解です。

Zelda: TotK の戦闘は、爽快感のある「手触り」だが、率直にいうとカンタンで面白味に欠ける。というのも、モブには CC(行動阻害)がかならず効き、より上位の敵にはあきらかな弱点があり、ライネルのようなごく一部の敵にのみパリィやジャスト回避からのラッシュ攻撃という正攻法が有効と、大部分の敵にその攻略法がわかりやすく用意されているからだ。そのため、ケムリ花と属性槍や属性盾があればモブ処理には困らず、あとは DPS の高い武器を用意し、上位の敵の弱点に気付ける(調べる)かどうかだけ。

【ティアキン】 ゲームの「自由」に潜む魔物たち 【レビュー】

これは素直に興味がありますね。MMO にはまったく詳しくないのでどういう失敗例があるか知りたいです。

こういう意見はむかしからよく聞きますが、和食とラーメンは料理というフォーマットの上では比較できますし、ラーメンとゲームも制作物というフォーマットの上では比較できます。ゲームは多種多様で面白さもちがいますが、その質や積み重ねの違いという見方では比較も批評もできますね。

もちろん、そのあえての引き算を評価することもできますし、意味のあることだと考えます。

たんにかわいい女の子だけでなく、普通の意味では醜いもの、恐いもの、なんだかよくわからないものにも「癖」と呼ぶほかない魅力があるのは素直に賞賛できる要素です。

これ、先程も書いた武器の工夫にもいえますが、「以前は出来なかったこと(戦術・戦法)ができる!」という感覚にはどれほど段階があるんですかね。

たとえば、僕の場合はケムリダケを入手した時点でモブの集団戦には「答え」が出ましたし、属性攻撃を手にしてからは強モブにも「答え」が出ました。それ以上のユニーク敵はだいたい解法が用意されているのでそもそも武器や戦術を工夫する意味はないですよね。例外はライネルの倒しかたぐらいでしょうか。

なので、「以前は出来なかったこと(戦術・戦法)ができる!」という感覚をこの作品で得たことは1度もありません。だから、「戦闘課題の単純さ」を指摘しているわけです。

「キャラクターや装備を鍛えてプレイが安定する育成要素」の真の問題は課題構造における障害の単調さと考えるべきで、「選択肢豊富で自由な戦略」との相性が悪いというよりは『Deathloop』がその自由度を活かした多様な課題構造を備えていないだけだろう。

批評論:高評価アクション『デスループ』の退屈さを課題構造から考える

それ、僕が書いたことですよね?

そのためにはメカニクスとの結び付けというリアリティが必要だという主張です。

実際、ファンタジー作品の魅力的な物語やキャラクターはすでに共有されているイメージを裏切ることで生まれる。邪悪な蜘蛛の女神ロルスを信奉するドラウ(ダークエルフ)に生まれながらも善への目覚めにより地上世界を旅するドリッズト・ドゥアーデンは有名だろう。

【ティアキン】 ゲームの「自由」に潜む魔物たち 【レビュー】

どうなんですかね?

厳密に言語化する努力をしているのでそう映るのはわかりますが、僕はメジャーもマイナーも区別しないですし、MOBA もバトロワもタクティカルシューターも ADV も RPG もストラテジーもサバイバルもアクションもタクティカルもツインスティックシューターも好きですし評価する作品がありますよ。

問題があるとしたらそれらを区別せず、特別扱いもしないことでしょう。僕からすると、多くのひとがこの作品/ジャンルはこういうものという暗黙の了解を前提にしていて、作品の正確なすがたがみえていないように見受けられます。

気付いているでしょうね。

はじめからそう書いていますよ。

ほんとうに「一周遅れ」なら僕の文章よりもティアキンの「自由」についてより良く分析した文章を教えてください。素直に読んでみたいです。

おもうに、本作の開発方針の根底にはいかにカンタンでユニークなオープンフィールドのアクションゲームを作るかという野心がある。

カンタンという言葉に語弊があるならカジュアルと言い換えよう。いかに学習を要求せず、上達をもとめず、取り返しのつかない要素(リプレイ性)をなくし、細切れのみじかいプレイングでも没入させられるか。そういう思想が根本にあるなら僕の分析した「問題」は問題ではなくなる。ゲームにもとめる面白さの要求レベルがそもそもちがうからだ。

【ティアキン】 ゲームの「自由」に潜む魔物たち 【レビュー】

プレイして終わるだけなら議論は生まれず、コミュニティの舌も肥えず、歴史としても残りません。僕はこの作品には愛がもてませんでしたが、ゲーム(アート)の文化と歴史には愛があるので批評を書いています。

ありがとうございます。批評記事にも同趣旨のことを仰ってくださる方がいて嬉しかったです。

ありがとうございます。

たとえば、エルデンリングはプレイヤーに学習と上達を要求するハードなゲームですが、マルチや遺灰や NPC との共闘などでカジュアルにも楽しめるので、カジュアルさとハードコアさを両立させたうえで商業的にも成功した稀有な例でしょう。もちろん、完璧な作品ではないですし、さまざまな両立のさせ方があるでしょうが。

ポケモンSVも、上手くいったかどうかは別にしてこの両立をめざすという開発方針を明確にもっていたと考えますね。また、コメントさんの意図とは逸れるでしょうが、ヴァロラントやストファイ6のような人気対人戦ゲームでも大なり小なり両立しているでしょう。

『エルデンリング』はマニア向けながらも世界観にマッチした「救済措置」を組み込むことで AAA 級タイトルとして成功した。

こうした動きの背景には、ゲーマーの裾野が広がるとともに SNS や実況配信で繋がったエコシステムの成熟がある。「これが面白い!」という一部の層の声がたやすく拡がり、それを職業とするひとたちがあらわれた。僕の記憶がたしかなら『Escape From Talkov』もアーリーアクセス開始当初は一部のガンマニアが注目するだけだった。

「エルデンリング以後」のゲームに何を夢見るか

僕がいちばん楽しみにしている今年発売予定のゲームは Owlcat Games の Warhammer 40,000: Rogue Trader ですね。Starfield は正直バグよりも PC ファンが心配になってきました。

ありがとうございます。僕はいつも悩むのですが、ゲームの「クリア」ってどこを指すんですかね?

マップ探索をせずに力技でティアキンをクリアしても作品全体は語れないですし、難易度選択のある作品で、たとえばイージーにしてクリアしても戦闘については語れないでしょう。もっというと、ストーリー自体がない作品だとなにをもって「クリア」とするのか、どこまでプレイしたら作品を論じる資格が得られるのでしょうか。

これは嫌味ではなくて、マジメに難しい問題です。実際、メディアのレビューなどでは「クリア」してから書かれたものがどれくらいあるのでしょうか。

ほんとうに滑稽なのは「クリア」していないことを堂々と晒してから批判的な文章を書く僕の誠実さですね、間違いなく。

not for me で済ませないことに批評の意味があり、個々人の合う合わないを越えた分析に社会的価値があり、ひとりの人間がそれらを含めて作品を評価するところに私的価値があります。そうした価値ある批評を排除するか、それとも利用するかはひとそれぞれで、それこそ「こんな長文」があなたには合わなかったんでしょうね。

ちなみに最近プレイした作品でいちばん夢中になれたのは Pathfinder: Wrath of the Righteous の DLC "Through the Ashes" です。

ありがとうございます。仰るとおりですね。

いいたいことはわかりますが、どのプレイヤーがもとめる「最高の報酬」をたとえば最強の武器や防具だとしたら、その報酬(というよりアイテム)システムはビルドやプレイスタイルの創意工夫の余地をなくすダメなデザインだと僕は考えます。

報酬や成長要素がプレイヤーの自由度をかえってなくすという考え方がまま見受られますが、それはシステムの多様性のなさや調整ミスを勝手に前提としていますね。

コンパニオンというシステム自体は僕も好きですが、フルコントロールできないアクション RPG だと扱いが難しい印象です。コンパニオンが強すぎても弱すぎても面白くないですし、仰るとおりどうしてもプレイヤーの行動を妨害するシチューションが生まれやすい。

ティアキンでは、連れ歩けるのは賢者の分身?という位置付けなので、一緒にいるからこその交流や物語の変化がなく、基本的にはある種の救済措置という位置付けかなとおもいます。

システムの空白を想像力で補えるひとはなんでも自由に楽しめそうでいいですね。羨ましいです。


以上!

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