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叔母L子のケース1 コロナ禍での看取り

 なんといいますか。

「義母のケース」で度々出てきた、叔母L子が、昨日他界しました。

 私は、厳密な親族ではないので、出しゃばったことは出来ないのですが。

 言ってしまえば、近年、身近で一番親しくつきあった新しい友人のような存在でしたので、ここに流れを記録したいと思います。

基本の設定として

 叔母L子は、東北のとある農村に生まれました。

 生家の情報は、断片的です。

 何人が実の兄弟がいるようで、その全員が存命とのこと、そして今も付き合いがある、ということですが、事情はちょっと複雑で、

 叔母L子は、体が弱く、生家では育てきれないと判断された(らしい、この辺りも断片的です)のを、同じ村の、比較的裕福な家に養子に出されました。

 そこには三人の娘、つまり義理の姉に当たる女子がおり、叔母L子は末っ子になります。

 その、三人の娘の末、叔母から見てすぐ上にあたる姉が、私の夫の母、つまりは義母です。

 さて、新しい実家となった家の、新しい姉のうち、二人は先に上京し就職し、それぞれが結婚し、新しい家庭を持ちました。

 一方で、遅れて上京した叔母L子もまた、それなりに働き、それなりに家庭を持ちます。

 上京してからも、姉達とは親交を持っていた叔母。

 二人の姉は、都内のそう遠くないところに住んで、近所には共通の知り合いもあったそうです。

 しかし、私の義母、便宜上A子としましょう。このA子の近所に住む人が、ちょっとくせ者で、A子の姉B子とも交友を持つ一方で、双方にあらぬ事を吹き込んで、仲違いをさせようとしていたようなのです。

 それに気づいた叔母L子は、何度か二人の姉に進言したようですが、力及ばず、二人の親交は遠のいたようです。

 一方で、A子は、義母に恵まれませんでした。

 ここからは、書いていて混乱してきたので、叔母の義理の姉で、私の義母にあたるA子視点で表記していきます。

 A子の夫(つまり私の義父)の母は、親戚にはいい顔をするそうで、叔母L子も世話になったというのですが、息子の嫁であるA子にはひどい対応をしていたそうです。

 A子が働いて得たお金はすべて義母に取り上げられ、A子の夫の姉、A子からみて義姉にあたるD子に横流し、義母は「老後はD子に面倒見てもらうから」と公言していたそうです。

 正月になると義母は豪華なお土産つきで、義姉D子の家に、息子であるAこの夫とふたりの孫(私の夫含む)を連れて行ってしまうのだそうです。

 あまりの扱いのひどさに、A子はよく子供を連れて飛び出し、L子の家に泊まりに行っていたそうです。

 前にも書きましたが、叔母L子は、三度結婚し、三度離婚しています。

 A子にも、逃げろ、離婚しろと言ったようですが、結局A子は義母が亡くなるまで耐え抜きました。

 もちろん夫である義父は、見て見ぬ振り。

 孫である私の夫、その兄(義兄)も、義祖母には可愛がられていたそうで、

「嫁だけが憎くて仕方無かったんだね」

 と叔母は評しています。

 そんな経緯もあってか、私が知っているA子は、人の意見も聞かず、やりたい放題でした。

 当時、A子の義母、私から見て義祖母は認知症で弱り、面倒を見てくれるはずのD子はひきとってくれず、D子宅とA子宅を、半年ほどのサイクルで行ったり来たりしていました。

 それが、D子宅で、義祖母が転倒。

 大腿骨骨折で寝たきりになったあとは、認知症も進行し、義祖母は他県の老人病院に入院します。

 今のように、介護制度の整っていない時代。

 面倒ごとを丸投げの夫に代わって、A子は毎月、電車に乗って、十万以上の入院費を払いに行きました。

「婆さんには一千万以上使った」

 との話ですが、その「婆さん」も年金を貰っていたはずなので、実費とし

てA子夫妻の財布からどれだけ出ていたかは判りません。

 その「ばあさん」は、入院して実に十年以上、寝たきりで、認知症が進行しすべてがわからなくなっても、生きながらえました。

 正直、亡くなったのがいつの話だったか、正確な記憶は私にもありません。

 A子の結婚から、老義母の介護の終わりまで、叔母L子は全てを見ています。

 そのA子が亡くなった時のお話は、

をご覧下さい。

叔母L子との付き合いのはじめ

 私が、叔母L子の存在をはっきり認識したのは、夫の兄、義兄Yが亡くなったときでした。

 それまでは、頻繁に義母A子の世話に来ている親戚がいる、という程度の認識で、名前も覚えていませんでした。

 当時A子は、認知症がゆるやかに進行していたのに加え、精神的に病んでいて判断力が弱まっていました。

 そして、大病のあと、歩け(か)なくなった義父は、葬儀の打ち合わせどころか部屋から出てこない。

 葬儀の判断は、A子の次男とその家族(つまり私たち)に丸投げされ、L子はそれに根気強くつきあっていました。

 また、葬儀には、叔母L子の次女であるEさんが、自分の次男Sくんを連れて応援に来てくれました。

 金銭感覚ザルだったくせにやたら交友関係の広かった義兄は、葬儀の参列者が予想外に多く、それらをさばけたのは、私の長男T某と一緒に受付に立ってくれたEさん、Sくんのおかげでもありました。

 この一件のおかげで、私は叔母とその家族であるEさん一家と、お付き合いするようになったのです。

 実は、葬儀の前から、何度か顔はあわせていました。

 同じ市内の、私の家からそう遠くない場所に、Eさん一家と住んでいることも、知ってはいましたし、「たまに遊びに来て」とも声をかけられてはいました。

 しかし、もともと夫が社交的ではなかったことと、私自身、義母の親族ということで、警戒していたのもあり、聞き流す程度で終わっていました。

 それが、心筋梗塞で病院に担ぎ込まれた義兄をICUで看取る所からはじまって、葬儀の手続き、義兄が残した借金の清算、その後の義母の入院と見舞い、色々なことを一緒にこなしていくうちに、少なくても月に一度は夫抜きでも顔を見にいくような間柄になっていました。

 叔母はとっても活動的で、日課は二時間以上もかける家周辺の散歩、住まいであるEさん方の隣に買った畑の世話。忙しいEさんに代わっての洗濯、掃除、かと思えば旅行もよく行っていて、家にいるのを捕まえるのが難しいくらいの人でした。

 ラインも使いこなし、「電話だと時間とられちゃうけど、ラインだと自分のペースで返信できるでしょ。私、電話はあんまり出ないの」というくらい今風で、それも私の性格にあっていたようです。

 近づきすぎず、ほどほどに。

 時には大量に持たされるお野菜の処遇に頭を悩ませつつも、楽しくつきあっていました。

 その叔母の、大腸ガンが発覚したのが、今年の2月頃でした。

 その発覚の経緯は、この話を参考にしていただくことにして。

 話は、ちょっと遡り。

 私が、実母を看取って葬儀を終えて、千葉に戻ってきた、2月3日。立春であり、124年ぶりに「節分で無かった」この日が、今思えば、分岐点であったのかも知れないのです。

 

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