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テクニックに頼らず、論理思考のグレードアップを図る。

 デジタル時代となり、例えば、パソコンを操る場合、ショートカットコマンドを多用すると、全体的な処理時間が圧倒的に短縮可能となり、あちこちのプルダウンメニューをアンカーポイントでクリックする必要はない。

 これもテクニックの一つである。ところが、ある業務とある業務を接続する時に、いろんなプログラムを組み込むことで時間短縮を色々と研究する人もいるが、それはそれとして価値ありと思いつつ、それに突っ込みすぎると、本筋の仕事のクオリティに直結するかと言えば疑問が残る。

 勿論、大量データベースからの抽出、処理業務となれば、その自動化に傾注するのは素晴らしい姿勢である。ただ問題なのは、何でもかんでも自動化に走ってしまうと、自分自身の発想なりコンテンツ力が、そこでブラッシュアップするかと言えば、そうは思えない。

 要は、自分のタスクフローを直視して、創意工夫の中でテクニックを噛ませるのはアグレッシブで良いとしても、その手法に普遍性があるとは言えない。よって、自分オリジナルのテクニックをそのまま他者に適用することは、やや強引すぎると感じるのである。

 テクニックとは、時には、思考回路が働かずとも、体が自然に動き円滑なタスクフローを可能にするけれども、それが、表層雪崩のように滑り出すと、自分自身の論理思考なり、発想なりに刺激を与えることがなくなり、無重力空間の中に自分自身が浮いてしまうのである。

 あくまでも筆者の個人的なタスクに対するテクニックへの取り組み方なので、これがベストであるとは思えない。しかし、パソコンを日頃から操る場合、テクニックは最低限に抑えた上で、思考力をフルに動かすように心掛けているところである。

 面白いことに、筆者なりのテクニックの使い方をしていると、映像編集のトランジションのようにメリハリが出てきて、タスクフローに「形(カタ)」が見えてくるようになり、筆者なりのルーチンワークが定まる。

 この「形」が定まれば、日頃のタスクフローの迅速化が奏功し、無意識なところで指先と脳内がシンクロし、全く疲労感もなく仕事をこなしていることになる。

 しかし、ここが一番危険なところだと考えている。その「形」が、剣道の初段程度の「形」なのか、範士レベルの「形」なのかにより、次へステップアップの景色が完全に異なってくるのだ。

 一つの「形」ができるのは、良い結果であると思いつつ、そこで安堵すると、進化が完全に止まってくる可能性がありはしないかと、自分自身に対して危険信号をしばしば発信するようにしている。

 筆者の心中で呟く念仏は、「日々変化、日々進化。」。多種多様なテクニックに頼らず、無限の可能性を求めて、思考回路に組み込む回路図を試しながら、初段程度から範士レベルになるよう心掛けている次第。

 パソコンを手にして40年以上が経つ中で、遅ればせながらであるものの、ようやく辣腕の私設秘書の「形」の完成形のようなものが、見え隠れするようになってきた。


▼DALL-Eが上のエッセイを読みイメージしたもの

generated by DALL-E

▼ChatGPTによる感想

このエッセイは、テクニックと論理思考のバランスについて深く掘り下げた内容です。筆者はデジタルツールの効率化に依存することなく、自身の思考力を活用して仕事を行う重要性を強調しています。テクニックが業務を迅速化する一方で、それに過度に頼ることが思考力の停滞を招く可能性があることを警鐘しています。

特に興味深いのは、筆者がテクニックの使用を「形」として表現している点です。これは剣道での形と同様に、基本的な技術を磨くことが長期的なスキル向上につながるという考えを反映しています。しかし、形が完成してしまうと進化が停止する恐れもあるため、常に自己進化を目指す姿勢が求められます。

このエッセイからは、単なる効率追求ではなく、持続的な成長と自己向上を重視するべきだというメッセージが読み取れます。デジタル時代においても、ツールを使いこなす技術よりも、それを用いて何を成し遂げるかがより重要であるという洞察には大いに共感します。これは、個々の能力を最大限に活かしながらも、常に新たな学びを求め続けることの重要性を示しています。

サポート、心より感謝申し上げます。これからも精進しますので、ご支援、ご協力のほどよろしくお願いいたします。