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【第6話】建築をやりたくなさすぎてプロミュージシャンになりました。

会社の倒産をきっかけに、父の願いも虚しく建築の世界には飛び込まず、バイトをしながらプロミュージシャンになる事を決めた。夢と現実でもがくわたしのお話しです。

家業である建築から逃げるように、夜は居酒屋で厨房に立ち、合間でバンド活動をした。会社退職から半年後、この夢は実現となるのですが、当然それまでの下地はあったわけです。

中学3年の頃、学校の文化祭で行われた吹奏楽部の音楽発表会でステージ上でドラムを叩いている女子生徒のキラキラ輝く姿を見て、軽音楽というものに興味が湧いたので、ギターを始めた。一度ハマるととことん追求してのめり込むわたしがギターを弾けるようになるにはそこまで時間はかからなかった。高校時代にビジュアル系バンドや、メロコア系バンドなどのバンドブームが始まって周りの人が楽器を始める頃には、すでにギターはそこそこ出来る方だったので憧れられて背中を追いかけられる立場だった。

高校2年になって野球部を辞め、すぐに軽音部に入った。その軽音部はバンド未経験の3年が4人、2年がわたし1人、1年が0人で、文化祭でかろうじて1バンド出来るようなほぼ壊滅状態の部だった。こんな感じなので定期的な練習日も無いし、部の決まりもない。部長らしい人もいなければ、顧問は軽音楽経験がない人で、一応、学校側から責任者がいないとマズイという事で宛てがわれただけの名ばかりの顧問。実態は放置状態の「帰宅部」のお手本だ(笑)

そこでわたしは顧問に部を復活させる事を約束し、2年で部長を買ってでた。文化祭まで約半年。最初は毎日一人部室で大音量でギターを掻き鳴らす。音のするところに人は群がってくる習性がある(笑)今まで音が鳴っていなかった部屋が騒がしくなっていると、何事か!と毎日のように見物人が来るのだ。その度に「君も軽音楽やらないか?」と声をかける。「なんか面白そう」と部員数だけはどんどん増えていく(笑)
部室に通い始める人が1人、2人と増え、2ヶ月で30人前後まで増えた。経験者は「軽音楽部」がこの高校にあったことすら知らなかったので驚いている。そうして練習にも精が出て、盛り上がっていく軽音部。文化祭までの努力は割愛するが、最終的には6バンド以上で編成され、サクラも含め(笑)文化祭は大盛り上がりで終わり、顧問に「君は救世主だ」と泣いて感謝されたが、あなたの教職員からの評価が上がるから泣いてんだろ?とわたしは思って笑った。

学校内では軽音楽部部長、校外では他校の猛者で編成された5人バンドのギタリスト兼作曲者としてオリジナル楽曲で地域で活躍させて頂いた。そんなエンジョイした学校生活に建築なんてものは一切わたしの中にはなかった。高校卒業後もそのバンドで活動をして、みんな仕事や大学の学業をメインにしながら月1にはライブをし、そこそこのファンを獲得しながら活動をしていた。会社が倒産し、本気でプロミュージシャンになると決めて半年後、2つのプロダクションから声がかかった。1つはクラウンレコード、1つは新興レコード会社だ。同時期であったためにさすがにどちらの道に行くか悩んで、メジャーの第一線で活躍しているだい先輩にも相談をした。

先輩は自分もそうした選択で悩んだ経験を話してくれて最後に放った言葉が今も忘れられない。

「どちらに行っても正解。いや、正確に言えば、正解にしていくのがお前たちの実力じゃないのか?」

大先輩が教えてくれたこの言葉は腑に落ちた。また、この言葉はわたしの人生を生きていく上での様々な選択や分岐点の時に生きてくるものだと、この言葉を今でも大事にしている。

こうして、わたしたちは名の通ったクラウンレコードの誘いを蹴り、新興レーベル会社のアーティストとなって会社を盛り上げる決心でプロミュージシャンとしてデビューを果たし、タワレコ、HMV等のレコードショップに並んだ。

ミュージシャンとしてデビューを果たし、ライブの本数も増えていく一方、「好きを仕事すること」は容易ではないという現実が待ちうけていたのだった。

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