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【#教員不足問題と僕】ゼロイチが完結。自己嫌悪だらけの青春だった話。

こんにちは。
Quicken.(クイッケン)の小谷瑞季と申します。

いつもnoteをご覧くださり、本当にありがとうございます!

前回は、『ゼロイチ』というプログラムが折り返した11月に、振り返りの投稿をしました。今回の投稿は一旦ビジネスプランが固まり、社会実装フェーズに入るところから始まります。

僕にとっての"ゼロイチ"がどう着地したのか。
12,000字も書いてしまいましたが、ぜひ飛ばし飛ばしでもご覧いただけると嬉しいです。


最初からBtoGで始めるという"悪手"。

実現不可能。身体が気づき始める。

11月中旬に初めての自治体提案が失敗したあと、可能性を見出すためにどうすれば自治体と連携できるかを考えることから始まりました。

いくつかの自治体提案を通して、アポイントの流れ(目的・時間の使い方)、導入検討ハードルが下がる入り口、応募者ターゲットのリーチ方法など色々仮説が見えてきました。

ヒアリング内容や思考の深掘りを支えてくれた、アナログなメモたち。

しかしあくまで仮説。検証しないといけません。
一方、代替教員の募集というのは長く自治体だけで担ってきた業務であり、肝心な仮説は自治体連携なしに本質的な検証ができませんでした。
ヒアリングといった言動を測定することはできても、「実際に自治体が使うかどうか」「実際に応募者が講師登録するかどうか」といった行動を測定するには順番として自治体連携がまず必須になるんです。

それと同時に、僕自身が自治体提案できる時間を確保できていませんでした。ずっと1人でやっているにもかかわらず、月火は午前で公立小学校のスクールサポーターをやり、水木金は午前午後で市教委事務局でインターンをやり。テレアポや打ち合わせが可能な時間は限られ、まとまった時間が取れずに大した進捗も生まれない中、あっという間に毎週が過ぎていきました。

結果、中間発表後から1ヶ月経っても、ビジネスプランで肝心となるような仮説の概念実証(以下PoC)はゼロ。一つもできませんでした。

ソーシャルビジネスという戦い方はどこかで「ビジネス」という手段に執着しないといけない。いくら教員不足を解決できるアイデア/プランを考えても、「本当に解決できるかどうか」と同時に「ビジネスとして十分な対価を支払ってもらえるのか」を確かめないと前に進めない。

ビジネスとして成立させるために課題解決に待ったかけてる状況ってなんだろう、とソーシャルビジネスに不信感すら抱きました。

「できること」をなんとか信じてやってる中で「できないこと」を見切る。この線引きが本当に難しかったです。妥協と英断の境界線は何処に。

プツっ。途切れた自己確信。

そんな中、プログラム期間中にベータ版を作れるとなると中途半端なものでは意味がありません。どんなベータ版が作れるかが鍵になるので、この機会をなんとか最大限に活用したいと思っていました。

また、ベータ版があることを前提に自治体提案ができると、ヒトではなくシステムによる業務代行になるため、これまで内部で完結してきた自治体にとっても導入の抵抗感が薄まり、懸念点を大きく解消できます。

そう思い、MVPでのPoCをスキップしてベータ版開発を今から始める方針に振り切り、年度初めのベータ版導入を念頭に、今から自治体営業を始めて庁内折衝や学校理解を一緒に準備していくスケジュールに決めました。

検証が足りないという声に耳を防ぎながら

連携自治体を1つでも見つけたら万事解決なんだ、ベータ版を持つことが一番可能性がある。そんな浅はかな考えで、開発伴走チームさんとの初回打ち合わせを迎えました。

しかし。用意していた松竹梅3通りの開発プランは、期間的にも予算的にも厳しいと知り、正直機能だけでいえばベータ版をわざわざ作らなくてもMVPで検証していける(していくべき)内容だとご指摘をいただきました。

、、、そりゃそうです。
BtoGはtoBやtoCと違って検証までに必要以上の時間がかかるんだと言い訳していました。限られたプログラム期間にベータ版をなんとか作り切りたいと焦って早とちりしていました

打ち合わせ中はアドバイスを受け止め前向きに考えているふりをして切り返していましたが、脳内は絶望感に溢れていてもう働きませんでした。

それでも絶望感を認めたら本当に可能性を諦めることになるので、なんとか発想を転換しようとするも、「これならいけるかも!」みたいな閃きは気配を消し、風前の灯火だった自己確信はついに途絶えました。

楽観視は無意識のうちに生まれる。

僕はまた、プログラムに依存していました。
ベータ版を確実に用意してくれるというコンテンツを前提に逆算して動いていました。その安心感に全身を委ねてしまっていた。

都合のいい盲信が、プランBを考える周到さを奪っていました。
皮算用を積み重ねて、勝手にできる気になっていたんです

でもやっぱり。

それでもやっぱり、諦めていい理由にはならない。
それこそ楽な方に逃げている。
皮算用を自覚しよう。まだ伸び代があったと、過ちの発見を喜ぼう。

よし、ベータ版開発伴走はもう活用しない…!!!
お金のない今の僕にとって、せっかく開発支援いただける機会は非常に貴重でもったいないけど、それでもこの楽観視はあきらかに邪念だと。

余計な計算をせず、手放しで前に進もう。保険は今必要ない

グレーゾーンを進むからこそ白黒つけられる。

悪手だった、と認めようとする自分。

12月後半、ベータ版は作らない!と意気込んだ数日後の自治体アポイントで、お話しした自治体職員の方にいただいたご助言が、

「MVPレベルのものであれば自治体職員の人でも作れるため、新規性を満たしてないかも。 自治体では安心安全なオーバースペックが好まれる。自分の会社ブランドや安定した事業基盤、資金体力、人員体制が揃った失敗しない会社とかでないと相手にされないのが現状かもしれないね…。」

ソーシャルセクターで長く活躍されて自治体の重役に就かれている方だったのもあり、今まで認めようとせず目を逸らしてきた「できない理由」が綺麗に現実味を帯び、実現不可能だと合理的に納得してしまいました。

そもそもサービスが見せられないので提案として受け入れられないこと、サービスに足るベータ版をいつ用意できるかも不透明。
そして、たとえベータ版があっても一学生の僕自身になんの信頼性も実績もないため相手にされないこと。

というように「できない理由」が整理できてしまいました。

そして幼保領域や私立学校へのピボット、寄付型NPOといった他の柱など、今後の方向性をいくつか検討してみていました。

「ん〜、なんかダセえな。その決断。」

どこか藁にもすがる思いでいただいた、ボーダレス副代表の鈴木さんへの壁打ち。これまでの思考変遷、現在地点、そして妥協に溢れた今後の動き方を伝えました。すると、

「ん〜、なんかダセェな。自社でも自治体向けビジネスを始めてるけど、まだ比較的に実績や認知度のあるボーダレスという看板で、経験豊富な社会人たちが入念な準備をして営業して、やっと成約率〇%の世界だよ。3,4自治体の提案で結果が出たら奇跡。」

頭で理解しようとしがちな僕だからこそ、非常に明快で痛恨の一撃でした。何が信頼性だ、何が実績だ。ダサいな、本当にダサい。

どれだけイメージさせられるか。そのための提案の仕方、見せ方。

そこに一点集中でいけばいい。
たとえ自治体相手でも、最初からプロダクトなんて持たなくていい。

自治体提案をしてる鈴木さんにはバレバレな足数の少なさ。
いくらでも勝手に言い訳してもいいが、その甘さを直視できない間はもうこれ以上の景色は見れない。

営業資料を早速ブラッシュアップし、プロダクトがイメージできる提案を作り始めました。

哲学は、年末年始に生まれた。

市教委インターンや小学校サポーターの仕事も働き納め、まとまった時間がとれる年末年始が始まりました。少し胃腸風邪で体調も崩していたので、必然と思考にふける時間が多くなりました。

この時期にモヤモヤの中心を占めていた葛藤を、素直な疑問文に言語化したらこうなります。

頭が理解しても、身体が動いてくれないのはなぜか?

ゼロイチに参加する前からずっと行動力がない自分が嫌だった僕は、ゼロイチの中で、確信したあとの馬力という意味で自分なりの行動力(行動スタイル)が分かり、行動力コンプレックスは克服していたはずでした。

しかし、どこかで壁にぶつかる。情報が完全に出揃うことがない事業創造において、行動ファーストが求められる場面は必ずあります。

それを永遠に回避できるわけではない。この時の僕は「何かしら行動したら答えが見えてくるから」といくら説得されても「確かに!」と気前よく返せませんでした。それは「頭で納得できなかったから」ではなく、「身体が動くイメージがつかなかったから」です。

もう、自分の頭が自分の身体を信用できない感じがずっと続いていました。

「動いても無理だって判断してしまったら、答えに近い解を考えてばかりになる。考えすぎるのは『判断する際に危機察知が働きすぎる』という本能が原因なのかな。」

そんな悩みを色んな人に伝えたときに、色々質問される中で上手く答えられなかったので、年末年始を機に逆に振り切って真剣に考えてみたんです。

行動できないのは、果たして「考えすぎ」が原因なのか。

まず、「本能」という便利な概念に逃げていたわけですが、この概念は学術的にどう解釈されているのかを調べました。

生物学の論文をいくつか読んでいたときに僕が知ったのは、

本能なんて人間にはないのではないか、ということ。
本能とは生得的性質が行動規定要因になるという考え方が根本にあるものだが、学習や環境的要素が行動規定要因になるのが最近の見方らしいです。

なるほど、本能なんてないのか。
じゃあこの本能っぽいと感じている無意識はなんなんだろう。
こうして、"本能"を言語化してみる旅が始まりました。

そこで、心理学の論文で『二重課程理論』を紹介し研究しているものがありました。心理学では原理原則的な概念らしいです。

あくまで僕の解釈レベルですが、この理論では、人間の思考処理が2つのパターンに分類されます。

システム1が「速い思考」と呼ばれ、無意識のうちに自動的に発想/連想していくような情報処理になります。
速く、そして省エネに答えを出す。目の前の情報を過去の経験則と高速で結びつけていくため、アウトプットは極めて直感的になります。

システム2が「遅い思考」と呼ばれ、論理的に見直していくような情報処理になります。集中力が必要で、システム1の処理で不安な場面についてモニターし、最終的に決定します。

人間は脳のエネルギー消費を抑えるため、消費が激しいシステム2は基本的に待機していて、まずはシステム1で勝手に情報処理するようになっているそうです。

ということはおそらく、システム1の"直感的な情報処理"というのが普段自分が感じている"本能"の正体になります。

そして厄介なのが、システム1の情報処理は誤った回答を出すことが多く、そういった"失敗"のことを『認知バイアス』と呼んでいると知りました。

過剰に危機察知しているのは、何かしらの認知バイアスが原因か!
どんな認知バイアスだろう、というときに知ったのが『感情ヒューリスティックモデル』でした。

このモデルは「直面するリスクレベルが高いと認知するから不安が高まるのではなく、むしろ逆に、直感的に喚起される不安感情の強さが認知するリスクレベルを規定し、それに基づいて受容・拒否判断をしてしまう。」というものです。

つまり、リスクは理性的に判断しているようで直感的に判断させられているということ。意外と論理的に出したと思った答えも、直感だったり。

誤解してはいけないのは、システム1も情報処理のため、感情だけでなく数字・記号の処理も行うということ。ただその上で直感的ということ。

だから、システム1はときにシステム2に見せかけるのかなと思います。

長い言語化の旅でしたが、「頭で考えすぎてるせいで行動できてない」は誤解で、「ちゃんと頭で考え足りてないから行動できてない」が正解でした。個人的にこの発見はコペルニクス的転回で、思考をメタ認知できたような気がします。

少なくとも課題は「システム1の処理結果が行動規定要因になってる状態で放置してること」で間違いなさそう。

人生は解釈で、世界は変数に溢れている。

山口県萩市で見つけた、僕の精神的支柱。

これまた年末年始に、元文科副大臣の鈴木寛さんが書かれた『「熟議」で日本の教育を変える』という本を読み、約150~200年前に吉田松陰とその門下生たちが歴史に残る日本の夜明けを作っていた詳細を初めて知りました。

同時に実は、僕が大学で3年前に共同創始した起業部を後輩たちに引き継ぐ時期だったので、何を託し何を遺すのかを共同創始メンバーで話し合っていた中で「松下村塾」に辿り着きました。1月中旬に、私塾ならぬ"志塾"を目指す上で改めて正しく知る必要があると、現地で1泊2日することに。

萩市に入ってからはずっと感慨深かったです
というのも、完読できませんでしたが司馬遼太郎『世に棲む日々』を読んだりCOTENラジオで予習したりしたので、当たり障りない景色の鮮やかさにただ目を奪われる時間でした。

松陰神社では、たった18畳の松下村塾に思いを馳せ、日本の夜明けの感覚を身をもって味わいました。松陰先生の遺言である留魂録の原本が展示されている博物館では、時間も忘れて居座りました。

9年前までは小学校として使用されていた明倫館、一角だけが残された野山獄と岩倉獄、質素に佇んでいた松陰先生の一族や門下生の墓。

1泊2日では足りませんでしたが、志という言葉の理解を洗練することができた本当に貴重な時間でした。

志は"心坐し"。つまり、自分で決断できているか。
世のため人のため。つまり、私心を忘れているか。
行は知の実たり。つまり、実践できているか。

熟慮して討議する。内省と対話で問答できる環境がある自分は本当に恵まれているなと痛感しました。

生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。

これは門下生の高杉晋作が吉田松陰先生から受けた手紙にある言葉です。

高杉晋作は満27歳という若さで亡くなりますが、同志の中では比較的生きた方でした。同志が若くして死ぬ中それでも生きて、奇兵隊や欧米との講和交渉など倒幕の機運に必要不可欠だった大仕事を晩年に成し遂げました。

当時は長州藩でもエリートの生まれだった高杉晋作は、毛利家に仕える家で形式を重んじる朱子学的な思想を学びながらも、夜な夜な松下村塾で教わる陽明学的な思想に影響を受け、2つのアイデンティティを持ちます。

同志がどんどん尊王攘夷を進める中で、晋作はこの2つのアイデンティティの間で価値観が不安定な少年〜青年期を過ごします。エリート武士らしく"死に際の美しさ"に走ろうと考えたこともあったと思います。

そんな晋作に宛てた吉田松陰先生の手紙が、晋作の人生の支えになっていたと知れば知るほど感じます。

死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。

僕も、自己確信と自己嫌悪の間でブレブレに過ごしていますが、それでも自分の人生に意味を見出そうともがき考え、志の体現者たることをやめなかった高杉晋作の人生に想いを馳せることでとても勇気が湧きました。

考えれば考えるほど世界で起こる問題を引き起こす要因は複雑で、ある意味レバレッジポイントに溢れている。だからこそ自分ひとりの力の限界、その無力さも同時に思い知る。

しかし、運ゲーなこの世界を前にして、周りに乱民と呼ばれても最後まで諦めない志がある限り、時代が傾く可能性は途絶えないと思えました。自分自身の人生の意味づけは自分で握る。

物分かりの良い人間は時代を変えられない。
未来は自分にも誰にも分からないと自覚して、もっと行動に狂っていく。

官禄吾に於いて塵土より軽し、笑って官禄をなげうち東へ向かって行く
そんな至誠の人に自分もならないとな、と思いました。

傷つく怖さを承知で振り絞る、傷つける勇気。

突然決まった、福岡で一週間の修行。

正月が明けたはずなのに、自治体営業の初動が遅れた自分。
裏には、自治体に提案を断られることへの恐怖心がずっとありました。

正直、恐怖心をメタ認知したところですぐ行動できるわけではなく、恐怖心を上手く解消しないと行動につながりません。

僕がこの恐怖心を解消するために取り組んだことは、講師募集情報のポータルサイトを作るという試みです。講師募集の情報は各市町村のHPを調べてリンクを踏まないと出てこない、とてもアクセスが不便な情報でした。僕はこのサイトを簡易的に作ることで講師希望者を抱え、同時に自治体提案の説得力をつけようと考えました。

しかし、これは良い打ち手とは言えません。
開発スキルも何もない僕が今からノーコード開発を独学で勉強しながら作るのは、時間がいくらあっても溶けていきます。時間の使い方として優先順位的によくありません。
何より、そもそも自治体提案の確度を高めようとする際に、武装準備に走るのは良くありません。あるべきは、戦いながら強くなるという姿勢です。

結局独学の開発も途中で力尽きた頃、ここまでずっと僕の進め方を温かく見守ってくださったゼロイチ事務局の煙草さんから「福岡のボーダレスオフィスに一週間来てみるのはどうか」とご提案くださいました。

頭がかたい僕でしたが、毎週zoomで1on1をしてくださった煙草さんだからこそ「考えずに一度言われた通りに決めてみよう」と重い腰を上げることができ、小学校スタッフや市教委インターンにも急遽お休みをいただいて、一週間の休みを確保して福岡へ向かいました。

煙草さんにオススメされたまきのうどん。美味しかったです。

結論、福岡から帰って冬合宿が始まるまでの2週間少し、ほぼ毎日1アポで走り切ることができました。これは、5日間かけて計画と管理という社会人の習慣を身につけられたことが大きかったと思います。

でもその習慣以上に、ボーダレスオフィスに集う社会起業家の方々とともに過ごしたことで、僕のマインドセットに大きな変化が生まれたことも大きな理由です。

これまでの僕は再三「できること」で選ばなかったと言っていた反面、「できないことをやっているんだ」とどこか言い訳に使っている節がありました。

でも福岡オフィスに来てからというもの、周囲を見渡せば、僕がぶつかっている壁以上に大きな壁に対して、可能性を見出して、信じて向かっている方々ばかりでした。僕が言い訳に使ってきた「できない理由」がとてもちっぽけに思えました

思いは招く。信念が「できないこと」を減らすのだと理解できました。

「遠慮しない」を小さく積み重ねる。

福岡修行の3日目には、RICE MEDIAのトムさんに一度相談に乗っていただき、営業でなかなか進捗が出ず苦手意識を持ってしまった理由に気づくことができました。

原因は、根本にある"遠慮心"でした。
断られたときにもう一歩ずかずかっと踏み込んで聞き出す勇気がないと、相手が断る理由の解像度がいつまで経っても上がりません。思い返せば、肝心なところで相手の言いづらそうなことには踏み込み切れていませんでした。

教育行政の中で仕事しているがゆえに、職員の方の忙しさを痛いほど理解してしまっていることも影響してるのかもしれません。

完璧なものはいきなり作れない、課題解決までの道のりはただひたすら改善の道のりだ。社会に必要だけど誰もやってこなかったことをやっているのなら、遠慮せずに胸を張れ。傷つける勇気を振り絞れ。

遠慮してる暇はない、もっと焦らないといけないと思えました。

なぜ始めたのか、なぜ続けてきたのか。

自治体提案という挑戦をする上で、ふるさと納税forGoodの竹下友里絵さんには特にお世話になりました。

資料の作り方もそうですが、商談に同席して感じた"押し引きのバランス"。何が交渉相手のフックになるかは分からない。ある意味流れに身を任せるタイミングも必要、それでも価値訴求の切り口はいつでも豊富に持っておく。

でもテクニック面よりも、これだけは忘れちゃダメだと感じたのが「なぜ始めたのか」でした。たとえそれがエゴでも、共感されるべき理由で始めたはず。これを言葉として持つことの大切さを合わせて知りました。

ただ、自分はこの半年ずっと「なぜ始めたのか」を言語化できずにいました。けどここまで続けてきたわけだから、理由はある。

そして、ボーダレス代表の田口さんには、改めて自分のビジネスプランがソーシャルコンセプトとズレている可能性を指摘されました。
教員不足という問題も、子どもたちが主語なら「常勤講師という枠でどんな先生を子どもたちに届けようかな」とポジティブに考えてみることこそが子ども目線なのではと言われ、その通りだと思いました。

でも、なにか違和感があり、自分は心の底から子どもたちが主語なのか?誰を救いたいのか、深く考えずに「子どもたち」という言葉を借りていたことに気づきました。

そんな中、最終日にボーダレスジャパン22卒入社の先輩方のランチミーティングに参加させていただきました。最初は自分のプランを淡々と説明していました。

Re:leafのおんまゆさんに「問題と原因を一言で言ったらなに?」と聞かれ、僕は「問題は先生が休んだり辞めたりしたときに代わりの先生が見つからないこと、原因は講師登録の仕組みが応募者ファーストじゃないことです」と答えた。

そして言われました、「じゃあ、その問題ってずく(自分)が救いたい人がちゃんと主語になってる?

確かに。改めて考えれば、主語はずっと行政や制度でした。
これは自分の関心領域ともよく考えれば一致していました。

子ども視点といいながら子ども視点がなかったのは自分かもしれません。
そのタイミングで「ずくはいつどうやって教員不足の問題を始めようと思った?」と聞かれました。

本屋でたまたま『先生が足りない』って本を手に取って、想像以上の状況を知って、ただ自分1人じゃできないと思った矢先にゼロイチの広告をみて。」そのときの心情変化が、スッと出てきました。

今まで嘘をついてきたわけじゃないけど、これだけは本当だと思えたし、先輩方も「紛れもなく今のはずくから出た言葉だと伝わった」と言われました。じゃあ、子ども目線も先生目線も薄いにもかかわらず、本を読んだだけでなんでここまで続けられたんだろう。自問しました。

思えば、ゼロイチ始まって以来ずっと答えが見つかっていない問いでした。夏合宿振り返りのnoteに書いてましたが「よく分からないけどとりあえず目の前数年の人生はかけようと思えてる」と、覚悟的なのを思い込ませてやってきていました。

でもやっと、分かった気がします。
自分が本を読んで火がついたのも、教育行政や民主主義にずっと関心があるのも、全ては「大人が大人たち都合の仕組み制度をそのままにしてなんとかしようとしていることへの憤り」でした。

行政が行政都合のままなんとかしようとしていることに憤っているから、先生目線や子ども目線を仕組みに組み込むことに必死だったんだと思います。先生や子どもたちから始まったわけではありませんでしたが、大人目線を崩すために必要な目線として腑に落ちました。

ここまで来て、合同会社設立のnoteでも書いていた「自分の原体験」と綺麗に合流した気がします

高校2年の頃の高校削減政策でなぜか自分たち生徒がネットで叩かれたときに発信活動したものの、テレビをつければ県知事と県教育長が責任をなすりつけあってる。中学でも、いつも生徒に偉そうな先生が校長や学年主任にぺこぺこしてる光景をみて大人を尊敬することがなくなったことを思い出しました。

自分は大人という立場で行政を中心に大人の姿勢を変えることにコミットしようと思います。まずは教員不足から。
たとえ教員不足が少子化や学校統廃合によって自然解消するかもしれなくても、それでも、だからこそ、今の仕組みのままで上手くいかせるわけにはいかない

福岡修行、大変お世話になりました。

青春の集大成、冬合宿。

1人で進めると忘れる、WhyよりReallyの大切さ。

冬合宿がいよいよスタート。久々に顔を合わせるメンバーとともに、渋谷QWSにて行う最終ピッチに向けたラストスパートの2週間が始まります。

合宿までに準備してきたピッチ資料やスクリプトにFBをいただき、分かったことはプレゼンとピッチはまるっきり伝え方が違うということ。

ロジックで固めるというよりも、聞き手が不信感を持たないリアリティ(実効性)をいかに裏付けてストーリーを組み立てていくか。僕は「共感と裏切り」を重視して用意してきたものの、まだまだ中身が薄かったなと気付かされました。

そして、全員が準備してきたピッチを一通り見て、数日過ごして、夏合宿とはまるで違う緊張感の漂う雰囲気があると感じました。
最終ピッチではどうしても順位がつくという中で、受賞することを目的化するのは趣旨とずれると各々が分かりながらも、やはり一つのベンチマークとしては十分すぎる機会なので、2週間後という焦りも含めピリピリしていたようには感じます。

僕はというと、最優秀賞をとりたい、いや、とらないといけない、と心から感じていたなと思います。

というのも、インターン先の職員の方々やその他お世話になった方々に今できる恩返しはこの受賞しかなかったから
日頃から散々お世話になっているのに何も返せていない、こんな僕に期待や応援の言葉をかけてくださったり、時間を用意してくださったりしている。そう思って、ピッチ作成に取り組みました。

そういう運やったとしても、負けたくない。

そんな中で僕は体調を壊し、インフルエンザB型を患ってしまいました。

「あと2週間もないのに」という焦りと「みんなに移してしまったら」という罪悪感。症状も長引き、5日間くらいは部屋にこもっていたと思います。冬もインフルエンザA型にかかり、年末に胃腸風邪と、今まで病気は年1だったのに、この一年は2ヶ月単位でちゃんと体調を壊している自分の体調管理不足にもはや腹が立ちました。

それでも、みんながオンラインで相談時間を作ってくれたり、食料を扉にかけてくれたり。本当に「優しさ」って温かいです。。

ただただ自分に悔しかったですが、それでも遅れた分を巻き返すしかないと奮い立たせました。そのときの手記の一部です。

すべて決まってたとしても、抗いたい。
頭で分かったとしても、自分は認めない。
そういう運やったとしても、負けたくない。

ひとまずここまで来れたじゃないか。
ポジティブじゃなくていい。
ただ「やるべきこと」を選び「できること」で選ばなかった自分を、間違いだったと思いたくない。

奇跡が起きるまで、やり続けるだけ。たぐり寄せるだけ。
そのイメージを持ち続けました。

時間は刻一刻と過ぎていきました。

それでも、合宿期間中に、社会問題のペルソナになる方や教員養成大学の教授など、ピッチ資料で顔を出してもいいとご協力くださる方が見つかり、本当に感謝しかありません。
そしてプロダクト開発面でも、開発伴走くださったモンスターラボの方々が自治体営業の特殊さに寄り添ってくださり、半分諦めていたベータ版開発にも乗り切ることができました。本当に有難うございます。

前日までスクリプトもスライドも修正を重ね、なんとか伝えたいことが伝わる状態を作って当日を迎えられたと思います。

上手くいくか分からないことに全力な瞬間の連続。

この連続を、人は「青春」と呼ぶんだなと振り返って思います。

最終ピッチは無事終了し、結果受賞することはできませんでしたが、しっかりこの評価も前向きに捉え、やることは変わらないと、姿勢で示そうと決心できました。また、フジテレビ「Live News α」でも報道され、僕も少し尺をいただきました(1:13〜)。

そして、最終ピッチイベントの後の交流会では、メンバーを代表してコメントさせていただきました。そのときの言葉を整理したものをここで記し、このnoteを終わりにしたいと思います。

ゼロイチが本当に大好きです。

こうしてゼロイチ愛を僕らが確かに感じられているのは「ゼロイチを作り支えてくださっている方々の本気度が目に見えて伝わった」ということがとても大きいと思います。

社会課題っていうのはジャンルで括られることが多く、タグをつけて分類されやすい今の世の中で、常にワンオブゼムとしてではない、10組のうちのひとつとしてではない、課題と自分を同時に見てくださった皆様。

僕らはそんな毎日の支えにひたすらモチベートされてました。
こういう恩っていう感情って素敵な感情だなと、大切にすべき感情だなと思わせてくださったから、ゼロイチを繋げたいと皆が心から思えています。

そして、ゼロイチメンバー。
10組ってくくられてますが、本当に12人それぞれがキャラクターがたってて、価値観の根っこから自分が相対化された7ヶ月でした。

そして、自分。
一つ僕が自信を持って貫いたと言えるのは「ひとえにやるべきことで選び続けた」ということかなと思います。

この7ヶ月の間、常に不安でした。多分こういう計測しづらい領域で、アイデア段階からこれだけ手厚いサポート受けることって本当に恵まれていると思うのですが、それでも常に不安でした。課題が目に見えてるのに解決できない自分への憤りも常にあって。
それはひとえに「できないこと」をやってたからだなと。できない理由なんていやでも見つかるし、それがちっぽけなくらい、多分見えてないところにもっと大きなできない理由が待ってるんだろうなと思います。

でもそれで大丈夫なんだと、だって「できること」で選ばなかったからと。そう再確認させてくれるプログラムでした。

やるべきことをやっていいと正当化された空間に、それこそ0→1のタイミングでどっぷり浸かれたことは本当に大きかったと思います。

最後に、ゼロイチが来年度も続いていくということで、形も中身も色々変わっていくと思うんですけど、みんなで話していて、確実に僕ら10組12人の人生は変わったということは伝えておきたいです。

本当に関係者の方々、政策立案の部分で批判されることもあったと思います。実際ゼロイチの募集が始まったときにyoutubeで発表された動画のコメント欄とかを見て、僕はどこか悔しかったです。

この枠組みを絶対に続かせるためにも、僕らは僕らのやるべき課題解決を実現し、ゼロイチが社会を変えたという既成事実を作ります

ここが本当のスタート地点だと思い、言語化しきれない「想い」と解像度が粗々な「ジャストアイデア」だけしか持っていない状態だった7ヶ月前にあった初心を忘れずに突き進みます。

本当に皆様、有難うございました。

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