石井さんnote

ある朝、目が見えなくなってから #人生を変える学び 石井健介 vol.4

――自分だからこそできることをやっていきたいという石井さんと「真のダイバーシティ」「心のバリアフリー」について話します。(最終回)

障害は個性ではなく、ただの状態

石井:ブラインドジョークという見えないことをネタにしたジョークをSNSに投稿しています。見る人からしたら不謹慎だと思われると思いますが、僕はネタとして言っています。

武井:自分のありようをBeingとして受け入れて、周りの人にも受けとってもらえるような環境をつくっていくと、真のダイバーシティが実現するはずだから、それに向かって面白おかしくやっていこうということを考えていらっしゃる。

石井:障害は個性といわれますが、ただの状態だと僕は思うんです。「障害者=助けなきゃいけない存在」だと捉えられがちですが、ダイアログ・イン・ザ・ダーク(以下、DID)の暗闇では一歩も動けなくなった健常者を、視覚障害者がリードし案内をするんです。僕たちは明るいところでも暗いところでもさほど変わりがないので。つまり、暗闇に入った瞬間に「助ける/助けられる」の立場が逆転するわけです。状況によって変わる。だから、ただの状態なんです。

「心のバリアフリー」という言葉も一方的な立場から見た言葉として使われがちだと思います。バリアを持っているのは健常者だけでなく、障害者の側にもあったりしますから。もっとフランクにかかわりあえばいいと思うんです。

僕はこういう性格なので「東京に行って、〇〇したいから誰か助けて」とFacebookに書き込みます。そうすると友達が助けてくれるので「ありがとう」という。僕もうれしいですが、「ありがとう」といわれた友達もうれしい。

武井:助けた人の喜びがあるわけですよね。

石井:例えば、ご飯屋さんの前にショーケースが並んでいて、ビジネスパーソン3人が「ランチどうする」と話している。僕はそこに近づいていって「僕ちょっと目が見えないので、ピンときた美味しそうなものを教えてください」って声をかける。そうすると「この天丼が美味しそうだよ!」とか「絶対こっちのほうがいい」とか教えてくれて、「どうしよう~。じゃあ、これにします!」って決めると、盛り上がってくれる。そういうのは、僕らだからできることだと思っていて。

健常者という言葉を使っちゃいますが、健常者側が啓蒙として「障害者を助けましょう」とやるんじゃなくて、「いや、もう面白いじゃん」と関わっていくのがいいと思います。

武井:使えるものは何でも使ったほうがいい、と。使えるものというと「不謹慎だ」とおっしゃられる方がいますけど、才能の1つですよね。でも日本ではこういうことを理解してもらうハードルがすごく高い。

私は実はIGA腎症という持病があって食事制限がかなり厳しくて、外食するにもお店の人に相談しないといけない。私は病気のことはオープンにしているのですが、同じように病気を持っていたち人に「公表しているのはすごい」と言われたことがあります。

彼は「勇気がある」と表現したのですが、石井さんはその勇気をお持ちです。自分の状況が他の人に知られたからといって、マイナスになるものではないという自信がある。

日本には、その自信がない方が結構たくさんいて、今いったバリアを自分の側からも引いて、相手側もバリアを引いているのでどんどん互いが遠ざかってしまうという苦しい状況が生じています。

これをなくしていく活動を、石井さんは、これからずっとやっていきたいということなんですね。

石井:実は、見えなくなってから、楽になったんです。「助けて」といえることで斜に構えていた部分がなくなりました。

武井:バリアはお互いの中にあるから、お互いのバリアを下げていく活動は、当事者じゃないとできない。何かを変えるとき、変革するときには、何をしたら早道かというポイントがあるんですよね。

石井さんは、そのポイントを見つけるのがうまいのでしょう。そういう人が両方にいて互いにポイントを見つけていくと、まさに石井さんが望むような社会が実現するのかなと思います。

一方で、そこにおかしなアドボカシー(自己の権利を主張するのが困難な人の代わりに代理人が権利を主張すること)が出てきてしまうと、お互いのバリアを下げようという動きが壊れてしまう恐れもあります。

石井:だからネックになるのは啓蒙活動だと思っているんです。例えば駅で「目の不自由な方がいたら助けてあげてください」という放送がかかっている。でも視覚障害者の中にも助けを必要としている人と、そうでない人がいるのが実際で、そういう個々の状況を見えなくしてしまう。

僕がよく聞かれるのが「街中で目の不自由な人を見かけたらどうしたらいい?」なのですが、僕の答えは「本人に聞いてみたらどうですか」です。

その答えは、その人その人で違うし、その時の状態でも違うし。視覚障害者でも機嫌の良し悪しももちろんあるんで。

武井:みんながみんな、聖人君子じゃないから。

石井:パーソナリティーだから。でも、日本だと視覚障害者というレッテルから入る。個人にフォーカスをしない。障害にはグラデーションがあるのに一括りにしてしまうところに違和感を覚えます。

武井:ホフステッド指数という各国の文化(国民性)を測る指標がありますが、日本のインディビジュアリズム(個人主義)は、平均に位置します。中国とか韓国に比べると2倍くらい高い指標になるんです。日本がうんと低いわけではない。でも、行動の横並びを求められるところがある。それがちょっと厳しい。

日本全体に個人を見るクセをどうやってつけていってもらうかという課題があると思います。そこをなくしていくには、石井さんがDIDでご自分の姿を見せることも意味があると思いますし、それ以外にもさきほどおっしゃっていたYouTubeの企画も面白いと思います。そうやって情報発信をされて、石井さんご自身を見てもらうというのは素敵ですよね。今日はどうもありがとうございます。

【武井涼子インタビュー後記】

石井さんの強さとは

インタビュー前にDID「内なる美、ととのう暗闇。」を石井さんのアテンドで経験させていただきました。存じ上げてはいたものの、石井さんが「今日のアテンドです」といってポンと室内に入って来られた時に、こういう言い方はいいかどうかは別にして、普通に入ってきたという感覚があります。

普通のお兄さんが普通に入ってきた。その感覚を石井さんご自身がとても大切にされているんだろうなということを今回のインタビューを通じてものすごく思いました。

元々がセラピストで瞑想をされていたことなども影響しているのでしょう。自分や相手の感情にものすごく集中力を持って対峙していらっしゃるから、心の動きをとても丁寧に説明ができる。しかも、それを相手の心にすっと届くように伝えられる。どうやったら、押し付けがましくなく、お涙頂戴にもならず、相手が受け入れやすいのか。うまく人に入っていく温度感みたいなものも持たれていると感じました。

障害のグラデーションという話が出ましたが、例えばLGBTでも最近は性別は白黒ではなくてグラデーションだと言われていますよね。それは障害も同じで、一律に決めることはできない。それぞれの個々の状況に応じてそれぞれの個々のかかわり方がある。それは背の高い人と低い人がいるのと全く同じようなことだ、というのを当たり前に受け入れる社会をつくっていきたいということなんだろうなと思います。

視覚を失われてからは、それを持っていないという特徴を生かして、自分にしかできないことがあるはずだと思われたというのが素敵だなと思いました。そうして石井さんは自分の人生を立て直され「自由」になっていったのだと思います。冒頭にも出ていた「普通の感覚」を持っていらっしゃるからこそ、石井さんがご自身の周りに作り出している社会は、本当の意味でのイクオリティ(平等さ)のある世界なのではないかと思います。