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小説がもたらす開放感はどこから来る?柚木麻子『本屋さんのダイアナ』と、村上春樹『恋するザムザ』を読んで

そういえば昔の頃はよく、現代日本の女性作家さんの小説をよく読んでいました。村山由佳、あさのあつこ、佐藤多佳子、梨木香歩、とか。

いつの間にか読まなくなったのは、彼女たちが描く女性が自分と近くなってきたからかもしれない。なんだろう、感情移入しちゃうというか、近すぎてべったりしているというか。まあそれがもちろんこれら作品の魅力でもあるんだけれど。

逆に高校を過ぎてから、高校生が主人公なことが多いアニメや漫画を見られるようになりました。

というわけで最近はめっきり読まなくなった女性作家ものですが、この間ひさびさに手に取りました。それは柚木麻子『本屋さんのダイアナ』。

境遇が全く違う二人が仲良くなり、離れ、また互いの背中を押すという心温まるストーリー。子供時代を離れ成長するにつれて、家族の関係とか就職とか恋愛とか決してハートフルではないできごとが彼女たちに訪れるので、一気に読んでしまいました。

でも最後は希望が見える終わり方なのに、読後感はそんなに明るくなれなかった。なんだろう、小説がもたらす開放感、みたいなのがなかったんです。

★★★

ちょうど同じ頃、村上春樹の翻訳本『恋しくて』に収められているオリジナル書き下ろし『恋するザムザ』を読みました。

これは、かの有名なカフカの『変身』を元にしたストーリー。ある日朝起きたら虫になっていた主人公の話が書かれたのが『変身』だとすれば、これは逆にある日朝起きたら人間の男になっていた『虫』が書かれています。

それだけでも大変コミカルなのですが、そんな人間になったザムザくんはその日なんと恋をします、人間の女の子に。

彼女のことはよく知らない、けれど彼女に本能的に惹かれてしまうザムザくん。それだけだとただのコミカルなラブ・ストーリーとして終わりそうですが、この話の背景としてドイツ軍のプラハへの侵攻がでてきます。これはそんな時代の話だよということが示唆される。でも虫だったザムザくんは、そんなこと知るよしもありません。

ただ、目の前の女の子をもっと知りたい、と思い、とりあえず生きることー人間の身体と動きに慣れて、食料を見つけることーへと動き出します。

私はこの話を読み終わった後、なんだかすごく開放的な気持ちになりました。それは、次元のズレがあったからだと思います。

自分の力ではどうしようもない現実(ここでは戦争)を前にしても、それとは違う次元、ここでいうと恋という極めて個人的な次元で生きようとするザムザくんは、個人が個人として生きる、という人間として根本のところを、戦争という次元が大きい話を作中に挟むことで際立たせています。

これは村上春樹の作品では多くでてくるもので、「大きな物語」と「小さな物語」という軸で語られます。1Q84などでは顕著に表れている。リトル・ピープルとそれと戦うという大きな物語と、主人公青豆の初恋の成就という、極めて個人的な物語が、そこでは絡み合う。

私が『本屋さんのダイアナ』を読み終わった後、あんまり風通しが良くなかったなあと思ったのは、作中で主人公たちに訪れる困難と希望が、どちらも同じ次元の話だったからだと思います。

その世界・その次元でしか話が進まなくて、無意識に読者はその世界の狭さ、抜け出せなさ、嗅ぎとってしまう。まあその世界・次元から逃げられないからこそ、一気に読ませるという臨場感が湧いて来るのですが。

私は次元のズレから来る、小説の開放感からはすごく勇気がもらえることがあります。大きな悪やどうしようもない社会にぶつかっても、次元の違う、限りなくささやかで個人的な営みを続けていくということ。それは村上春樹の有名な「卵と壁」のスピーチにも当てはまるし、『この世界の片隅に』にも当てはまるものだと思っています。

それでは、また。

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