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「好きなときに、泣きんさい」

そういってくれたのは、唯一祖母だけだった。しわくちゃの、かさかさした手をほっぺにあてて、涙を拭ってくれたっけ。

子どものころはひどく泣き虫で、悲しいときはもちろん、悔しいときも、怒ったときも、嬉しいときも、少しでも感情が動いていたら泣いていた。もちろん当時はそんなことなんてわからなかったので、自分がなんで泣いているのかわからずに、涙を流すことの方が多く、お母さんや友だちに「なんで泣いてるの?」って聞かれるたびに戸惑っていたのを覚えている。

なんで?どうして?って聞かれるたびに、さらにたくさんの涙がぽろぽろ流れてきたことも。

そう、唯一おばあちゃんだけが、私が泣いていてもなんでって聞かずに黙って涙をぬぐってくれた。おばあちゃんのかさかさした手に触れられると、そのあたたかさで余計にわんわん泣いていたのだけれど、私が泣けば泣くほどおばあちゃんは笑顔になるので、しまいにはそれにつられて私もあはははって声を出して笑ってたっけ。

夕方、公園の砂場で友だちと泥だんごをつくっていたら、もう帰りましょうという音楽がスピーカーから流れてくる。5時30分。別に悲しい音色でもなんでもないのに、私はそれを聞くたびに泣いていた。

夕日でオレンジ色に照らされた友だちの髪の毛も、鈍くひかる滑り台の縁も、長く長く伸びた時計の影も、なにもかもが私の泣くきっかけとなった。悲しいとはちがうのに、心臓の上のあたりがきゅっとすぼまって、その痛みを感じた瞬間にはもう、涙が出ている。

大人になった今でも、わけもなく泣きたくなってしまう。今夜は月食ですよというニュースを聞いたとき。コンビニ店員のいらっしゃいませえという語尾が少し上ずっていたとき。エレベーターで鉢合わせた上司にお疲れさまですしか言えなかったとき。今日のごはんはキーマカレーだよと彼からLINEがあったとき。

ふいに、目の上の方がじんわりあったかくなって、ふと気づいたときにはもう、遅い。ぽろぽろ、ぽろぽろ、子どもが泣くみたいに、涙が溢れてくる。

好きなときに、好きなように泣いていいんだよって言ってくれたおばあちゃんはもういない。私はおばあちゃんのために泣いていいのか、泣いた方がいいのか、泣かない方がいいのかわからない。でも涙にいちいち、悲しいとか、さみしいとか、悔しいとか、嬉しいとか、そんなラベルを貼る必要なんてないはずだ。

ねえ、おばあちゃん。おばあちゃんのおかげで、私はとうめいな涙を流すことができたんだよ。

ねえ、だからね、

好きなときに、泣きんさい。


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