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砂糖菓子みたいな日々

バスの窓にもたれかかれながらふと外を見やると、団地が見えた。同じ大きさの窓がたくさんたくさん並んでいる。ぽつぽつと明かりがついているのがわかる。白っぽい光もあれば、オレンジっぽい光も、ぼんやりとした間接照明っぽい薄い光も見える。

ああ、この光ひとつひとつに、それぞれの人の生活があるんだなあと思うと、なんだか不思議な気持ちになった。それぞれの人の生活は隣り合っているけれど別につながっているわけではなくて、でも地面の下を掘っていくと、地下水脈でつながっているような。と考えて、ふとユングの集合的無意識を思い出す。って思い出せるほど詳しくないけれど。

昔、パリの凱旋門だかなんだかの上に登ったとき、道が360度ぐるっと放射線状にそれぞれすうっと伸びていて、そのひとつひとつの一本道にはたくさんの人が歩いていて、「この人たちひとりひとりにそれぞれの人生があるんだな」と実感したことを思い出した。

もちろん私も、バスの窓から見えた明かりの下で暮らす人たちや、パリの道ゆく人たちと変わらず、私の生活や人生があって。他の人たちのそれと隣り合っていて、一瞬すれ違うことはあってもつながってはいなくて、でも奥深くではつながっているような気がしていて。

ええと、なんの話がしたかったんだっけ。

毎日生活していると、ちょっとした嬉しかったことも悲しかったことも起きるし、調子良いなあと思っていても、またすぐ落ち込んだりもするし。昔の時計みたいにゆらゆら、行ったり来たり。

でも、嬉しかったことも悲しかったことも、怒り狂ったことも、漠然とした不安感も、幸せだったことも、すべては過去のベールに包まれて、薄ぼんやりと遠ざかる。そうじゃないと人間、生きていけないんだろうな。うまくできてるよなあ。

ふわっと甘い、それでいてじょりっとした感触がある砂糖菓子を、口に入れたらすぐ溶けてしまうように、私たちの生活や人生で起こったことも、遅かれ早かれ、ぼんやりと溶けてどこかへと流れ去ってしまう。

それは悲しいことじゃなくて、むしろ甘美なことだと思っている。悲しみはいずれ涙とともに溶け出す日が来るということ、嬉しいこともいずれは薄ぼんやりしてしまうから、今思いっきり抱きしめておくこと。

そんなふうに、思って過ごせたらな、と思っている。

それでは、また。

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