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西洋近代と日本語人 第2期[番外編2の14]

4.近代日本における懐疑論と個人主義(続き)

4.4 愛の思想について

4.4.1 愛と意志

545.  前回に続いて、本居宣長の「物のあわれ」の説を取り上げます。が、その前に、絶対をめぐる話をします。それというのも、過日、わが畏友、ガメ・オベールことジェームズ・Fが「メッセージ」というブログ記事(https://james1983.com/2023/05/19/message/)を公表しました。それを読んで、絶対について自分も書きたい、と思ったのです。宣長は、絶対へ到る道を歩んでいない。絶対は、宣長の「物のあわれ」の説に現れようがなく、二つは相容れない。そのことを書こうと思った。

546.  ガメどんの記事は、ガメ家のドライブウエイにふと現れた隣人アーロンの姿から説き起こし、「絶対」あるいは「言葉の外側に住む者達」に触れたのち、「まったく信じていない、従って、まったくまともに思考の対象にしたことがない「絶対」に日本語人は復讐されている」と告げます。そして、人の世に不意に現れる「言語の外からやってくる「メッセージ」」への気づきを手がかりに、人間の意識的思考の全体を構成する言語集合のそのまた外に、莫大な世界が広がっていることに説き及ぶ。そういう内容でした。

547.  それ自体は言語集合の外に在り続けながら、メッセージだけは寄越す存在とは、ガメどん謂う所の「絶対」です。人間の意識に〝ほら、これだよこれ〟という風に与えられることは決してない。だから言葉は決してそこに届かない。だがしかし、言葉の指し示す先に、確実に存在している。それは「絶対」と言ってもよいし、「存在そのもの」と言ってもよい。「物自体 thing-in-itself」とか「実体 substance」といった西洋哲学の専門用語で呼ぶこともできます。

548.  文脈に応じて「神」と呼ぶ場合も当然あります。神 God とは、絶対であり、存在そのものであり、実体です。ただし、宣長のいう「迦微カミ」はちがう(番外編2の13:530)。「迦微カミ」は絶対でなく、存在そのものでなく、実体でない。神道的なカミは、おそらく、どこからかやって来て、任意のもの(依り代)に〝憑く〟ものです。「神懸り」や「狐憑き」といった言い回しがそれを表している。そして、この〝憑きもの〟は、言葉の外にあるのかというと、そうではなさそうなのです。というのも、〝憑きもの〟は、人間の言葉で操ることもできるみたいだからです。これに対し、絶対を人間の言葉で操るというのは意味をなさない。取り引きが成り立たないというのは、絶対であることの必要条件です。

549.  というように、絶対をめぐる問題は、本居宣長と深くかかわっています。だから、「物のあわれ」の説を検討することは、「「絶対」に日本語人は復讐されている」とはどういうことなのかを考える格好の入り口になるはずです。そういうわけで、まずは絶対とは何か、辞書的な意味の検討から始めます。

「絶対」の語義について
550.  「絶対」は、明治期に「absolute」の訳語として哲学用語に取り入れられました。純然たる明治の新造語ではなく、一応、漢籍に出典があるらしい。しかし、漢籍とは異なる意味に転用された*。

注*: 朱京偉「明治期における近代哲学用語の成立:哲学辞典類による検証」『日本語科学』第12巻、2002年10月刊、pp.96-127(http://doi.org/10.15084/ 00002093)。

551.  「絶対」の意味を知るには、西洋語の辞典を見る必要があります。オックスフォード英語辞典(The Oxford English Dictionary: OED)から、用例その他は全部省き、形容詞としての「absolute」の、ローマ数字の大きな意味項目のみを抜き出して挙げておきます。[ ]内は試訳。

Ⅰ.Free from dependency, autonomous; not relative.[依存していない、自律的な;関係的・相対的でない]
Ⅱ.Complete, perfect.[完全な、完璧な]
Ⅲ.Detached, disengaged.[離れている、関係しない]
Ⅳ.Free from conditions or mental reservations.[条件のない、気持ちの上での留保を設けない]

552.  「絶対 absolute」は、他の何かと関係を持たず(Ⅰ、Ⅲ)、それだけで完全で(Ⅱ)、なんらの条件も課されない(Ⅳ)、といった意味になる。語源に遡ると、英語その他の「absolute」は、ラテン語の動詞「absolvo」の完了分詞「absolutus, -a, -um」に由来する。「absolvo」は、「solvo(解く、ほどく、分離する)」に「ab(から、離れた、遠い、すっかり、全く)」が付いた形をしていて、基本的に「束縛から解き放つ、自由にする」といった意味である*。というわけで、「他と関係せず、それだけで完全で、なんの条件もない」という意味となる。

553. 注*: 國原吉之助『古典ラテン語辞典』(大学書林2005)。

554.  「絶対」は、日本語の辞典類では次のように説明されています。

日本国語大辞典: 「なにものにも制限拘束されないで、それ自体として存在すること。何の条件にもよらずにあること。また、そのさま。哲学的な意味では、一切の条件を超越してそれ自体で存在する完全な独立的実在をいう。相対に対していう語。」

広辞苑: 「他に並ぶもののないこと。他との比較・対立を絶していること。一切他から制限・拘束されないこと。」

ブリタニカ国際大百科事典(電子辞書対応小項目版)という百科事典の説明が予想外に良かったので紹介しておきます。

「相対の対立概念。思考においても実在においても一切他者に依存せずそれ自体として自律的に存在し自己のうちに存在の根拠を有するものをいう。認識論的には、そのものについてのわれわれの表象とは独立に存在しているもの、ものそれ自体。宗教哲学ではキリスト教のように超越的な神の別名となる場合と仏教のように悟りの境地を称する場合とがある。」

 以上の通り、日本語の「絶対」の意味が「absolute」の語義に従っていることは明瞭です。

555.  「絶対」は、宣長の「物のあわれ」の説とどうして相容れないのか。「物のあわれ」としての愛の問題と、「物の心を知る」という認識の問題について、問題の概略を見ておきます。まず愛の問題から。

愛における絶対の問題
556.  宣長の考えでは、人がもっとも深く物のあわれを知るのは、恋愛においてだった。それは、次のような例で提示されていました(番外編2の11:430)。他所の家の美しい娘に男が深く思いを寄せ、堪えがたい思いを娘に告げる。すると娘は、親の教えには背くけれど、男の気持ちを哀れに思って、逢うこともある。このとき、娘が、心の中で、自分に向けられた男の気持ちを、「ああ、なんとまあ」と深くわかるのは、やはり物のあわれを知るからである(『紫文要領』88頁)。

557.  先には、この例を一種の感情移入としてとらえ、娘は、男の恋い焦がれる気持ちをありありと想像し、その気持ちを相手と同じ仕方で感じて、その気持ちに動かされる、というように分析しました(番外編2の11:434)。娘は男の気持ちの本当のところをそうやって知り、それに感動して、すなわち物のあわれを知って、男の恋心を受け入れ、逢って寝るわけです。

558.  これが物のあわれを知ることの典型であるとすると、ここに生じている感情的な愛は、徹頭徹尾、関係性の中にある。男は娘の美しさに打たれて恋心をいだき、娘は男の真情を知って感動する。いずれも、相手の特性(娘の美しさ、男の真情)を知ることによって、相手にむかう感情体験(性愛)が生じている。

559.  この愛情は、相手の特性に依存しており、それに条件づけられています。だから、上記の定義に即していえば、この愛は、〝絶対〟的なあり方をしてはいない。相手の特性に関係なく、無条件に、みずからだけで存立するような愛ではない。物のあわれを知ることとしての宣長の考える愛の体験は、〝絶対的な愛(absolute love)〟ではないのです。

560.  「絶対的な愛(absolute love)」という言葉は、いま私が思いついたのですが、ちょっと気になったので、「absolute love」をGoogle Booksで検索してみました。5万9千件余りの用例があった。一応、英語に存在する言葉でした。

561.  「絶対的な愛」とは、「他と無関係で、それだけで完全で、なんの条件もない」という、上述の「絶対」の語義を満たすような愛を意味するものとします。そんな愛の例として、もっとも容易に例示できるのは、神 God の愛です。

562.  神 God は全知全能で、完全無欠な存在であり、定義によって、自分以外のいかなるものも必要としていません。まさに絶対者です。神は全宇宙を創造しました。すなわち、神は宇宙が存在することを意志した。なぜか? 被造物から、たとえば人間たちから、何か見返りを得るためか? もちろん違う。神は完全無欠なのだから、自分のために被造物のはたらきを必要とするはずがない。神は、創造の対象としての宇宙とは関係なく、ただただ自分自身の内なる意志のみによって、宇宙が存在することを欲した。それは宇宙のためだった。相手のために、相手が存在することを意志すること、これが「相手と無関係に、それだけで完全で、なんの条件もつかない」神の愛です。意志の発動が愛なのです(番外編2の10:373)。かくして、宇宙が存在することを欲した神の創造のわざは、宇宙へ向かう神の自由な意志としての絶対的な愛である。そういうことになります。

563.  なんだかキツネにつままれたような感じがするかもしれませんが、この神の愛の説明は、私が怠け者の大学院生だった時、たまたま一回だけ出席した山田晶教授のトマス・アクィナスの演習で、たまたまそのとき教授が語った内容にもとづいています。長年の間に、記憶の中で相当デフォルメされてしまっているとは思いますが。

564.  神は完全な存在なんだから、全宇宙を創造したのは、神自身にとっての善ないし利得を求めてのことではない、もっぱら被造物の善を願ってのことであり、それが被造物に向かう神の愛なのだ。したがって、愛とは、他なる存在の善を目的として、見返りを求めず、無条件に、外へ働きかける自由な意志のはたらきなのだ、ということ。理屈としてうまいことできてるなと思い、印象に残りました。その後、二、三の中世哲学の専門家に尋ねてみて、この考え方は、キリスト教的な愛の解釈としてまあ受け入れられるようだという感触を得た。

565.  物のあわれを知ることとしての宣長的な愛は、常に関係性のなかにあることにおいて、このような絶対的な愛とは根本が違います。これはほぼ明らかでしょう。なお、神 God の絶対的な愛が、人間における神への愛と隣人への愛の範型になる。キリスト教においては、人は、見返りを求めず、相手の善を願って、無条件に働きかける意志をもつことが求められている。相手がこちらのことを愛してくれなくても、自分の方はいつも相手の善を願って働きかけるようであらねばならない。汝の敵を愛せ、という命令は、このような働きかけを命じているわけです。(番外編2の10:376, 377)

認識における絶対の問題
566.  宣長は事物の本質を認識することを、「物の心を知る」と言い表します。物の心を知ることは、即ち、物のあわれを知ることである、というのが宣長的な認識論だった。ただし、宣長は認識の問題を正面から論じているわけではありません。議論の焦点は、物のあわれを知ることの方です。だから、宣長と、認識における絶対の問題との関係は、愛の問題ほど明快な相互排反の関係にはなりません。それは、後で(次回)じっくり検討しますが、まず、認識において絶対が姿を現すのはどういう仕方でなのか、簡単な例で、それを説明してみます。

567.  例として、金の認識を取りあげます。金属としての金です。「おかね」ではありません。金は、人類が古くから知っている金属の一つです。いわゆる黄金色の輝きをもつ唯一の金属なのだそうで*、腐食しにくいのでその輝きは失われない。昔から貴重な物質として扱われてきました。この物質は、日本語では「キン」と呼ばれます。

注*: 『完全図解周期表―ありとあらゆる「物質」の基礎がわかる 第2版』 (ニュートンムック Newton別冊サイエンステキストシリーズ)ニュートンプレス2010、p.152。

568.  「キン」と呼ばれるものは、このように、大変に目立つ特有の色をしている。それから、体積に比べてかなり重い。また、非常に薄くすることができる(展性に富む)。そして、極めて細く線状に引き延ばすことができる(延性に富む)。こういったことが、さしあたり知られているとしましょう。「キン」とは、特有の色、特有の重さ、高度な展性、高度な延性をそなえている、というように人は認識しているわけです。

569.  この場合、人が「キン」という単語を使うときに言いたいことは、そのものが「特有の色、重さ、展性、延性をそなえている」ということだ、といってよいでしょう。つまり、語「キン」は、「色」「重さ」「展性」「延性」で定義される。あるいは、語「キン」の意味(言いたいこと)は、この4つの属性から構成されている。

570.  さて今、ある人物が「キン」と呼ばれるものについて、それが塩酸と硫酸の混合液(王水)によって溶けることを発見したとします。皆がこの発見を知り、それが事実であることを確かめた。すると、語「キン」の意味に、「色」「重さ」「展性」「延性」に加えて、「王水に溶ける」も追加されると考えられます。「キン」の意味は、これ以後この5つの属性で構成されることになった。

571.  以前は、語「キン」の意味は、「色」「重さ」「展性」「延性」の4つの属性から構成されていた。今は、この4つに「王水に溶ける」が追加されて、5つの属性から構成されることになった。語「キン」の意味は、変わったのでしょうか? うん、まあ、〝ある意味で〟変わった、といっていいでしょう。

572.  では、かつて4つの属性しか知られていないときに、「キン」と呼ばれていたものは、5つの属性が知られるようになった今は、語の意味が変わってしまったのだから、「キン」と呼ぶべきでないのだろうか。これについては、そんなことはない、と皆が思うはずです。人間は、そんな不便な言葉の使い方はしてきませんでした。新しい発見が追加されるたびに、昔のものの呼び名を変えたりはしない。4つの属性で「キン」と呼ばれていたものは、5つの属性が知られるようになってからも、やはり「キン」と呼ばれるでしょう。

573.  このように、語「キン」は、4つ、または5つ、そして発見が追加される限り、さらに多くの属性もつ、というように定義が変化します。だが、語「キン」は、同じものを指し続けることができます。

574.  整理します。語「キン」は、ある種類のものを名指している。「キン」は、そのものにくっついている名前である。名前「キン」が正しく使われているかどうかは、いくつかの属性を基準にして判別される。だが、名前「キン」は、判別基準の属性の方に〝くっついて〟いるのではなく、ものの方に〝くっついて〟いる。だから、属性の中身や個数が変化しても、それによって名前「キン」の名指すものは変わらない。

575.  このとき、名指されているものが、「言葉の指し示す先に、確実に存在している」(547)ものです。これは「存在そのもの」とか「物自体 thing-in-itself」とか「実体 substance」などと呼ぶことができる。そして、これはまた「絶対」であり、言語の外に立っている。われわれの認識のあり方(属性の認識の変化)に依存せず、われわれと無関係に、それ自身で存在しているからです(551)。では、これが言語の外に立っているとはどういうことか説明します。

576.  名前「キン」は、ある存在を指している。その存在は、人間の探究が進むのに応じて、いろいろな属性を提示する。王水に溶けることだけでなく、電気の伝導性が高いとか、融点が摂氏1064.43度、沸点が摂氏2807度であるとか、いろいろなことが分かってきます。これらは、人間の知識となり、概念となる。しかし、そういう新たな知識、新たな概念の源泉としてそこにあるその存在そのものは何であるのか、と問われたら、返答に窮することになる。

577.  いくつかの属性を答えることはできます。しかし、問われているのは、その属性を持っている持ち主の方が何であるか、ということです。この問いに対して属性をいくら答えても仕方がない。たとえば、特定の原子の構造だと答えても、いや原子および構造である当のそのものが何であるか、と問われるでしょう。素粒子まで行き着いても、素粒子であるところのその存在そのものは何なのか、という問いは避けられない。科学的探究に終りは来ないはずです。

578.  「そのものは何であるか」という問いに対する答えは、すべて「そのものはFである」という形式になる。すると、「Fであるところのそのもの」は何であるか、という問いが避けられない。「Fであるところのそのもの」に名前を付けて指し示すことはできるけれど、それが何ものなのかを記述し尽くすことは不可能です。なぜなら、その記述が当てはまるところのそのものが何なのか、と再び問われてしまうからです。

579.  さまざまな属性の主語となるものは、突き詰めていくと、言葉で記述することはできない。その意味で、言語の外に立っている。それを指し示すことはできる。名前を付ければよいのです。名前は、符牒として、言語の外に立つものを、ちょうど指さすのと同じように、指し示すことができる。

580.  こうして、言葉は、言語の外に立っている主語的存在そのものを名指して用いられる。だが、言語の内でその存在そのものが完全に記述されることはない。新たな記述が与えられた途端に、新たな記述が当てはまる存在そのものは、言語の外に立っていることが判明するからです。「新たにFであると判明したそのものは何か」という問いは避けられない。

581.  かくして、言語の外に立っているのは、存在するということそのもの、つまり「なにものかがある」ということです。Fであるような何かがあるのです。新たにGという記述を得ると、FかつGであるような何かがあることになる。それはFやGという記述の主語として、名指すことができるだけです。どれだけ記述を増しても同じ。主語となっている存在そのものは捕縛できない。だから、存在そのものは言語の届かぬ先、言語の外に立っているわけです。

582.  モーセが神の名前を尋ねたとき、神は「わたしはある。わたしはあるという者だ」と答えました(出エジプト記3.14)。神は「ある」の総元締めであり、この宇宙のすべての存在を創造し、絶対者として言語の外にあって、言語を成り立たせる――存在を指し示す言葉と存在を指し示さない空虚な言葉を分ける――根拠となっている。

583. 存在そのもの、あるいは絶対と、宣長の「物のあわれ」の説はどのように関係するのか。愛の問題については語ったので、残るのは認識の問題です。それについては、次回に考えることにします。


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