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西洋近代と日本語人 第2期[番外編2の34]


5.近代(modern)と脱近代(postmodern)

5.2 観念説(続き)

はじめに

1391.  前回(番外編2の33)は、観念の表現的実在性というデカルトの独特の考え方について検討しました。デカルトは、「観念」という言葉を使うにあたって、「私の意識のうちにあるものは、いわば、ものの像(image)であって、これにのみ、本来、観念という名はあてはまる」(『省察』「省察三」p.257*)と言っています(番外編2の32:1288)。観念とは、多くの場合**、なにかを表現する一種の記号です。記号は、それが表現する事柄によって区別される。表現的実在性は、表現する事柄に応じて観念に宿る実在性のことを言い、この実在性には大小の差異がある、とされます。

注*: 野田又夫(編)『世界の名著 デカルト』中央公論社1967所収の『省察』のページ付け。以下同じ。

注**: デカルトは、観念を知性の作用と解することも、また知性の作用が表現する事柄と解することもできると言います(番外編2の32:1281, 1282)。ものの像である観念は、後者に該当します。

1392.  一般に、記号体系は、記号(意味するもの)と、指示対象(意味されるもの)と、記号と指示対象の結びつきを決める意味論の規則がそろわないと、機能しません。検討中の「省察三」の議論では、今のところ確実に存在すると言えるものは、考える私だけです。すると、「考える私というたったひとつの実体しか存在しない世界では、観念は私を表すか、私のさまざまな思考を表すか、どちらか」(番外編2の33:1376)ということになる。この、意味されるものが極度に貧弱な世界で、観念相互の表現的実在性の区別をどうやって作り出すか。これがデカルトにとって問題になったと考えられます。

1393.  というのも、デカルトの第一の神の存在証明にとって大事なのは、さまざまな観念の表現的実在性には大きさの違いがあって、ある観念の表現的実在性は別の観念のそれより大きいとか小さいといった比較が成り立つことだからです。これは、神の観念の表現的実在性はきわめて大きくて、私がそれを作り出したとは考えられないがゆえに、神は存在する、という結論を導くためです。

1394.  前回、やや立ち入って述べたように(番外編2の33:1374~1381)、考える私だけが存在する貧弱な世界では、実体と属性という論理的範疇を意味論の枠組みに利用することが、観念の表現的実在性に大小の差異を与えるために有効だった。その意味で、アリストテレス由来の実体と属性という論理的・存在論的な枠組みは、デカルトにとって不可欠なものになっています。

1395.  これはすこし意外なことです。というのもデカルトは、メルセンヌ宛の書簡(1641年1月28日付)*の中で、『省察』が自分の自然哲学**の基礎のすべてを含んでいて、それはアリストテレスの諸原理を無効にするものであると語っているからです。

注*: この書簡のことは、小林道夫『デカルトの自然哲学』岩波書店(1996)p.3の記述で知りました。宛先のマラン・メルセンヌ(Marin Mersenne, 1588-1648)はデカルトの友人の神学者兼数学者。多数の学者との書簡のやり取りを通じて17世紀前半の学術交流の中心となった人物です。この書簡は、シャルル・アダンとポール・タヌリ編集のデカルト全集(Oeuvres de Descartes, publiées par Ch. Adam et P. Tannery, Paris, 1897-1909, réédition Vrin-C.N.R.S., 11vols, 1964-1974)の、第3巻のpp.292-298に収録されています。また、抜粋の英語訳が、コティンガム他の編集・翻訳による全3巻のデカルト著作集(The Philosophical Writings of Descartes, translated by J. Cottingham et als., Cambridge University Press, 1991-1995)の第3巻pp.171-173にあります。なお、近年デカルト全書簡集の邦訳が刊行されているので、そこにも収録されているはずですが、私は未見です。

注**: 書簡の中でデカルトは「physique」(英語 physics)と書いています。現代的に訳せば「物理学」ですが、17世紀の場合、これは「自然哲学」と呼ぶのがよいようです。理論物理学は自然哲学 natural philosophyであると解されていました。例えば、ニュートンの物理学体系を述べた著作は『自然哲学の数学的諸原理』(Philosophiæ Naturalis Principia Mathematica, 1688)です。

1396.  前回にも述べたとおり(番外編2の33:1330)、デカルトはスコラ哲学一般を酷評しましたが、実体と属性という言葉遣いは排除しません。私とは考えるものであり、考える私という実体の本質は考えるということに存する、と述べている。だから、表現的実在性の導入のためにこの論理的範疇を使用したからといって、デカルトが自分の思考の中に異物を取り込んだとは言えない。しかし、神の存在証明のかなめのところでアリストテレス-スコラ的な論理的範疇が不可欠のものとなっていることは、やはり注目すべきことだと思われます。

1397.  デカルトの新しい自然哲学は、神の意志と善性に基礎を置いている(番外編2の33:1333)。しかし、神の存在を証明するときには、古代中世以来のアリストテレス-スコラ学の諸概念が活躍する。今回は、実体と属性の概念に加えて、スコラ哲学の古代中世的な原因と結果の論理が神の存在証明に大々的に適用されていることを確認します。

因果性と神の存在証明

1398.  デカルトは、観念の表現的実在性を導入したすぐ後に、次の引用にあるように、原因と結果についての一般的な議論に取りかかります。ちょっと長いのですが、下の引用文を通読してみてください。おおまかな趣旨はすぐに解説します。一読、朦朧として分かりにくいはずです。分かりにくいのは、私たちが普通に考えている原因と結果の関係とはかなり違う内容が、あたかも自明であるかのように語られているからです。ちょっと我慢して読み通してみてください。

「ところでいま、作用的かつ全体的な原因のうちには、少なくとも、この原因の結果のうちにあると同等のものがなくてはならぬということは、自然の光によって明白である。なぜかというに、結果は、その原因からでなければ、いったいどこから自分の実在性を引き出すことができるであろうか。また原因は、みずからが実在性を有するのでなければ、どうしてそれを結果に与えることができるであろうか。こうして、無からは何ものも生じえないということばかりでなく、より完全なもの、いいかえると、より多くの実在性をそれ自身のうちに含むものは、より不完全なもの〔より少ない実在性をもつもの―引用者補足〕からは生じえない、ということも帰結するのである。」(『省察』「省察三」p.261)

1399.  妙に抽象的で、雲をつかむような感じがします。細かな語句の解釈はおいて、ざっと読むと、全体としては以下のようなことが言われている。

〈原因のうちには、結果と同等以上のものがある。なぜなら、結果は原因から実在性を引き出し、原因は結果に実在性を与えるからだ。無からは何も生じないが、それだけでなく、より多くの実在性をもつものは、より少ない実在性をもつものからは生じない。〉

引用文を骨組みだけにすると、こんな感じです。言葉のうわつらは分かるけれど、納得は行かない、ちんぷんかんぷんだ、そんな感じではないでしょうか。

1400.  まず冒頭の、原因のうちにあるものは結果と同等以上でなくてはならない、とはどういうことか。これは「なぜかというに」以下ですぐ説明されます。原因が結果と同等以上であるべき理由として、結果は原因から実在性を引き出す、あるいは、原因は結果に実在性を与える、ということが挙げられている。残念ながらピンと来ない。

1401.  というのも、現代の私たちは、因果性を、原因と結果の間での「実在性」つまり〝在る〟ということの〝やりもらいの関係〟であるとは見ていないからです。ウィルスが病気を引き起こすとき、ウィルスが病気に〝実在性〟を与える、というのはおよそ無内容な言い換えにすぎない。「病気に罹る」と言えば済むことを、持って回って言っただけです。因果性は、ウィルスと身体の相互作用のメカニズムに存する。ウィルスが病気に〝在る〟を与え、病気が〝在る〟をもらうということには存しない。そういうわけで、デカルトが何を考えているのか分からないのです。

1402.  で、ここはひとまず措いて、「無からは何も生じない」と「より多くの実在性を……」のところを考えましょう。こちらは見た感じより、はるかに理解しやすいことが書いてあります。いま仮に実在性の大小を数値で表すことにして、9の実在性をもつ原因から、10の実在性をもつ結果が生まれたとします。すると、+1の増加分は、原因の中には無かったのに、結果として生じたことになる。これは無から生じるのと同じだから、あり得ない。こういう理屈になっている。

1403.  この理屈から、引用文全体の分かりにくさの根本的なところが浮かび上がってきます。デカルトは、因果関係を、「在る」ということ、つまり実在性のやりもらい関係であると見ている。表現的実在性の議論で見たように、「在る」は大小の比較が可能だとされている。そして、「在る」ことにおいて小である原因から、「在る」ことにおいて大である結果が生まれることはない。仮にそうなっていたら、「在る」の増加分は、始めは無かったのに後で突然生じたことになる。これは無から生じるということで、あり得ない。それゆえに、原因は、少なくとも結果のうちの「在る」ことと同等以上の「在る」をもっていなければならない。デカルトは、こういう理屈を、あたかも自明であるかのようにくりひろげていたわけです。

1404.  この理屈は、以下のような事情で必要だった。神の観念はきわめて大きな表現的実在性をもつから、私のように小さな実在性しか持たないものから生まれることはない、デカルトはこの主張を導きたい。今のところ、考える私しか存在しない世界を考えている。だから、神の観念が私からは生まれ得ないなら、それを生み出した原因は観念の表現的実在性に見合った大きな実在性を備えているところの存在、すなわち、神そのものだ、ということになる。ここへもって行くために、「在る」のやりもらい関係としての原因と結果の関係を論じ始めたわけです。

1405.  ねらいは分かりますが、ちょっとのみ込みにくい。そもそも、原因が結果に実在性を与えるとか、結果が原因から実在性を引き出すというのは、どういうことか。このことは、議論のかなめですが、茫漠としてとらえがたいと感じられます。というわけで、議論の細部を見ていくことにします。

デカルトの因果性理解の歴史的背景

1406.  上の引用文のなかには、いくつか解説が必要な文言があります。出てくる順に並べると、以下の三つです。

(ア)「作用的かつ全体的な原因」とはなにか。
(イ)「自然の光によって」とはどういうことか。
(ウ)「無からは何ものも生じえない」とはどういうことか。

1407.  順番を入れ換えて、簡単なものから解説します。(イ)の「自然の光によって」(by the natural light)*という表現は、プラトン(前427-前347)、プロティノス(新プラトン派)(205-270)、アウグスティヌス(354-430)らも用いている伝統的な言い回しらしい。デカルトの言葉遣いとしては、「自然な理性によって」(by the natural reason)、つまり、理性の直観力によって、というのと同じことです。

注*: 西洋哲学の専門語の邦訳について、元の言葉を示すときは。基本的に英語を表記します。デカルト等からの引用でも、特に必要がない限り、同じようにします。

1408.  たびたびお世話になっているコティンガムの『デカルト辞典』によれば、デカルトの場合、「直観」(intuition)とは、感覚や想像力に惑わされずに、精神が注意を集中して明晰に理解することを意味している。三角形は三つの辺で囲まれている(bounded)とか、球は一つの表面で囲まれている、といったことが例に挙げられる。この場合、感覚に惑わされないというのは、おそらく、たとえば三角形を作図するとき定規がちょっとずれて、ひとつの頂点で辺がちゃんとつながっていないとしても(つまり、〝囲まれて〟いないとしても)、それは作図に失敗しているだけで、三角形の観念そのものは三つの辺で囲まれた形であることが明晰に理解できる、といったことでしょう。

1409.  「自然の光によって」明らかとは、『省察』で多用される言い回しですが、要するに、直観的に自明である、ということです。たしかに、幾何学の初歩的な命題などは直観的に自明であるといってよい。しかし、上の引用箇所で、「自然の光によって」明らかと言われているのは、そういう命題ではありません。「原因のうちには、少なくとも、この原因の結果のうちにあると同等のものがなくてはならぬということ」(上掲)だった。これは自明にはほど遠い。現に私は、なんのこっちゃ、と思った。因果性のとらえ方が変われば、当然、こういった命題は直観的に自明ではなくなります。

1410.  というわけで、数学や論理学のかんたんな命題の場合は問題ないけれど、形而上学的な論点でデカルトが「自然の光によって明らか」と言い始めたら、注意した方がいい。自分の議論に都合のいい論点を無理やり押し通すつもりなんじゃないか、と疑う方が賢明です。逆に言えば、そこにデカルトが是が非でも必要としている主張がある。「原因のうちには、少なくとも、この原因の結果のうちにあると同等のものがなくてはならぬ」はそういう主張です。神の存在証明のための補助定理のような役割を果たします。

1411.  次に、(ア)の「作用的かつ全体的な原因」(the efficient and total cause)について。この表現の背後には、まずは、アリストテレスの四原因論として知られる理論があります。もうひとつ、神をすべての原因と見る考え方があります。こちらはプラトンと新プラトン派の考え方がキリスト教に流れ込んで形成されたものです。順に解説します。

1412.  まず、アリストテレスから。アリストテレスは、原因には四つの種類があると考えました。質料因、形相因、作用因、目的因の四つです。
 質料因(material cause)とは、「その事物がそれから生成する(できあがる)ところのもの」*を言います。ある事物の素材・材料が質料因と呼ばれる。アリストテレスは、銅像に対しては青銅が質料因である、と言っています。おおまかに、金属ということもできる、と付け加えたりする。質料因にかぎらず、一般に原因は、広くも狭くも、さまざまに特定することが可能です。。

注*: アリストテレス『自然学』194b25(『世界の名著 ギリシアの科学』所収、藤沢令夫訳)

1413.  形相因(formal cause)とは、「その事物が「本来的になんであるか」(本質)を示す定義」*のことを言います。例えば、1オクターヴに対して「1対2」という数値の比が形相因となる。ちょっと分かりにくいのですが、これがアリストテレスの挙げる例です。長さが1の弦に対して、その2倍の長さをもつ弦は、1オクターヴ低い音を発する。音は1対2の比という本質(形相 form)のゆえに1オクターヴを構成する。この〝のゆえに〟を1オクターヴの原因としてとらえるわけです。

注*: アリストテレス『自然学』194b27(上掲、藤沢令夫訳)

1414.  作用因(efficient cause)とは、「運動変化あるいは静止が最初にそこからはじまるところの始原」*のことを言います。子供に対する父親とか、ある行為に対するその行為を勧告した人などが、例に挙がっている。運動や変化を引き起こす始まりになっている作用者を原因と呼ぶ。子供に対しては、父親だけでなく母親も作用因と思われますが、作用者を原因と呼ぶのはわかります。

注* アリストテレス『自然学』194b30(上掲、藤沢令夫訳)

1415.  目的因(final cause)とは、「〈それのために〉の意味をもつもの」*を言います。散歩するのは健康のためであるというとき、健康は散歩の目的因となります。

注*: アリストテレス『自然学』194b33(上掲、藤沢令夫訳)

1416.  デカルトは、上の引用箇所で四原因のうちから作用因だけを抜き出して言及したことになります。彼は質料因については、全著作のなかでほとんど何も言っていないらしい*。デカルトが若いころに学んだ同時代のスコラ学者のエウスタキウス・ア・サンクト・パウロ(Eustachius a Sancto Paulo)なる人物は、作用因の考え方は質料にも形相にも適用でき、作用因は質料に潜んでいる形相(特性)を引き出す働きとしてとらえうる、と述べているとのことです**。こういうとらえ方が当時一般的であったとすると、デカルトも、質料因は作用因の働きに吸収されると考えていたのかもしれません。

注*: Clatterbaugh, Kenneth. The Causation Debate in Modern Philosophy : 1637-1739. London: Routledge, 1999. p.19.

注**: Cottingham, John. A Descartes Dictionary. Oxford: Blackwell, 1993. p.25

1417.  形相因は、実体には本質(即ち、形相 form)があり、本質によってそのものはそのものとなっている、という考え方にもとづいている。つまり、実体はその形相のゆえにそのものとなっている。この〝のゆえに〟を因果性と見なすと、形相は原因の一種となるわけです。これは、スコラ哲学的な存在論の根本を形づくる概念です。そして、デカルトはこういう考え方は自然を探究する上で不必要だと考えていました*。

注*: 例えば、1642年1月のレギウス宛書簡。Clatterbaugh 1999, p.19に引用があります。デカルトの自然哲学における因果性理解については、次回以降、述べる機会があると思います。

1418.  目的因について、デカルトは、「目的という観点から引き出されるのをつねとする原因の類の全体は、自然的事物においてはなんの役にもたたぬ」(『省察』「省察四」上掲書[1391参照]p.275)と明言します。というのも、「私が神の目的を詮索しうるなどと考えるのは思い上がりもはなはだしい」からです。

1419.  以上のとおり、形相因は不必要であり、目的因は人間には論ずる資格がない。さらに、質料因は作用の限定要因として作用因が包摂する。というわけで、結局、四原因のうちの作用因だけが言及されることになったわけです。

1420.  四原因のうち、現代人にとって原因と呼ぶことに違和感がないのは作用因だけでしょう。デカルトは、アリストテレスの説を離れて近代的な因果性の理解の方に移行しています。作用因は、あるものに作用して何らかの変化をもたらすもの、あるいはその活動のことをいう。私たちも、やはりこういうものや活動を原因と呼んでいると思います。

1421.  では、「作用的かつ全体的な原因」とあるなかの「全体的な原因」とはどういうことか。こちらは、プラトンと新プラトン派の考え方がキリスト教に流れ込んで形成された考え方であり、神をすべての原因とする因果性の概念です。プラトンからの系譜はさておいて、デカルトが「全体的な原因」という言葉を用いて神と被造物の関係を説明している箇所を引いておきます。

1422.  以下に引用するのは、1648年4月16日に行なわれたフランス・ビュルマン(Frans Burman, 1628-1679)という弱冠20歳の学生と52歳の晩年のデカルトとの対話の記録の一部です。全体は『ビュルマンとの対話』として知られているもの。デカルト全集(上掲[1395注*])に収録されています。デカルトが、死の2年前にみずからの哲学について詳しく語った貴重な記録とされます。ビュルマンは、デカルトの著作からの抜粋を多数携えてデカルトと会見し、ひとつひとつ質問していった。対話の直後に作成された筆記録には、著作のページと質問箇所の冒頭の数語が示され、ビュルマンの質問、デカルトの回答が並んで記されています。以下では、ビュルマンの質問がかかわる著作の一節をまるごと記載し、質問と回答を示します。

「質問箇所: 「神が私を創造したというただこのことからして、私がある意味で神の映像と似姿にかたどってつくられているということは、きわめて信じうることなのである。」(『省察』「省察三」p.271)

ビュルマン: しかし、神があなたを創造し、かつ、あなたを神自身の似姿としては創造しなかったということはあり得ないのか。

デカルト: それはない。結果は原因に似ているということは、よく知られた真なる公理である。神はまさに私の原因であり、私は神の結果のひとつである。それゆえ、私は神に似ているのである。

ビュルマン: しかし、建築家はある家の原因である。だからといって、家は建築家に似てはいない。

デカルト: いま語っている意味においては、建築家は家の原因ではない。建築家は能動的な作用を受動的なものに及ぼしただけである。だから、出来たものはその人に似ていなくてかまわない。この〔上の〕一節では、全体的な原因、すなわち存在そのものの原因について語っている。この原因はそれ自身に似ていないものを作り出すことはない。というのも、この原因〔神〕はそれ自身が存在であり実体であって、かつ無の状態からあるものを存在するようにする(無から作り出すことは神だけに属す)のであるから、作られたものは少なくとも存在であり実体であらねばならず、それゆえ、その限りで神に似ており、神の似姿なのである。」*

注*: 上記[1395注*]のアダン&タヌリ版全集第5巻 p.156のラテン語原文と、Cottingham, John. Descartes' Conversation with Burman. Tlanslated with introduction and commentary by John Cottingham. Oxford: Oxford University Press. 1976, p.17 の英語訳、さらにGoogle翻訳によるラテン語原文の英語訳、の三つを比較検討して、適宜日本語にしました。なお、『ビュルマンとの対話』は、白水社刊の『デカルト著作集 第4巻』に邦訳が収録されていますが、今回は参照できませんでした。

1423.  この箇所で、デカルトは「全体的な原因、すなわち存在そのものの原因(the total cause, the cause of being itself)」と語っています。「全体的な原因」とは、およそありとあらゆるものについて、それが存在すること自体の原因、という意味であるらしい。

1424.  神はモーゼにむかって「私はある、あるというものだ」((出エジプト記3.14))と名乗ります。神は存在そのものであり、それ自身以外のいかなるものにも依存しない真の実体*です。この世界は、それが在ることを神が意志したゆえに、存在し始めた。被造物はすべて神から存在を与えられ、一人の人間とか、一個の石という実体として存在する。存在であり実体であるという点で、被造物はすべて神の似姿ということになる。建築家が素材に作用して家を作るのとは違って、神が被造物を創造するのは、〝在る〟ことそのものを与え、実体として存立させることである。デカルトは、このように考えているようです。

注*: 実体を、それ自身以外のいかなるものにも依存しないもの、ととらえるのは、初期近代の西洋の哲学者の共通理解です。しかし、被造物はすべて神の創造したものですから、実体といえども神にだけは依存する。独り神のみが、いかなるものにも依存しない真の実体とされます。

1425.  イデアが真の実在であり、現実の事物はその不完全な写しであるというプラトンの考え方は、古代末期に、最高位の究極の存在から下界へ向かって順々に存在が流出し派生するという新プラトン派の思想に姿を変えます。そしてそれがキリスト教に取り入れられて、神がすべての被造物に存在を与えるという創造論になる。辞書的・教科書的にいうと、こういうことです。上の引用に続く箇所で、デカルトは、石でも神の似像となるのかとビュルマンに問われて、石ころのようなものでも、かすかで見極めがたい仕方においてであるが、神の似姿なのだ、と答えています。

1426.  「作用的かつ全体的な原因」というとき、デカルトは、二つのことを暗に述べているわけです。ひとつは、アリストテレスの四原因論を排して、作用するものだけを原因と見る考え方。この考え方は現代の私たちに通じています。もうひとつは、存在そのものを与えるという原因の考え方。先に(1401)、現代の私たちは、因果性を〝在る〟ということの〝やりもらいの関係〟とは見ていないと記しました。デカルトは、私たちと違って、まさに存在の〝やりもらいの関係〟と見ている。原因というものを、人間を含む個々の存在者(実体)すべての存在を根拠づける、という意味で理解している。これは、ギリシア哲学とキリスト教神学に由来する考え方で、非キリスト教文化圏に生まれ育った現代日本語人とは大きく違うところだと思います。

1427. もう少し大胆に言うと、デカルトはアリストテレスの自然学をしりぞけて、近代的な自然理解の方向に大きく歩みを進めた。因果性の理解においても、アリストテレス-スコラ的な考え方を棄て、もっぱら作用因を原因とみる近代的なとらえ方に立った。しかし、この世界が在ることそれ自体については、神の意志がそれを根拠づけるというキリスト教的な形而上学をはっきり前提している。近代の自然観、および世界観は、このキリスト教的な形而上学を引き継いだ。現在でも、それは根本的には変わっていない。こんな風に言えそうです。

1428.  次回は、1406の三つの問いのうち(ウ)「無からは何ものも生じえない」とはどういうことか、が残っているので、まずこの問いに答え、その後、神の存在証明の実質部分、つまり、神が存在するという結論を導く過程を検討します。

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