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西洋近代と日本語人 第2期[番外編2の21]


4.近代日本における懐疑論と個人主義(続き)

4.4 愛の思想について

4.4.3. エロース、ピリアー、アガペー

4.4.3.3. アガペー(愛)について

アガペーの原型

854.  前回は、アガペーの原型が、十字架上のイエスの死である、ということを見ました。罪を犯した人類を、罪の手から解放するために、「キリストを神は宥めの供え物として定めた」(ローマ3:25)*のでした。イエスの死は神の意志の定めたことだった。それは人間を罪から救済する意志であり、我が子の命を、罪の手に堕ちた人間たちを救い出すために、身代金(供え物)として差し出すことでした(2の20:839, 841)。

注*: 田川建三『新約聖書 訳と註 4 パウロ書簡 その二』(作品社2009)所収、「ローマにいる聖者たちへ」第3章9節。訳文は、以下すべて田川建三の訳によります。なお、新共同訳での表題は「ローマの信徒への手紙」。

855.  この意志は、父なる神ヤハウェ、ならびに、父と不可分である神の子イエスの、同じ一つの意志である。こう考えておきます。同じ一つの意志の下で、神自身が二つのあり方(父と子)に別れ、それぞれの役割を果たす。すなわち、父は子を犠牲として差し出す。父なる神のこの行為は、そのまま神の子イエスの自己犠牲となる(イエスは、同じ一つの意志の下で行動したのだから)。この神の自己犠牲によって、全人類が罪の手から解放されたのです。

856.  パウロがヘレニズム世界の人々に説いたイエスの死の物語は、大略こういうものでした。彼は、この一連の過程を、「神は我々に対するご自身の愛を確定して下さった。我々がまだ罪人であった時に、キリストが我々のために死んで下さったのである。」(ローマ5:8)とまとめています(2の20:840)。

アガペーとピリアー

857.  愛が、この一連の過程を動かしている力です。というのも、この過程は、人間にとっての善(罪からの解放)のために、神が、人間を含む世界全体に対して働きかける、という構造をもっているからです。自分にとっての善ではなく、相手方の善のために行為することは、愛の基本的な特徴といえます。

858.  先に、アリストテレスのピリアー論を紹介したとき(2の18)、ピリアー(友愛)とは、恋愛も商取引も含むような広い範囲の良好な人間関係を言うことを確認しました(2の18:735)。その良好な関係一般は、相手のために善を願う要素を必ず含むとされていた(同:747)。相手にとっての善を目的として行為することは、愛の、おそらく最も広い範囲に適用できる――つまり最小限の――特徴と考えられます。人間を罪から解放するための神の自己犠牲は、この意味で、愛のはたらきによるといってよい。

859.  他方で、神の愛は、人間全体を対象としており、人間は、アダムとエバの神への裏切り以来、罪に堕ちた存在なのでした。神の愛(アガペー)は、罪人のために善を願うものです。これは、ピリアー(友愛)ともエロースとも決定的に違うところです。

860.  ピリアー(友愛)もエロースも、その対象となるのは善いものです。ピリアーは、本来的には、二人の人間が、お互いに相手が善い人であるがゆえに好意を抱き、また相手のための善を願う、という関係でした(2の18:772, 778)。エロースは、自分に欠けている善美なるものを追い求める情熱です(2の17:710、2の20:850)。ピリアーやエロースとしての愛は、善いものを対象としている。

861.  これに対し、神の愛(アガペー)は、罪に堕ちた人類全体という〝悪くてダメで劣等な存在〟を対象としており、そういう存在にとっての善(罪からの解放)を目指しています。端的に言えば、神は、悪いものを愛するのです。善いものでなく、悪いものを愛するとは、どのような愛なのか。

862.  罪ある人のために行動するというのは、イエスの元々の姿勢でした。十字架上の死を説明するために、ヘレニズム世界の布教者が無理に作った教説ではありません。イエスは、自分は正しい人のためにではなく罪人のために来たのだ、とはっきり言っています。

「丈夫な者は医者を必要としない。病人が必要とするのである。私は義人を招くためでなく、罪人を招くために来たのだ」(マルコ2:17;並行記事 マタイ9:9-13.、ルカ5:27-32)

863.  この言葉が発せられたのは、パリサイ派の律法学者がイエスを非難したときです。イエスと弟子たちの一行は、当時忌むべきとされていた罪人や取税人とともに食事をしていた。それをパリサイ派が見とがめた。これに対して、イエスは、自分が来たのは、律法にそって善とされる人々のためにではない、むしろ悪とされる人々のためにこそ来たのだ、と返したわけです。ここにイエスの教えの特徴があります。

ニーグレン『アガペーとエロース』から

864.  アンダース・ニーグレン*は、著作『アガペーとエロース』のなかで、アガペーの思想を、ギリシア哲学のエロースの思想およびユダヤ教のノモス(律法)の思想と対比して、詳しく検討しています。そして、「私は義人を招くためでなく、罪人を招くために来た」(マルコ2:17)という一節を誤解すると、神の愛(アガペー)という概念が理解できなくなる、と指摘します。

注*: アンダース・ニーグレン(Anders Nygren, 1890-1978)はスウェーデンのルター派の聖職者・神学者です。『アガペーとエロース』は、スウェーデン語で書かれ、1930年から1936年にかけて刊行されました。

865.  よくある誤解は次のようにして生じます。「私は義人を招くためでなく、罪人を招くために来た」という言葉を読むと、人はえてして、「神の目から見て、義人よりも罪人を価値あるものにする何かが、罪人の性格の中に存在するのだろうか」(『アガペーとエロース Ⅰ』*p.40)と考えてしまう。そして、その「何か」を探し当てて、そのもののゆえに神は罪人を招き、罪人を愛するのだ、というように理解しようとする。

注*: アンダース・ニーグレン『アガペーとエロース Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ』(新教出版社 1954~1963)。この邦訳は神に敬語を多用するなど、やや文体が古いので、適宜英語版を参照して訳文を改めました。参照した英語版は、Anders Nygren, Agape and Eros, translated by Philip S. Watson. London: S. P. C. K., 1954 です。

866.  ニーグレンは、哲学者マックス・シェーラー(Max Scheler, 1878-1928)を例に挙げています。シェーラーは、悪を行うとき罪人は自分自身に対して悪を告白しているのだ、という説明を与えた(『アガペーとエロース Ⅰ』p.40)。シェーラーの説明はわかりにくいのですが、結局は、罪人は罪を犯したという自覚をより多くもつゆえに、罪を自覚せず自分の正しさに安住するいわゆる義人よりも価値があるのだ、という考え方のようです。

867.  ニーグレンによれば、シェーラーは根本的に誤っている。その誤りは、罪人が義人よりもなんらかの意味で優れているから神はこれを愛する、と決めてかかっているところにある。

「いかに罪人が実際に義人より優れているかを示す理由を見つけて、事態を説明することは、神の愛の意味を見失うことである。」(『アガペーとエロース Ⅰ』p.43)

868.  そもそも、神は優れた者を愛するのではない。すべてのものを愛するのだ。ニーグレンはそう断定します。

 「なぜ神は愛するのか。この問いに対しては、ただ一つの正しい答えしかない。それは、愛することが神の本性だからである。」(『アガペーとエロース Ⅰ』p.43)

「愛することが神の本性」であるから、神はあらゆるものを分けへだてなく愛する。義人も罪人も無差別に愛する。エロースやピリアーは、善いものや優れたものを愛することだが、アガペーはそうではない。すべてを愛するがゆえに、罪人を愛する。罪人がなんらかの意味で義人より優れているから愛するのではない。これが「神の愛の意味」なのです。

869.  無条件で無差別の神の愛(アガペー)という概念は、ニーグレンの理解では、キリスト教の愛の教えを規定する強力な原理として機能している。ユダヤ教以来の「主なる汝の神を愛すべし。また、おのれの如く汝の隣人を愛すべし」(ルカ10:27*)という教えは、アガペーの命令として理解されなければならない。また、「汝らの敵を愛し、汝らを迫害する者のために祈れ」(マタイ5:44**)というイエスの特異な教えは、アガペーの命令としてのみ理解できる。無差別の愛(アガペー)がキリスト教的な愛の原型であるからこそ、敵までも愛するという常識的にはありえない要請が生まれることになるわけです。

注*: 並行記事、マルコ12:30-31、マタイ22:37-39。
注**: 並行記事、ルカ6:27~36。

アガペーの四つの特性

870.  アガペーとはどのような特徴をもつ愛なのか、ニーグレンの言うところを要約して示します。

871.  第一に、アガペー(愛)は、自発的であり、外からの動機づけによらない。神の愛は、神自身の本性に由来するのであり、愛される対象の特性には関わりがない。神の愛はまったく自発的であり、「神が人間を愛するという場合には、人間がどういう存在であるかの判断が成り立つのではなくて、神がどういう存在であるかの判断が成り立つのである」(『アガペーとエロース Ⅰ』p.44) 平たくいえば、神が人間を愛するということから判明するのは、神が人間を愛するような存在であるということだけだ、人間が何らかの意味で優れた存在だということが判明するのではない、ということです。

872.  第二に、アガペー(愛)は、対象の価値に無関心である。このことは、第一の特徴の系とも見られますが、強調点がすこし異なります。すでに見たように、「私は義人を招くためでなく、罪人を招くために来た」(マルコ2:17)とイエスが言うとき、その意味は、罪人の方が義人より優れているということではなかった。イエスは価値のたんなる転倒を意図しているのではない。そうではなくて、価値づけという発想そのものの放棄を意図している。イエスの言葉は、「神との結びつきにおいては、いかなる価値づけの思念も介在しない」*(『アガペーとエロース Ⅰ』p.45)ということを意味しているのです。「父はその太陽を悪しき者にも善き者にも昇らせ、義人にも不義なる者にも雨を降らせ給う」(マタイ5:45)のだから、神の愛(アガペー)は、対象の価値に無関係に与えられている。その意味で、「アガペーとは何であるかをわれわれが理解できるのは、愛の対象の価値という考え方を捨てたときだけ」(『アガペーとエロース Ⅰ』p.46)なのです。

注*: この一節は、行論の都合上、英語版の77ページから訳出しました。邦訳では「人間の価値と功績の観念が全く消え失せる」となっています。なお、今回本稿のために邦訳を見て、邦訳の第1巻が英語版とは章立ても違い、文章も縮約されていることに気づきました。邦訳第1巻(1954年刊)は、英語の完訳版(同じく1954年刊)ではなく、1930年代に第1巻のみ出版された A. G. Herbert 訳の縮約版に基づいているのかもしれません。A. G. Herbert 訳については、1954年の英語版の著者前書きで、ニーグレンが「いくらか縮約されている(somewhat abridged)」と言っています。なお、邦訳は、表題頁の裏に、スウェーデン語ではなく英語の題名を掲げていますが、私の見た限りで、原典の明記はありません。

873.  第三に、アガペー(愛)は、創造的である。そもそも神は対象に価値があるから愛するのではない。このことはすでに述べられました。ニーグレンによれば、むしろ逆に、神が愛することを通じて対象に価値が創造されるのです。この特徴づけは、創造主としての神というユダヤ-キリスト教的な概念に強く依拠しているので、いくらか呑み込みにくいものです。「アガペーは神的な愛であって、それゆえ、神の在り方すべての特徴である創造性を分けもっている。」* そして、そのゆえに「アガペーは創造する愛である」*とされます。

注*: この一節も、英語版78ページから。邦訳では、「われわれが考えている愛は神の愛であるし、神は創造主である」(『アガペーとエロース Ⅰ』p.46)とのみあります。

874.  愛が創造的といわれると、卑近な例では〝あばたもえくぼ〟なんていうことばも思い浮かびます。この俚諺を神の愛の創造性に当てはめるのは的外れですが、ではどういうことなのかと考えてみても、よくわからない。実のところ、ニーグレンは、愛の対象に価値が生まれるという肯定的・積極的な側面に関心があって、アガペーの創造性を重視しているわけではないようです。むしろ、神に愛される以前には人間に価値があるとは言えないのだ、という否定的・消極的な側面に重点がある。特に、人間の魂になにか特別の価値があると思ってはいけない、と戒めています。この視点から、リッチュルとかハルナックとか、19世紀の神学者を批判します。アガペーが創造的であるというのは、さしあたり、神は善いものや優れたものを愛するのではないということを、別の角度から言おうとしている、と理解しておけばよいようです。

875.  第四に、アガペーは、神と人との交わりの道を開く。すでに述べた通り、神の愛は、自発的であって、外からの動機付けに左右されず、対象の価値には無関心です。ここから帰結するのは、義人が正義の行いに努めたからといって神との交わりが可能になるわけではないし、罪人が悔い改めたからといって神との交わりが可能になるわけではない、ということです。人が何かをすることによって、人と神の結びつきが成立するわけではない。神が人を愛することによってのみ、いいかえれば、神が人の許に来ることによってのみ、神と人との交わりは可能になる。「人間の側から神に到達する道はない」(『アガペーとエロース Ⅰ』p.49)のです。神と人との関係において、キリスト教は、一貫して神中心的(theocentric)であって、自己中心的(egocentric)ではない、とニーグレンは強調します(『アガペーとエロース Ⅰ』p.17)

アガペーと愛の命令

876.  アガペー(愛)が上の四つの特徴を備えており、それがキリスト教的な愛の原型であるとすると、「主なる汝の神を愛すべし。また、おのれの如く汝の隣人を愛すべし」(ルカ10:27)という命令は、どのようにして実行されることになるのか。この問題は、次回に論ずる予定ですが、概略を述べておきます。

877.  アガペーの第三と第四の特徴は、神のアガペーだけに当てはまる特徴なので、人間の愛を考える場合は度外視してよいでしょう。すると、(1)自発的に、外からの動機づけに拠らず、(2)対象の価値に無関心に、神を愛し、隣人を愛する、ということが命じられていることになります。この命令を実行するとは、何をどうすることなのか。

878.  人が神を愛する場合、人がその愛の対象の価値、つまり神の価値に無関心であることは事実上できないと思います。だから(2)は無理な要求で、充足できるとは思われません。しかし、(1)の、外からの動機づけなしに、自発的に神を愛するという要求は、それ自体として直ちに無理であるようには見えません。いったい、この要求を充足するためにはどうすればよいのか。

879.  イエスの自己犠牲によって人は原罪から解放された。これは、キリスト教のカナメの教理です。だが、解放してくれてありがとう、というお礼の気持ちで神を愛するというのは、外からの動機づけが明らかにあるわけで、純粋に自発的な愛ではない。このような愛は、恩顧をこうむったお返しでしかありません。では、人は神をどうやって愛すれば、アガペーとしての愛を実践したことになるのか。これは、かなり厄介な問題になる。これは次回に論じます。

880.  隣人が愛の対象となる場合、対象の価値に無関心であるという条件は、相手が敵であっても愛する、ということによって充足されます。というのも、敵とは害をなす相手ですから、敵は憎しみを私たちのなかに生む。にもかかわらず敵を愛するのならば、この愛は、相手のこれまでのやり方(負の価値)には無関心に、また、憎しみを生む外からの動機づけを否定して、まさに内からの自発性としてのみ相手を愛する、という形式になるでしょう。したがって、隣人をアガペー的な愛によって愛することは、典型的には、「汝らの敵を愛し、汝らを迫害する者のために祈れ」(マタイ5:44)という命令を実行することによって自動的に成り立つわけです。

881.  相手が敵であっても愛するというアガペーの要請は、西洋のキリスト教文明社会における愛のあり方に、エロースやピリアーとは根本的に違う何かを付け加えたと思われます。それが何なのか、ということは、次回以降で考えて行くつもりです。そして、本居宣長の「物のあわれを知る」という愛の思想と、西洋文明における愛の思想との違いは、アガペーの要請が生み出したものが何なのかを正確にとらえることを通じて、明瞭に浮かび上がると期待されます。

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