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勇敢な人々に涙することについて ――ウクライナと私たち―― (西洋近代と日本語人 番外編1)

Ⅰ はじめに

1. ロシアのウクライナ侵略戦争が始まった。ウクライナの多くの一般市民がそれぞれの持ち場で命懸けで戦っている。このニュース動画https://www.youtube.com/watch?v=3uYiXeOOJ5k の1分10秒あたり、家族とともにポーランドへ避難する幼い少年が、涙をこらえながら、父さんはキーウ(キエフ)に残って軍に物資を売るんだ、父さんも戦うのかもしれない、と語っている。こういう物語が無数に生れているにちがいない。それを見聞きすると、私たちの目にも涙が浮かぶ。

2. こういう情景とその背後の物語に私たちは圧倒される。理不尽な侵略に反撃する人々に涙し、かれらを讃える。しかし、どうもそれだけではない。私のなかには、いらだたしさのような、疚しさのような、なにか奇妙な、居心地のわるい、落ち着かない感じがある。

3. 第三次世界大戦へ向かうんじゃないか、という不安はもちろんある。だが、私を落ち着かない気持ちにさせるのは、その不安ではない。プーチン大統領に対する反感もあるが、それでもない。

4. むしろ、なんとかならないのか!という怒りのようなもの。こんなことが起らないようにしておけなかったのか、という後悔のような、無力感のようなもの。あるいは、対象のはっきりしない焦燥感のようなもの。これは自責の念にやや近いかもしれない。こういう感じがなぜ生まれてくるのかについて書く。

Ⅱ 勇敢な人々と私たちの関係

5. ウクライナの人々の勇敢な戦いは、人々の数だけの自己犠牲の物語を含んでいる。私たちは、犠牲となる人々のために涙し、恩義を感じ、かれらを讃える。そして、かれらが生命を懸けて戦うのと引き換えに、一時の平和を享受する。

6. 私たち、即ち侵略の被害の当事者でなく、かつ、プーチンを支持しないすべての人間は、ウクライナ市民とウクライナ兵の失われる生命と引き換えに、ある利益を得ている。侵略的な大国によって自分の日常生活を破壊されない、または、破壊をしばらくさき延ばしできるという利益。私たちは、こうして自分の生存率を高めている。この仕組みは、いけにえを捧げて神々から恩恵を受け取る仕組みとよく似ている。

7. ウクライナ市民と連帯し、かれらの覚悟に涙を流すとき、私たちは、かれらの犠牲によって、しばらくのあいだ大国間の権力闘争から我が身を遠ざけ、安全を確保できることを知っている。自覚していてもいなくても、そういう恩恵が得られることを私たちが知っているのは間違いない。

Ⅲ 犠牲の論理

8. アンリ・ユベールとマルセル・モースは、犠牲に関する古典的な研究でこう言っている。

 「犠牲を奉納する者は、自分に属する何かを与えるのだが、自分自身を与えてしまうのではない。その者は用心深く自分自身を脇に除けておく。というのも、その者が与えるのは、ある程度は受け取るためだからである。」(モース/ユベール1983*, 107)

注*: マルセル・モース/アンリ・ユベール(1983)『供犠』古関藤一郎訳、法政大学出版会。なお訳文は改めた。原論文の初出は1899年。(原著“Essai sur la nature et la fonction du sacrifice.” Mauss, Marcel. (1968). Œuvres, I: Le fonction sociales du sacré. Paris: Les Editions du Minuit. 193-307. 英語訳:Hubert, H. and Mauss, M. (1964). Sacrifice: Its Nature and Function. Translated by W. D. Halls. London: Cohen & West.)

9. 「犠牲を奉納する者(sacrifian)」とは、いけにえとなる者と、いけにえを差し出す者たちを合わせた一個の共同体を指している。たとえば、いけにえが一匹の山羊であり、いけにえを差し出す者は、その山羊の所有者及びその一族であるとしよう。このとき、「犠牲を奉納する者」は、山羊とその一族を合わせた共同体である。山羊は、その共同体全体の身代わりとして、神々に差し出される。その見返りとして、共同体の繁栄や罪の赦しといった恩恵が得られる。

10. 現在のウクライナ侵略戦争に当てはめると、いけにえ(犠牲者)となっているのは前線のウクライナ兵や戦火の下のウクライナ市民である。いけにえを差し出しているのは、それ以外の反プーチンで結集した人々、NATO諸国やその友好国の市民、つまり私でありあなたである。

11. したがって、「犠牲を奉納する者(sacrifian)」は、当事者のウクライナ人たちを含む反プーチンに結集した人々すべてからなる一個の〝幻想の共同体〟である。一匹の山羊が一族の身代わりとなるのと同様に、ウクライナの人々は、この共同体全体の身代わりなって、いけにえを要求する現代世界の権力構造に差し出されている。そしてその見返りとして、この共同体は一時の安全という恩恵を得る。

12. 身代わりを立てることで、この幻想の共同体は「用心深く自分自身を脇に除けて」おくのだ。崇高な犠牲の物語は、この共同体と現代の国際的権力構造との取り引きの上に成り立っている。

Ⅳ 感動という目くらまし

13. 2年ほど前、糸井重里(@itoi_shigesato)はツイッタ上で、映画『Fukushima50』について、以下のような感想を述べた。

 「戦争映画や、時代劇だと「いのちを捧げて」やらねばならないことがでてくる。いまの時代は「いのち」は無条件に守られるべきものとされるから、「いのちを捧げる覚悟」は描きにくい。映画『Fukushima50』は、事実としてそういう場面があったので、それを描いている。約2時間ぼくは泣きっぱなしだった。」(2020年3月7日午前1:03)

14. このツイートを引用して、私(tetsujin@chikurin_8th)はこう述べた。

 「「いのちを捧げる」ことに感動する時、人は「本人は死にたくない」のを前提している。なぜなら「死にたくて死ぬ」のでなく「死にたくないのに死ぬ」からこそ感動が生まれるのだから。この時、人は「死にたくないのに死なせる力」を自覚せず承認する。感動の裏に権力への自覚なき追従がある。」(2020年3月9日午後10:18)

 このツイートは、813の「いいね」と442の「リツイート」を生んだ。私としては異例に多い。人々は、いのちを捧げることへの感動の背後にあるひそかな取り引きを感じとっているようだ。

15. いのちを捧げる覚悟に感動して泣くとき、私たちは、感動に揺り動かされるあまり、その背後にある「死にたくないのに死なせる力」を意識できなくなってしまう。たとえば、特攻隊員の遺書を読むと、悲壮な覚悟に感動すればするほど、若者を追い詰めて死なせた当時の権力の醜悪と残酷には意識が向かなくなる。死を決意する覚悟の衝撃に目がくらんで、背後の権力を不問にしてしまう。この「権力への自覚なき追従」を立ち入って分析する必要がある。

Ⅴ 第一と第二の「死なせる力」

16. 私たちが自覚なく付き従ってしまう「権力」とは、いまの場合、いったい何で、どのように存在しているのか。まず、それを考えてみる。

17. ウクライナの人々は、今まさに、「死にたくないのに死なせる力」としての権力に直面している。その力は、第一に、もちろんプーチンの意志、そして彼の意志によって動くロシア軍である。だが、もうひとつ、第二に、徹底抗戦を呼びかけるウクライナ人の総意、即ちウクライナの国家意志もまた、ウクライナの人々にとって、みずからは死にたくないのにみずからを死なせる力となっている。

18. 第一の力については、異論はないだろう。プーチン支持派は、この力は「死にたくないのに死なせる力」ではなく、「死すべき者たちを死なせる」力であると言いたいだろう。だが、これは描写についての異論にすぎない。力は実在する。

19. 第二の力についても、異論はないと思う。ウクライナのひとりの個人にとって、徹底抗戦は〝我々〟の意志である。しかしまた、その人自身において、この戦乱を生き延びたいという気持ちは〝私〟の意志として存在する。〝私〟と〝我々〟のあいだには不一致がある。祖国のためにいのちを捧げたいと思っていることがまぎれもなく真実だと仮定しても、生きている身体としての自分(〝私〟)と共同体の成員としての自分(〝我々〟)のあいだに不一致があることも真実である。

20. 正義を守るために〝我々〟が戦争をすることは理にかなっている、という意見に同意することは、自分自身が戦場に赴くのでないかぎり、そう難しくはない。だが、自分が戦場に赴くことになれば、一転して、この意見は強制として意識されるだろう。〝我々〟は、このとき〝私〟に対して外から降りかかる力となる。〝我々〟にとって理にかなっているということと、〝私〟にとって理にかなっているということとは、しばしば違うことである。〝私〟と〝我々〟のあいだに不一致があることは、人間にとってどうしようもない事実である。

21. 別の角度からもう少し説明する。こちらの方が分りやすいかもしれない。いのちを捧げる者も生き延びたいと思っている。このことは、「自己犠牲」や「殉教」といった言葉の意味において、つまり日常語の論理において、常に成り立つ。この点を、私は、上のツイートで、

「「いのちを捧げる」ことに感動する時、人は「本人は死にたくない」のを前提している」

と指摘した。大義のためにいのちを捧げる人に感動するのは、その人自身は少しも死にたくなんかないということが、私たちにわかっているからなのである。

22. 「いのちを捧げる」とか「自己犠牲」とか「殉教」といった言葉を聞けば、人は自動的に、「本人は死にたくない」ことを意味理解のうえで前提する。この前提は感動の必要条件である。かくして〝我々〟の大義と〝私〟の願いには、不一致がある。この不一致は、「自己犠牲」という言葉を理解するすべての人が知っている。

23. こうして、ウクライナの国家意志もまた、ウクライナの個々の人にとって、本人は死にたくないのにその人を死なせる力なのである。

Ⅵ 第三の「死なせる力」

24. 「死にたくないのに死なせる力」は、第一と第二ですべてではない。第三に、ウクライナの人々に味方し、反プーチンで一致団結しはじめた私たちもまた、ウクライナの人々にとって、本人は死にたくないのにその人を死なせる力を生み出している。

25. この点については説明が必要かもしれない。自分はウクライナの人々を死なせる力を行使してなどいないと反論したい人がいるだろう。たしかに、私たちはウクライナの人々を死なせようと思ってはいない。むしろ生き延びて欲しいと思っている。だから、この反論は一応成り立つようにみえる。だが、それはちがう。別の例と対比して考えてみると分かるだろう。

26. 過去2年余りのパンデミック下で、私たちは医療従事者の貢献に感動し、感謝した。かれらは、次々に運び込まれる新型コロナ性肺炎の患者のため、みずから罹患する危険を顧みず、自分の職務を果たし続けた。当初、疾患の詳細は不明であり、最前線の人々は文字どおり命懸けだった。そこには自分の安全をなげうって患者のために尽力する自己犠牲があった。

27. 医師や看護師の存在をまるごと「いけにえ」と呼ぶのは無理がある。だが、かれらの存在の一部、その身の安全や個人生活の平穏は犠牲になったということができる。だから、〈医療者に連帯し、かれらの献身的な行為に感動するとき、私たちは、かれらの犠牲によって、しばらくのあいだ新型コロナ性肺炎の危険から我が身を遠ざけ、安全を確保できることを知っていた〉といってよいだろう。

28. 上の〈…〉でくくった一文は、下に再掲する第7段落冒頭の文を少し変えたものだ。

「ウクライナ市民と連帯し、かれらの覚悟に涙を流すとき、私たちは、かれらの犠牲によって、しばらくのあいだ大国間の権力闘争から我が身を遠ざけ、安全を確保できることを知っている。」

29. 二つの文は、眼前で進行中の事態と私たちの間に成り立つ同じ関係を描き出している。どちらの文も、最前線に立つ人々への連帯があり、感動があり、犠牲があり、その犠牲によって私たちが危険を回避でき、安全が確保される。そして、この全体のありようが私たちにわかっている。文の表わす事柄の成り立ちは、ほとんど同じである。

30. だが、二つの文を理解するときの私たちの心理には違いがある(と、私は思う)。私は、医療者たちについての文に接すると、内容に同意し、感謝したい気持ちになる。ところが、ウクライナ市民についての文を読むと、内容に同意し、感謝したい気持ちになるだけでなく、同時に、かすかな疚しさを感じる。侵略者と戦うウクライナ市民に相対すると、我が身のいたらなさ、あるいは自責の念といったものが呼び起こされる。この感覚は、コロナ禍と戦う医療者に相対するときには生じない。

31. これは、なぜか。文が表わす事柄の成り立ちはほぼ同じなのに、なぜウクライナ市民についての文に対しては、自責の念が呼び起こされるのか。私の回答は、以下である。

32. 新型コロナウィルスの出現とそれが引き起こす大量死は、自然の暴威であり、死が発生する因果的な機構に、私たちが能動的に関与しているわけではない。これに対し、ロシアのウクライナ侵略とそれが引き起こす大量死は、人為の暴力であり、死が発生する因果的な機構に、私たちひとりひとりが多少とも能動的に関与している。

33. その結果、私たちは、人々を「死なせる力」に自分が能動的に関与した丁度その分だけ、ウクライナの人々の受苦について自分にも責任があると考えざるを得ない。戦火の下にある人々と引き比べて、自分の生活の安逸と平和が疚しく思われ、自責の念を感じる。だが、新型コロナ性疾患の猖獗は自分が能動的に関与するところではないので、医療者の苦労について感謝はしても、自分に責任があるとまでは感じない。

Ⅶ 権力への能動的関与

34. 二つの点について、説明が必要だろう。第一に、戦争という人為の暴力が発生する「因果的な機構」とは何か。第二に、そういう機構に私たちが「多少とも能動的に関与する」とはどういうことか。

35. 第一の点について。本ブログの「その11:3.308」で戦争の前提になる8つの条件を紹介した。これは人類学と考古学の知見から抽出された条件だから、現代世界の文脈に合わせて再解釈しないと、現代の戦争には当てはまらない。だが、例外的に、第5項「集団的なアイデンティティの分離を生む社会的分割」は、今回のウクライナとロシアの戦争に、ほぼそのまま当てはまる。

36. ドミートリー・メドヴェージェフ(ロシア安全保障会議副議長、元ロシア大統領)は、2021年10月13日付で駐日ロシア大使館のフェイスブックに翻訳・掲載された論文*で、大略以下のように述べている。すなわち、ウクライナ現政権の首脳陣はゆるぎないアイデンティティをもたない人々であり、ウクライナは外国による直接管理の下にある。したがって、彼らと関係をもつことは無意味であり、害悪でさえある。

注*: https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=2738005489679291&id=317708145042383

37. この意見の延長上に、次のような考え方がありうる。〝彼ら〟ウクライナ首脳陣はアイデンティティを失った傀儡であり、国民を誤った方向に導く存在である。だから、〝我々〟ロシアが〝彼ら〟からウクライナ人を救い出し、ウクライナに〝我々〟ロシアの一部としての真のアイデンティティを回復しなければならない。こうした考えは、たしかに開戦の理由の一部だったように見える。

38. 2022年2月24日の侵攻直前のプーチン大統領によるロシア国民向けの演説*には、反ロシアに向かう〝彼ら〟の手から、〝祖国であるロシア〟にウクライナを引き戻さねばならないという考えが見うけられる。

 「私たちと隣接する土地に、言っておくが、それは私たちの歴史的領土だ、そこに、私たちに敵対的な「反ロシア」が作られようとしている」*

 「2014年、……クリミアとセバストポリの住民は、自分たちの歴史的な祖国であるロシアと一緒になることを、自分たちで選択した。そして私たちはそれを支持した。」*

 「今のウクライナの領土に住むすべての人々、希望するすべての人々が、この権利、つまり、選択の権利を行使できるようにする」*

 プーチンの言葉からは、ウクライナの誤れるアイデンティティ認識を根絶し、ロシアとウクライナが再び一体となるために開戦する、という考え方を読み取ることができる。

注*: https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220304/k10013513641000.html

39. 今回の戦争の背後に、〝彼ら〟の手から、〝我々〟に属す領土および領民を取り戻すという、集団的なアイデンティティの問題があるのは、以上のメドヴェージェフとプーチンの言葉からあきらかである。

40. 国家が開戦の決断にいたるまでには、「物質的、社会的、象徴的な変数の莫大な重なり合い」(その11:3.310)がある。集団的なアイデンティティの問題は、戦争を引き起こす因果的機構の一部に過ぎない。しかし、今回の戦争を引き起こした因果的機構に、私たちが多少とも能動的に関与するのは、まさにこの問題を通じてである。能動的関与とはどういうことなのかを、この問題に沿って説明しよう。ここでウクライナ側のアイデンティティの言説がかかわってくる。

41. ウクライナのゼレンスキー大統領は、ロシア市民に向けてロシア語で語りかけた演説*において、英語字幕によれば、おおむね以下のようなことを語っている。字幕をかいつまんで訳すと、

 「……あなた方の指導者は、大軍勢が私たちに向かって進むことを裁可しました。この一歩はヨーロッパ大陸の巨大な戦争の始まりになるかもしれません。その火はすべて焼き尽くすかもしれません。
 あなた方はその炎がウクライナの人々に自由をもたらすと聞かされているでしょう。でも、ウクライナの人々はすでに自由なのです。ウクライナの人々は、自分の未来を建設しようとしています。私たちは、平和に、静かに、誠実に、自分自身の歴史をつくり上げたい。
 ここに私たちの土地があり、私たちの歴史があるのです。私たちは平和を望みます。私たちは平和と根本原理と正義を語ります。自分自身の未来を定義するすべての人の権利を問題にしているのです。安全に、威嚇されずに生きる権利について語りたいのです。誰かが私たちの国を、自由を、生命を奪おうとするなら、私たちは自分を防衛する意志があります。……」*

注* :https://www.youtube.com/watch?v=p-zilnPtZ2M

42. ゼレンスキーも、ウクライナの人々のアイデンティティを語っている。ウクライナに生きる人々は、みずからの土地と歴史の上に、平和と根本原理と正義を掲げ、自分たちの未来を自由につくり上げる、その権利のために戦うと告げている。

43. 私は、すべての人々が自分たちの土地と歴史にもとづき、平和と正義と自分たちの原理によって自分たちの未来をつくり上げる権利がある、という考え方に賛成する。そして、お前たちはこのような者だ、と外から他者のアイデンティティを暴力的に改変する考え方には賛成しない。私が(おそらく読者も)ウクライナ市民と連帯し、プーチンに反対するのは、集団のアイデンティティをめぐる言説において、ゼレンスキーおよびウクライナ市民と意見を同じくし、ロシアの首脳部とは意見を異にするからである。

44. これは、たんに何かについてたまたま意見が同じになったということではない。自分自身のアイデンティティのあり方について、志を同じくするということである。ウクライナの側に立ち、プーチンの側に立たないとは、自分がどういう存在としてどのように生きるかということに関し、自分の原理によって生きること(autonomy自分の立法、自律)を支持し、他者の原理によって生きること(heteronomy他者の立法、他律)を排斥することを意味している。

45. 対外的な、戦争と平和の権利、および、対内的な、立法と処罰の権利は、「共有の良きもの(Commonwealth)」としての国家の本質的な要素だった(その2:3.3、3.4)。自分たちの立法権にもとづいて平和と正義を実現することは、近代国家の存立目的なのである。私たちは、まがりなりにも日本国という近代国家を構成する一市民として、自己立法の原則(autonomy)を支持し、これを実現するように行動する。したがって、この原則を正面から否定する相手とは衝突せざるを得ない。

46. 集団のアイデンティティについての対立が、今回の戦争を引き起こした原因のひとつだった。自己立法の原則を支持し、これを否定する相手とは衝突するという私たちの立場は、この対立の一方を構成している。その意味で、私たちはこの戦争を引き起こした因果的機構に能動的に関与している。

47. このアイデンティティをめぐる対立は、時事的に言えば、民主主義的政治体制を奉ずる〝西側〟と、権威主義的政治体制をもつ〝東側〟の対立である。日本国は、まがりなりにも〝西側〟の一員として近代国家を営んでいる限りにおいて、〝東側〟との対立に能動的に関与してきた。大国間の権力抗争に、私たちは能動的に関与し、加担してきたのである。

48. その権力抗争がウクライナで火を噴き、ウクライナの人々は、いのちを懸けて、あるいは戦い、あるいは逃げなければならなくなった。人々を死なせる力の一部は、これまでの関与を通じて私たちが作りだしたものである。

Ⅷ むすび ――権力への追従を自覚する

49. 私たち自身が今回の戦争を引き起こした原因の一部をなしている。それゆえ、ウクライナの勇敢な市民たちに感動し、感謝するとき、私たちは、同時にかすかな自責の念を覚える結果になる。こんなことが起らないようにしておけなかったのか、という後悔のような、無力感のようなもの、あるいは、対象のはっきりしない焦燥感のようなものを覚える。

50. 勇敢な人々に涙するとき、私たちは、感動に目をくらまされて、しばし、人々に犠牲を強いる権力に、自分もまた能動的に関与してきた事実を忘れる。だが、私たちは自分が潔白ではないことをうすうす知っている。私たちは、勇敢な人々の犠牲の見返りを受け取る立場にいる。

51. いのちを捧げる決意に私たちが涙するのは、生き延びたいという〝私〟の水準の願いを当事者が抑え込み、いのちを捧げよという〝我々〟の水準の合理的決定をその人々が自分の決定として引き受ける、という受苦の場面を私たちが目の当たりにするからだ。決意にいたる葛藤を思って涙するのは、私たちが、「死にたくないのに死なせる力」を振るう〝我々〟の側――犠牲の見返りを受け取る側――に立っていることに気づかされるからである。

52. 大国間の権力闘争に私たちは飽き飽きしている。近代国家の権力にもうんざりしている。それでも、ひとたび戦争が起れば、国家は国民を招集して戦場に送り込む。プーチンの代表するロシアの国家意志がイルクーツクの若者をウクライナに送り、ゼレンスキーの代表するウクライナの国家意志がキーウの父親を家族から引き離して持ち場に留まらせる。国家と、戦争と、人々の犠牲の連鎖に、私たちは十分うんざりしているのだが、戦争が始まってしまえば、依然として〝私〟ではなく〝我々〟の側に、人々を死なせる権力の側に立つ自分を見出す結果になる。なぜこうなってしまうのか。自問しても間に合わない。

53. 戦争において私たちが勇敢な人々に涙するのは、その人々の犠牲の見返りを受け取る側に自分がいるという事実のゆえである。私たちは、〝私〟を犠牲にする〝我々〟の側に立っている。私たちは、だから、〝私〟を裏切る自分自身を泣くのである。

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