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久しぶりに彼女の夢を見た

当時のように屈託なく笑い合った感覚が、目が覚めてもしばらくそこに残っていた。彼女は私にとって特別な存在だった。


最近観たクィア映画『ユンヒへ』を思い出す。互いに想いを抱きながらも別れを選んだレズビアンのカップルの、別れから20年以上が経過した後を描いた作品である。ジュンはかつての恋人・ユンヒを夢に見るたび彼女に手紙を書く。しかしそれは実際にユンヒの元に届くことはない、はずだった。ジュンの叔母であるマサコがその手紙をジュンに伏せてポストに投函するところから、この物語は始まる。

昨日あなたの夢を見た
たまにあなたの夢を見た日は、あなたに手紙を書いたわ

私の場合はどうだろう。他の友達になら躊躇いなく伝えられるそれを、私は彼女に伝えられるだろうか?「あなたの夢を見た」としたためた手紙を、彼女に送ることができるだろうか?ジュンと同じく、私もきっと彼女にそれを送ることはできない。


彼女と一緒にいた高校生の頃、私は恋愛が趣味だった(専門分野は片思い)。惚れっぽい私はほとんど切れ目なく誰かに恋をしていた。人生最高で最大の片思いもしたし、今思えば馬鹿みたいだと思うような恋もした。純粋にときめいたり、駆け引きを楽しんだりした。その対象は、男性ばかりだった。だから当時は特に疑問は感じなかった。

でも、最近よく考える。私の彼女への感情は、紛れもなく友情であったと言えるだろうか。絶対に恋愛ではないと言い切れるだろうか。

私は基本的に記憶力が悪い。過去に自分の身に起こったイベントをほとんど覚えていない。でも、彼女とのことは別だ。友人の友人として初めて互いを認めたとき、彼女が教室の前の黒板で絵しりとりをしていたこと。球技大会のとき、ジャージを交換して着ていたこと。一緒に食べようと思って注文した宅配ピザ屋からの電話が授業中に掛かってきて焦ったこと。普通に一冊ずつ買えばいいのに、赤本を半分に切って交代で使っていたこと。昼休みに初めてバドミントンをしたときのこと。彼女とのことはほんの些細なことでも詳細に思い出すことができる。

高校時代恋人のいなかった私たちは、ともに同世代よりも早く結婚した。彼女の旦那さんと会ったこともあるが、偶然彼と私が2人になったときに言われた言葉も忘れられない。「○○さん(彼女)付き合いの良い方じゃないから、高校の友達に会うことなんてないんだよね。これからも仲良くしてやってね。」

私は何もかもを彼女に開示していた。その反面、私は彼女のことを何も知らなかった。だからどこか恐れる気持ちがずっとあった。私は彼女のことが大好きだった。特別に大好きだった。でも彼女は私のことを本当はどう思っていたのだろう、と。実際の彼女の言葉ではないけれど、彼のその言葉は私にとって泣きそうなぐらい嬉しいものだった。そして同時に敗北感もあった。


「同性 好きかも」と検索窓に入れてみる。開いたページを見ると「相手を独占したいと思いますか?」とある。あの頃の私は、間違いなく彼女を独占したかった。彼女の好きなものは何でも好きになった。彼女のことを一番分かっている存在でありたかった。離れたくなくてクラスが替わっても毎日会いに行った。次いで「相手に性的な欲求を抱きますか?」とある。10年ほど前に書かれたものだからかな。今の私は恋愛感情と性的欲求が必ずしも紐づくものではないと知っている。

noteで見かけてやってみたanone,の診断結果は、そんな今の私の迷いをそのまま反映したような結果だった。

クォイロマンティック「この感情は恋か友情か?」

実際に恋愛をしているとき、そう考えたことはなかったから、厳密に言えば私はクォイロマンティックではないのだと思うけれど。恋愛をしなくなった私は、もしかしたら恋愛をしなくなったから尚更、恋愛と友情の境界線を引きかねている。


さまざまな記事を読む中で以下のような文章に出会った。

 恋愛感情または性的興奮が誰に向かうのかを示す性的指向は、ゲイやレズビアンだけが持っているのではない。異性愛(ストレート)も立派な性的指向だ。性的指向を一本の線で表し、一方に100パーセント異性にしか惹(ひ)かれない人、もう一方に100パーセント同性にしか惹かれない人を置くとしよう。自分は異性愛者だという人も、高校時代、素敵な同性の先輩に淡い恋心を抱いた経験があるかもしれない。ある人は、同性とキスぐらいならできると思っているかもしれない。逆に、同性と手をつなぐと考えただけで虫唾(むしず)が走るという人もいるだろう。異性愛者と言っても、同性に対する意識の色合いが濃い人、薄い人など一人一人違っている。
 こうしてみると、同性愛者と異性愛者は、いわば地続きの関係になっているのが分かるだろう。私たちに、その多様な色合いを作る一人ひとりの人権を尊重する気持ちがあれば、差別や偏見が入り込む余地はないはずだ。

セクシュアリティを言葉で明確に定義しなくても良いのだなと、これを読んで改めて思った。セクシュアリティについて特に悩みを持たなかった私は、あえて言葉で表すならばシスジェンダーでヘテロセクシュアルなのだと思う。でもその言葉に囚われる必要もない。そして彼女とのことを考えていた今の私だからこそ、「性の在り方はグラデーションである」という言葉を自分ごととして捉えられるように思う。


私の彼女への感情が友情であろうと恋愛であろうと、それはきっと大きな問題ではない。それを一般的な名前で呼ばなくても良い。ただ私にとって彼女への愛は特別なものだったし、今も特別だ。その事実をこれからも大切にしたい。それで良いと思った。

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