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人魚の尾を縫われる

 波の音。海鳥の声。目を閉じて、わたしは一歩、足を踏み出そうとした。

「単に死ぬのはもったいないよ」

 突然、のんびりとした声がして、全身がびくりとこわばった。目を開けて振り返ると、見知らぬ青年が立っている。若いのに白髪で、薄い目鼻立ちは鋭利な刃物のよう。全身から漂ういかにも怪しい雰囲気に、我知らず肌が粟立った。

 わたしは高校の制服姿のまま崖っぷちに立っていて、まさにここから落ちようとしていたところだった。これは止められたのだろうか。でも、「死ぬな」ではない……

「単に、死ぬ、ですか」
「うん。君は今の君のままで死ぬつもりかい? それは命がもったいないよ。君の身体も心も、何の意味も成さないまま終わりを告げることになる」

 青年は全身黒っぽい詰め襟の服装をしていた。初夏の真っ昼間だというのに、暑くないんだろうか。

「さあ、おいで。僕なら君に生きる意味をあげられる。新しい人生とも言えるかもしれないね」

 こんな、見るからに怪しい人。でも、わたしの心は揺れていた。

「知らない人についていってはだめ」――これは母の言葉だ。まだ幼い頃に言われた言葉。そして今はもう、わたしに関心をなくされた。

「いじめられていました」

 見ず知らずの人なのに、気づけばわたしは打ち明けていた。

「先生への連絡帳にSOSを出したら、無視されました。母にも父にも言えませんでした。わたしより優れた弟にも……」
「だから終わらせたかったのかい」

 青年の目が三日月のように細められる。ゆっくり、こちらに近づいて、手を伸ばす。

「いいよ。終わらせよう。君はこの世の君として生きることをやめる。そして新たに、僕のために生きてほしい」

 彼のために?
 彼なら、わたしをいじめないだろうか。理不尽な暴力もなく、同じ空間にいながら冷たく無視するでもなく、温かく迎え入れてくれるというのだろうか。
 こんなの絶対だめだと、理性ではわかっている。でもわたしはそれを握りつぶした。どうせ死ぬなら騙されてからでも遅くない。

「お願いします」

 わたしは青年についていった。黒光りする長細い車の後部座席に乗せられる。
 車が発進し、穏やかな振動が足と背に伝わってくる。窓はカーテンが閉じられていて、どこを走っているのかはわからない。

「これは……誘拐になりますか」
「まあ、見ようによってはそうかもしれないね。でも心配いらないよ。誰にもわからないから」

 青年がわたしの隣で歌うように言う。運転席には、紺の制服を着た中年の男の人が座って車を動かしている。でもフロント部分が見えないように、前と後ろの席の間には木目模様の仕切りがされていた。

 そうしてたどり着いたのは、深い森の奥深く。途中で眠っていたのでどれほど時が経ったのか……頭上高く、木々の隙間から見える空は赤黒い色をしていた。鳥の声すらしないほど静寂が辺りを包んでいる。そして、緑の景色にそぐわない、黒い石づくりの豪邸が目の前にそびえていた。

「ようこそ、僕の屋敷へ」

 青年がわたしの手を取って、屋敷の中へ導く。

「さあ、これから少し忙しいよ。といっても君は身体を綺麗にして、美味しいものを食べて、ゆっくり眠るだけだ。眠っている間にすべて終わるからね」

 一体何をされるというのだろう。でも、関係ない。苦しみや痛み、悲しみがないのなら、何をされたっていいのだ。

   ***

 波に揺蕩う海月のように、わたしの意識は揺られている。

「気分はどうだい」

 優しい青年の声がわたしの意識に波紋を落とした。目を開けると、透明な壁と湾曲した景色が見えた。人の部屋だ。壁の向こうで彼が立ち、にこやかに笑っている。

 わたしは全身水に浸かっていた。なんだかふわふわした心地だ。さっきまで死のうとしていたのが嘘みたいに、何も感じない。

 立ち上がろうとしたが足に力が入らなかった。ふと見ると二本あった両の脚が一つに縫い合わされ、虹色に輝く鱗にびっしりと覆われている。上半身は虹色の薄布が巻かれているのみだ。

「これは……」
「新しい君だよ。ようやく成功した……嬉しいよ」

 透き通るような冷たい水と砂浜。散りばめられた宝石のような色とりどりの珊瑚たち。それを囲う巨大な鉢の外側に、豪奢なソファとベッドがある。そうか、ここは彼の部屋なのだ。

「ずっと大切にするからね、愛しい君……そうだ、新しい名前をあげなくちゃ……ここで君を鑑賞しながら考えようか」

 青年はソファに腰掛け、ワインを片手にわたしを眺める。できたばかりの尾をくねらせ、不器用に泳ぐわたしの姿を、本当に、ただ愛おしそうに。

 ――ここには、苦しみも痛みも悲しみもない。

 彼の笑みに呼応するように、わたしも笑みをこぼしていた。幸福のアクアリウム……ここが今日からわたしの棲家。彼に愛されながら生きていく。

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