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向こう側とこちら側   福島へ行って感じたこと

3月11日、あの日のこと


あの日、TVの画面から信じられない光景を見て、すぐに福島、相馬市にいる友人に連絡しました。
連絡が取れたのは2日後、幸いご家族も皆避難出来ているとのこと。
彼女は、総合病院の看護師長で、堅牢な病院の建物は大丈夫だが、ボイラーが壊れ、暖房が効かないとのこと。
病院にカイロを送ろうと、私も友人に呼びかけ、私の先の先の先の知らない人まで輪が広がりました。
その時必要な物を聞きながら、手作りのパウンドケーキを入れる人もいて、人の温かさ、
つながることの力の大きさを体感しました。

そして福島へ訪問

その後、やりとりを続けていましたが、やはり顔を見たいと思い、6月に福島に訪問しました。
当時は、まだ原発事故の影響で放射能の危険があると止める人もいましたが、彼女はそこで生活しているんだから。
20年ぶりに会った彼女は、変わらぬ笑顔で迎えてくれました。

沿岸部を車で通りましたが、壊滅的な景色
津波の力をこの目で見ました。
そして、ものすごい異臭。
いろんなものが、まだまだだ混沌とこんがらがっている。

彼女の自宅は高台にあり、津波の被害は無かったのですが、2ブロック先の住宅街に大きな船が突き刺さっているというシュールな世界。

ご自宅に上がらせてもらうと、3才と4才の彼女の姪甥がくったくのない表情で、私の名前を呼んで迎えてくれました。妹さんのお子さんです。
妹さんは、原発のある南相馬市に住んでみえて、実家に避難していたのです。
数年後に、この妹さんはガンで亡くなりました。
原発の影響があったのではないか…。

翌日は、ボランティアに行きました。
午前中は、避難所で生活している方に家具や日用雑貨等の支援物資を配る仕事です。
場所は公園でした。
時間前から、行列が出来てました。

その公園の隣にはテニスコートがあり、そこでテニスをしている人たちがみえました。
もちろん、被災から3ヶ月、スポーツを楽しむ日常も戻って来ている頃ですが、隣り合わせの構図に、違和感というか、そこを分けるものはなんなんだろうと思ってしまいました。

被災の状況も、津波が来たところと免れたところでは、壊滅状況と一見日常と、線を引いたように分けられてみえました。

運と呼んでいいのか、なんなのか。
そういうことってあるな。
自分がどちら側に行くかわからない。
どちら側にいても、粛々とそれを受け止めて生きていくしかない。

午後のボランティアは、津波で流されたアルバムを洗って、写真をきれいにする作業。
いろんな人のいろんな生活が見えて、
胸が詰まります。

本当にいろんなことがおこるけど

あの震災を思えば、私今の心の波立ちは比べようもないことだし、比べる対象でもないけれど、
事の大小問わず、その時その時は、それが精一杯で、自分に出来ることをやって時間が過ぎていくことで、やがて答えが出るのかな、と思います。

あらためて、被災された皆様が、今後も穏やかなお気持ちで暮らせることを願っております。

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