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コメント欄から(2)

記事のコメント欄から色々思うことがあり、  
こんな記事を書いてみました。  

信仰と実践の違い、と言うか 
祈りと実践の違いについて。 

基本が技術屋なので「神」は信じません。 
品質管理を長く行っており、 
上司や先輩からこのように言われて育ってきました。 

「神」に祈って不具合が減るのか!
「神」に祈って事故が減るのか!
「人」が努力して、初めて不具合は減るし、事故は減る。

自分が製造していたものは大量生産していた
部品や基板やワイヤーハーネスなど
神がサイコロを振ったからなのか、自然の摂理なのか、
100万個の部品などを製造すると、
5個ぐらいは不具合品が出来てしまいます。

その100万個に5個の不具合は、零には出来ませんが、
「人の努力」によって2~3個は減らせます。 
それは本当に血反吐を吐き、床をなめるように、工程を見直し、
作業者の体調管理も考慮して、初めて達成できます。

所詮は「人」と「人」ですよね。
スリランカでは、
キリスト教徒も、ヒンディー教徒も、仏教徒も、
みんな同じように、人知の及ばない海などでの災難には、神に祈ります。

祈る神が異なろうとも、人の営みに違いがあるわけではありません。
でも、本当はみんなが色々、お金や知恵を出し合って、
海の気象を把握したり、船の構造を改善したりすれば、
事故は零にはならなくても、減らせるのは間違いありません。

だからこそ、人なんだと思っています。

祈ったり、嘆いたりする暇があるのなら、
動け! Move! Move! 
台湾の地震でもそうですが、祈る暇があるなら、
一円でも募金する。
Move! Move! Move! 
ともかく、動け! その先にこそ、本来の姿があると思います。
考える暇があるなら、とりあえず動く。
交通事故を見たら、祈るのではなく、救急に電話する。
それが人の基本であると思います。

それが信仰より大事なことではないでしょうか。

仏教やキリスト教の初期の教えを調べると、
祈るより、行動、つまり実践することに重きを置いています。

祈ることは、後の弟子たちにより進めらてきました。
ナザレのイエスにしろ、ブッダにしろ、生きている間は
自分を信じなさいとは言っていません。
イエスは愛するという行為をしなさいと言うだけで、
ブッダは悟りはそこにあるのだから感じなさいと言うだけです。

別に信仰や瞑想を否定しているのではないのです。
もともと、キリスト教も仏教も、
死や病などの人間として避けられない運命が迫ったとき、
どうやってそれを乗り越えるかと言う
考え方や行動、実践を教えていたのですよねぇ。

なので実践こそが宗教の肝じゃないかと考えます。
実行の伴わない信仰はちょっと違うかなぁと思います。

困った時こそ、神頼みですが、
その神さまは、祈りなさいとは言っていないのですよね。
ナザレのイエスが言うのは神の愛を信じて「神を愛しなさい」ですし、
ブッダが言うのは、「悟りはそこにあるのだから、見なさい」です。

どちらも古い文献によると、同じ内容を色々な例えで語っていますが、
それぞれのその時のその土地の状況も把握しないと、
意味が分かり難くなっています。

瞑想は信仰ではなくて、実践です。
瞑想は祈りではなくて、行動です。
瞑想は今の世の中のアンガーマネジメントと何ら変わることはありません。

祈りと言う言葉の定義は
「世界の安寧や、他者への想いを願い込めること。
利他の精神。
自分の中の神と繋がること。
神など神格化されたものに対して、何かの実現を願うこと。」で、
祈りには実践が含まれません。
瞑想と言う言葉の定義は
「心と体の統合に焦点を当て、心を落ち着かせ、
健康全般を増進させるために行われる
さまざまな実践技法のこと」と、瞑想は実践です。

まぁ、定義がなんだと言う話ではありますが、
長く生きている分、他人の死にもたくさん関係してきました。 
差別や貧困などもたくさん経験し、見てきました。
それでも、信仰で世の中が良くなっていない現実があります。

少なくとも、パレスチナの人々がアラーに毎日5回も祈っていますが、
戦争はなくなりません。

この事実をどう受け止めるのでしょうか?

他人ごとなので、とりあえず祈っておきますか?

動くのが人として正しいのではないかと思います。
取り合えず、他人事でも、出来ることをしましょう。

無理なく、自分の出来る範囲で、自分の出来ることを
少しでも実践する。

それに尽きると思います。 

これこそ仏教でいう善行ですよね。

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