打ち明け話をした話とそれぞれの正しさ

どうも~千夏です。今回は友人との話について書きます。

自分は友人関係に恵まれている方で、喋るのが下手、特技はない割には友人がいます。挨拶レベルなら30人はこえます。
そこそこ喋るよって人は10人強くらいですかね。
大学特有の浅い関係を深めるのはなかなか至難の業ですが、広く浅く、ならばわりと多いです。

今回は今年の夏に出会ったある友人とのランチについて書きます。
彼女とするのは主に趣味の話か授業関連の話です。割と移動しながら話すのですがなんと満員電車の中でも喋ってます笑

そんな彼女との会話は非常に速く進みます。早口で次々に色んな話題になります。
彼女と話すうちに最近の自分は雑談でどもることが少ないということがわかりました。
吃音の調子が悪くても彼女と話している時はかなり症状がおさまっています。
出会った頃はとても吃音の調子がよく喋り倒していました。今も多分そうです。
昨日から少しその自分の状態が変わり(難発が酷くてごまかしが効かない)そろそろ吃音のことをゆっくり打ち明けるタイミングだと思い、その話をしたくてランチに誘いました。

たいていの子にはさらりと吃音のことを自己紹介で告げるのでこのような形で吃音について話すのは初めてでした。


できるだけ早く言うようにしていますが、
初めて会ったときに意気投合し様々ことを話すうちに打ち明けるタイミングをのがしてしまいました。

自分は運の良いことに吃音の調子の良い頃に新たな人と出会うことが多いので自己紹介がスムーズにできればあまり気づかれることはありません。

ことばの教室に通っていた頃の吃音をオープンにしたほうが良いという考えと周りの理解によって吃音を隠す習慣はついていないため早めに話した方が色々と都合が良いだろうと考えていました。

隠さないのは言い換えることに慣れていないというのが理由の一つです。

常につっかえることはないものの挨拶や相槌などには少しだけ支障が出ているので、それなりに会っている人には話そうと決めています。
吃音だと告げるのには割とオープンな方だとは思います。でも誰でも彼でも言うわけではないし、かなり慎重に人とタイミングは選んでいるのでタイミングを逃すこともあるし勘違いされることも避けられません。

今まで数秒待てば吃音がない人と99%同じような会話ができると思っていました。

でもそのたった数秒のせいでできないこともあるし、時間を食うという現実はやはりあります。

会釈だけで声を発さずに挨拶することがあるということ、吃音によって何か自分のとの間で問題や気になることがあれば教えてほしいことを主に伝えました。
伝えた理由として挨拶ができないことによる勘違いを防止するためだとのことも伝えました。
挨拶をしないのは機嫌が悪かったり、愛想がつかしたりしているわけではないと伝えることで
相手にとっても誤解をせずに済むというメリットがあると思うのです。

このことを伝えた友人は話してくれてありがとうと言ってくれました。
しっかり話したからか「そうなんだ」以外の返答があり少し驚きました。
今までは「そうなんだ」と返ってくるパターンが最も多かったのです。

☆         ☆         ☆

ここまで書いて寝かせてしまった記事ですが、続きを書きます。単に吃音があると告げるだけでなく、こういう場面があって困っていると伝えるのは初めてのことでした。緊張もしたけれど彼女になら言ってよかったなーと思います。
ランチをした友人との関係は特に変わりなく続いています。


         ○



ここからのほうが長いのでここから先は時間があって興味がある方にだけ見て欲しいです。
慎重に伝えたいからこそ読むときには慎重に読んでほしいです。

誰にでも伝えるようにしてはいないので、
「そんなに慌てなくていいから」「ゆっくりしゃべれば」という言葉をかけられることもたびたびあります。
グループ学習や発表のない授業でわざわざ伝えることは少ないです。

伝えることを「カミングアウト」と言うメディアでよく見かける表現は好きではないので打ち明け話としました。

昔は打ち明けるとすら思っていなくて絵が下手なんだよね~と同じ感覚で言えたのですが、からかわれることより誤解されることが増えた今ではそうもいきません。

伝えることと同じくらい伝えないことにもリスクがあると思っていますが、どちらが良い(と感じる)のかはその時その時で違います。

この記事を書くとき少しいつもより慎重になりました。
自分は別に伝えることが正しいよと言いたいわけではなかったからです。

接する相手や自分が楽になると思える選択を選び取るのがベストで、言うかどうかは使い分けるようにしています。

言うタイミングに失敗して、トラブルになったこともあります。
言わないでいたせいで吃音を知らない人がからかい、その後ノート越しのやり取りで打ち明けたところ相手に強い罪悪感を持たせてしまったことに気づきました。

ネットにも知らないでからかってしまったことへの罪悪感を抱いている人が多くいることを知り、もっと早く言えば違ったかもしれないと思うようになりました。

安易なからかいは良くないし、ちょっと冗談のつもりで口にしたことが実は障害や病気によるものだったということはザラにあります。(そして自分はその冗談を言う側になって後悔した経験も何度かあります)
だから安易に言えない冗談と言ってもいいものを自分の中で分ける必要があるなと思っています。

でも、知らないことが壁ならば、知らないのだから仕方ないという思いもあって知っているのにからかう人と比べればそんなに苦しくないと自分は感じます。

伝えた上で誤解されるのと伝えてなくて誤解されるのだとダメージがまるで違うのです。
だから伝えないことにもメリットはあります。

扉を開けたりしめたりするという言葉をどこかで聞きましたがそれで良いんだと今は思っています。

小学生時代、言葉の教室の先生に吃音を伝えることを強く勧められ伝えないことを悪だと思っていました。勧める理由は伝えたほうが楽で、言わないでいるとどんどん言っちゃいけないという気持ちになって苦しくなるからだそうです。
一理あるし間違ってはいないけれど、親しくない人に伝えるのはすごく大変でした。
吃音のグループ学習がことばの教室で開かれたときには言い換えなんかしないでいい、笑う人なんて笑うほうが悪いんだから気にするな
なんて高学年代表で話をするときに言っていました。
中学に入ると
ごまかしたり、話すのをやめたり、という時期もありました。
言わないでいたせいでからかわれ、からかわれたのをきっかけに先生から伝えてもらうとさらに先生やからかった子との間に溝を感じるようになりました。

言い換えをして楽だなーと思い、どもらないしゃべり方を考えて話すようになった時期もあります。その結果かわいいねと言われたり、え、その単語だと話に合わないよね?おかしくない?という指摘を受けたり。

例えば、自分にはバス通学をしていたことがあるのでバスの話をよく校内の人とする機会がありました。

ところが、乗り物のバスが言えず〇〇(〇に入るのは固有名詞)バスというようにしてたら、▲▲バスでも✕✕バスでも一緒だから「バス」って言えばいいじゃんと言われました。そして消化できないモヤモヤが増えていきました。


言い換えは良くないと思っていたところから言い換えるのが楽に変わり、それもやっぱり楽じゃない…と葛藤がずっとありました。

でも言い換えてもいいし、気にしてもいい、自分にとって良いものを使い分けた今が一番楽です。

別にどれが楽かなんて決めつけなくていい、たくさんあっていいんですよね。

いろんなことをどれが正しいのかと迷っていたのですがそれは自分が決めていいことだし別にひとつにしぼることもない。
だから周りにこれが正しいじゃんとひとつ選択肢を拾って言ってはいけないし、自分も強要されたらスルーしたり、決めつけないでと伝えます。
あ、もちろんですが選択肢をたくさん用意したほうが楽になるということ自体自分の持論で選択肢をひとつに決めたほうが良いという意見もあって良いと思います。
長くなりましたが、今回はこんなところで終わります。