友だちと「大変だね」と「一段高いところに立って同情する」こと

どうも~千夏です。

今回は大学の入学式でかつて言われた大変だねという言葉について書きます。


私には吃音という言語障害があります。そのことを伝えないと誤解を招いたり、相手を傷つけてしまったりすることが多くあります。そのため私は一度きりで終わりにならない関係の方と出会うとさらっと伝えることにしています。


高校までは大抵待ってもらうのみで「そうなんだ」より先の反応はありませんでした。

ところが初めて大学で出会った子はこう言いました。



「へぇ大変なんだね。」



私は驚きました。大変だと思ったことはこれまであまりありませんでしたし予想外の反応だったからです。


私にとって言葉が出ないことは出ることと同程度当然のことです。だから症状自体が大変だと思ったことはありません。

大変なのは相手に誤解をされたり、決めつけられたり、というような他人とのズレが起きることと

自分でもやらないことや練習不足のいいわけにしてしまうことという2点くらいです。
そしてそのような要因となるものは吃音に限ったことではないし誰だってある程度持っていると思っています。



私としてはあまり「大変だね」と言われることは嬉しくありません。どちらかと言えば同情されているみたいで嫌なんです。

では言ってほしくないと相手に告げるかというとそれはしません。

私が大変だと思わないのは独特な吃音に対する価値観があることや強いトラウマを持たずにすんだことが挙げられます。

それに加えて割と受け入れているからというのもあると思います。

「言わないでほしい」と伝えてしまうことは相手の思いを否定したと受け取られかねません。心からポロッと出た本音だとすると別に言ってはいけないことを口走ったとは言えないのです。



明らかに私を下に見ていると感じる場合は別ですが、大抵の子は優しくて、つい同情してしまったのだろうと推測できる場合が多くあります。

本当に大変な経験をしている場合もきっとあるので、ある意味感想としては全く間違っていないんですよね。


タイトルにある「一段高いところに立って同情する」という言葉は小説「雪のなまえ」から取りました。


主人公である雪乃の父、航平が精神疾患を持つ友達のお母さんについて話す時、主人公に投げかけるセリフです。







「当のお母さんも家族も、かわいそうだ。だけどね、雪乃。これは間違えないでほしいんだけど、気持ちを寄り添わせて、きっとどんなにか辛いだろうな、何とか力になってあげられたらな、って思うのはかまわない。でも、自分のほうが一段高いところに立って同情するのは、俺はちょっと違うと思う」

雪のなまえ 村山由佳

自分とは異なる苦労の経験がある人を苦労人と呼ぶことがあります。でもそれは自分の知らない世界だから大変だろうと決めつけていて苦労人だと思ってしまっているのかもしれません。

もちろん「苦労に寄り添う」ことは悪いことではありません。ただそれが自分を上げて相手をさげるという行為になっていないかどうかには注意が必要だなと思います。