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文学理論ノート

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実作(おもに小説の)を読むことから、文学理論へと出発するためのノートです。
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【期間限定無料】ノートがそこにある理由──アゴタ・クリストフ『悪童日記』(堀茂樹訳、ハヤカワepi文庫)

「文學理論ノート」、前回の続きです。 またもカヴァーでネタバレ  やがて、久しぶりに再会した母は死に、戦争が終わり、祖母も息を引き取るが、国境には地雷原があり、越えることができない。  ある日父が会いにくる。  ふたりは国境を越えたがっている父を騙して、父に地雷を踏ませる。  ふたりのうちのかたほうがその死体を踏んで国境を安全に越え、もうひとりが家に戻るところで『悪童日記』は終わります。  またネタバレかよ! という話ですが、こないだのフリオ・コルタサル『遊戯の終わり』

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【期間限定無料】発話の自己言及+特殊な一人称──アゴタ・クリストフ『悪童日記』(堀茂樹訳、ハヤカワepi文庫)

 「文学理論ノート」でこんど取り上げるのは、アゴタ・クリストフのデビュー作である長篇小説『悪童日記』(1986。堀茂樹訳、ハヤカワepi文庫)です。 Agota KRISTOF, Le Grand Cahier, 1986. 『悪童日記』をあくまで独立・完結したものとして読む  この小説は、これに続く『ふたりの証拠』(1988)、『第三の嘘』(1991)(いずれも堀茂樹訳、ハヤカワepi文庫)とともに3部作を構成しています。  作者に、この作品をもともとこのような構成に

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【期間限定無料】こんな終わりかたをした理由は?──フリオ・コルタサル「続いている公園」(5)

 コルタサルの「続いている公園」についての記事、最終回です。  前々回に書いたように、「続いている公園」の結末で狙われるターゲットは、 かなりの高確率で、 (a)その小説を読んでいる〈彼〉当人 だけど、 (b)〈彼〉が読んでいる小説のなかに出てくる、たまたま彼と同じような状況で本を読んでいる一登場人物 である可能性を100%排除することはできない なわけです。  ということは、ですね。 どうしてこんな終わりかたをしているのか?  冒頭の、農場経営者である〈彼〉は、「続い

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【期間限定無料】〈彼〉は殺害されたのか?──フリオ・コルタサル「続いている公園」(4)

 コルタサルの「続いている公園」についての記事、4回めです。 〈樫の木〉vs.〈ポプラ並木〉?  ところで、「続いている公園」の冒頭の農場経営者の読書場面では、 樫の木の公園に面した静かな書斎で本に戻った。 大窓のむこうでは夕暮れの大気が樫の木の下で戯れている。 と書かれていて、いっぽう結末近く、作中作の暗殺者がターゲットの屋敷に忍び寄る場面では、 あの屋敷に通じるポプラ並木が浮かび上がった。 との記述が見られます。 「〈樫の木〉と〈ポプラ並木〉では木の種類が違う

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【期間限定無料】最後に小説を読んでいるのはだれか?──フリオ・コルタサル「続いている公園」(3)

前回書いたように、僕ら読者は、いわゆる「三人称」小説の作中世界の情報を、その語り手から直接得ることもあれば、作中の視点人物を経由して得ることもあります。  いま話題にしている「続いている公園」のばあい、作中世界だけでなく作中作の世界の情報も、作中で小説を読んでいる農場経営者である〈彼〉の視点で入手しているわけです。  そして「語り」と「視点」は分けて考えよう、という話で前回は終わっていました。 視点人物の入れ子 前回も書いたのですが、「続いている公園」の語りは単独の視点

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【期間限定無料】「視点」は「語り」ではない──フリオ・コルタサル「続いている公園」(2)

 前回に引き続き、「続いている公園」のお話。 農場経営者は作中世界(および作中作の世界)の情報のソース(視点人物)  さて、前回書いたように、僕ら「続いている公園」の読者は、作中世界の情報を、農場経営者である〈彼〉の視点で入手しています。  当然、作中作である〈小説〉の世界の情報も、作中でその〈小説〉を読んでいる農場経営者である〈彼〉の視点で入手しています。  僕ら読者は作中に出てくる〈小説〉の本文を直接読むことはできず、あくまで農場経営者の読書行為の報告の形でのみ、つま

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【期間限定無料】このあと、読者はどうなった? : フリオ・コルタサル「続いている公園」(木村榮一訳『遊戯の終わり』所収、岩波文庫)

 以前予告していたように、まずはこれ。  アルゼンチンの小説家フリオ・コルタサルの短篇集『遊戯の終わり』(1956)から、掌篇小説「続いている公園」。 Julio CORTÁZAR, "Continuidad de los parques" in Final del juego, 1956.  翻訳でたった2頁程度のお話です。どんな話かというと、  え? 上の画像がネタバレしてる?  ホントだ。カヴァーに思いっきり書いてある。 肘掛け椅子に座って小説を読んでいる男が、ナイ

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小説もコミュニケーションだ。

たまに小説を読む話をします。 この記事は最初のうちだけ「実質」無料ですが、気がついたら有料になってる可能性があります。 ここで書くのは批評でもなんでもありません。 僕はべつに、小説の読み巧者ではない。 そもそも小説なんて自分ができるように読むしかないので、 「俺の読みが正しい、あいつの読みは間違っている」 といったことに、興味がないのです。 むしろ、ふつう程度の(つまり、たいしたことない)頭しかない僕が小説を読むときに、そのたいしたことのない頭がどのように働いているの

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