世界古典文学全集3ヴェーダ_アヴェスター

「月に兎がいる」という説の、もうひとつの由来──「ブラーフマナ文献の散文」(辻直四郎訳、《世界古典文学全集》第3巻『ヴェーダ アヴェスター』所収、筑摩書房)

 先日の中秋の名月、どうでしたか? 僕はヘルシンキにいて、天気がよくなかったので見えませんでした。

 日本には、月に兎がいるという言い伝えがある。

つきのうさぎ 【月の兎】
仏教説話の一つ。『雑宝蔵経』などに説く。帝釈天が狐と猿と兎との誠意を試そうとして、飢渇者に化けて食を乞うたところ、狐と猿は利口さを発揮して食物を探してきたが、兎は何も得ることができず、自分の体を焼いて食べてもらおうとしたため、帝釈天はその真心をほめ、兎を月世界へ送った、との話。中国から日本へも伝えられた。
〔『世界宗教用語大事典』[「月の兎」]〕

 このように説明されることが多い。
 『雑宝蔵経』は2世紀以降に編纂された仏典で、経とついていると僕ら日本人は葬式で読誦するものというイメージがあるが、これは説話集らしい。

 しかしこれ、〈狐と猿と兎〉である必要はなくて、「狸と熊と猫」だっていいわけだし、月ではなくて太陽だってよかったはずだ。
 そもそも仏教説話と言われるものは、民間信仰とか民話を取りこんで成立しているのであって、仏教の教義に由来するわけではない。どうにも腑に落ちないなあと思っていた。

 言語学者・インド古典学者の辻直四郎がブラーフマナ文献(ब्राह्मणम् brāhmaṇa、梵書)に含まれる神話・伝説からいくつかを選んで、「ブラーフマナ散文の挿話」として訳出したものを読んでいたら、べつの説明があった。

世界古典文学全集3ヴェーダ アヴェスター

 ブラーフマナ文献は、ヴェーダのシュルティ(天啓文書)の一部門で、紀元前800年前後を中心に成立した祭儀書。
 訳者によれば、煩瑣な祭式神学が無味乾燥に記載されたものとのことだが、そのなかにも神話や伝説の断片が含まれているらしい。

月の中にあるものは兎(2)である。何となれば、月は万物を支配する(原語シャース)からである。
〔「月の中の兎の物語(ジャイミニーヤ・ブラーフマナ 一・二八)」、145頁上段〕
(2) 原語シャシャ、月はシャシン「兎を持つ者」とも呼ばれる。 〔同頁下段訳註〕

 この説によると、どうも「支配する」(シャース)を蝶番にした、ただの語呂合わせだという話。
〈月はシャシン「兎を持つ者」とも呼ばれる〉
って、じゃあふだんは月はなんと呼んでるのかというと、光るという語に由来するチャンドラ(戦捺羅)らしい。

 ということで、お子さんに「月に兎が住んでるってなんのこと?」と問われたら、
「サンスクリットの語呂合わせらしいよ」
という説明もあるらしいけれど、これもまた民間語源説(フォークエティモロジー)なのかもしれません。

民間語源(みんかんごげん、英語: folk etymology、ドイツ語: Volksetymologie)とは、ある語の由来について、言語学的な根拠がないものをいう。研究者や書籍が民間伝承(フォークロア)を採録してゆく際に伝承者の言説を無批判に採録した結果、権威づけられ、有力な反論があるにもかかわらず定着してしまったものが多く、中には明確な誤りだと分かっているものもある。研究者が独自に多言語間での音韻の類似に着目して提案した仮説である場合も多く、これには語呂合わせに近いものも多い。

(つづく)

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