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【通史】平安時代〈22〉院政の開始(4)院政後期は上皇の専制政治

◯天皇の位を退いた白河上皇は、院政と摂関政治のハイブリッド(異種のものの組み合わせること)のような政治形態を採り、堀河天皇の摂政・関白に任じた藤原師実の意向に配慮するように努めました。実際、白河上皇は院庁の人事さえも師実の人選に任せるなど、上皇と摂関家の関係は良好だったといえます。

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◯1094年、藤原師実堀河天皇関白の座を、33歳の嫡男・師通に譲ります。一方の堀河天皇は当時16歳でしたが、若くして優秀だったこともあり、白河上皇から自立して天皇主導の親政を志すようになります。師通も白河上皇の政治介入には批判的であったため、堀河天皇の意思を支持します。平安末期に成立した歴史物語『今鏡』には、師通「おりゐのみかどの門に車たつ様やはある(位を降りた上皇の邸の門に、牛車が立ち並ぶことなどあろうか)」と公言したと書かれています。

◯こうしたことから、白河上皇との間に多少の摩擦が生じることもあったようですが、白河上皇もこの2人に一目を置いていた様子があり、この体制を許容し、深刻な対立に発展することはありませんでした。また、1096年に白河天皇の第一皇女である媞子内親王が21歳の若さでこの世を去ってしまうと、白河上皇は悲しみのあまりこの2日後に出家してしまい、白河法皇となります。媞子内親王は同じく若くして亡くなった最愛の后・賢子との間に授かった皇女で、ひとかたならぬ愛情を注いできました。その溺愛ぶりは尋常ではなく、1087年に同母弟である堀河天皇が8歳で践祚(皇嗣が天皇の地位を受け継ぐこと)した際には、媞子内親王准母とする宣旨(勅令を伝える文書)を下し、さらに堀河天皇の中宮冊立(勅命により皇太子・皇后などを正式に定めること)しました(准母立后)。

准母というのは、「天皇の生母ではない女性が母に擬された場合に用いられる称号」です。堀河天皇の生母である藤原賢子はすでに亡くなっていたため、姉の媞子内親王が母に擬せられたのです。

*これが先例となり、以後、幼年で即位した天皇の生母が死去している場合や、生母が存命だが身分が低すぎる場合などに、准母を定めるようになりました。

◯しかし、准母とするところまでは理解できますが、同母の姉を「中宮」として立后させるなどということは、かつて前例のないことです。白河上皇は媞子内親王をどうしても女性として最高の位につけたかったようです。もちろん帝の同母の姉妹を立后させるなどという前代未聞の事態に廷臣たちは戸惑い反感を覚えましたが、白河上皇の強い意向には逆らうことができませんでした。ただし、当然ながら配偶者(妻)として立后させたわけではありません。このように天皇と配偶関係がなく皇后になった内親王を「尊称皇后」と称します。

◯ところが、その媞子内親王1096年に突然亡くなってしまいます。残酷な運命に悲嘆する白河上皇出家してしまい(以後、白河法皇となる)、政治の世界から離れてしまいました。堀河天皇と関白・藤原師通の若い二人が政治のイニシアチブを取れたのには、こうした背景も関係していたのでした。

◯こうして、かつてのような天皇と藤原氏による政治へと復帰したかのように見えましたが、しかし、その体制もわずか5年で終わりを告げることになります。1099年師通が38歳の若さで急逝してしまったからです。師通の後を受けて師通の嫡男・忠実が急遽、関白(当初は若すぎるため内覧)を引き継ぐことになりますが、忠実は当時弱冠22歳、権大納言から大臣を経ずして一躍、摂関という要職に就くことになったのです。あまりに政治的経験が不足していました。

◯これまでの摂関としての最年少は、曽祖父・頼通の26歳での摂政就任です。ただし、頼通は就任から10年近く、父・道長の後見を受けました。それに引き換え、忠実頼通よりももっと若く、有力な後見人もいない。その立場は非常に脆弱なものだったといえます。

◯しかも、当時、平安京では延暦寺などの大寺社による強訴(強硬な態度で相手に訴えかける行動)が相次いでおり、政治能力の低い忠実ではとても対応しきれませんでした。

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忠実に堀河天皇を補佐する力はないため、堀河天皇忠実は政治的な諸問題について老練な政治手腕をもつ白河法皇に相談しなければならなくなります。このような状況の中、院政を支持する勢力から白河法皇が政治を行うべきという声が次々と挙がります。こうして時代の要請もあり、白河法皇は政治の世界に復帰して本格的な院政を始め、絶対的な君主として君臨することになり、「治天の君」と呼ばれるようになります。院政というと、白河が当初から明確な意図を持っていて、そのために上皇に退いたという認識を持つ人が多いですが、実際にはそうではなく、時代の変化の中に応じて成立した制度なのです。

◯政治的権限を掌握した白河法皇は、まず朝廷の人事(叙位・除目)に介入します。側近である院近臣太政官(中央の最高行政機関)に送り込み、朝廷組織を掌握しました。具体的には、上皇が希望する人事について書いた「任人折紙」という文書を、天皇や摂政に渡して人事を指揮します。これはあくまで非公式の私的文書ですが、白河法皇の直接的な意志を無視するわけにはいきませんので、これが重んじられました。

◯院近臣は、もともとは受領階級の中・下級貴族でしたが、こうして昇進を続け、上級の貴族へと躍進していきます。藤原道長・頼通の時代には藤原北家の人間が三位以上の要職の7割以上を占めていました(道長が摂政に就いた1016年には78%)。しかし、忠実の時代には46%まで落ち込んでいます。

◯また、白河上皇自らが直接下す私的命令である「院宣」院庁(院政の実務を行う官僚機構)を通じて出す命令である院庁下文」という命令文書を用いて政治を行いました。こうして院政体制が強化されていくと、朝廷の公卿たちも天皇からの命令よりも「院宣」院庁下文」に重きを置くようになります。そして、院庁に朝廷の公卿たちが集まって会議を行い、上皇の決済を仰いで政事を処理することが、宮中で行われる政治よりも優先するようになっていきます。このようにして、天皇の権力は形骸化し、それに伴って天皇権力に付随することで権勢を誇った藤原摂関家も衰退の一途を辿るわけです。

藤原宗忠という人物が残した『中右記』という日記がありますが、1108年に書かれた記述に「今太上天皇の威儀を思ふに、已に人主に同じ。就中、わが上皇已に専政主也」(白河法皇の権威はすでに君主である天皇に等しい。あるいはそれ以上の専制君主の域に達している)とあります。

「知行国制」という力業の土地制度変革

◯こうして院近臣(中・下級貴族だった受領階級の貴族)たちが朝廷の要職に就くようになると、その収入源を確保してやる必要が出てきます。というのも、この時代の朝廷には官僚(上級貴族)たちに給与を支給する能力がなかったからです。

◯本来、律令制のもとでは農民に一定の土地(口分田)を与えて耕作させ、その収穫の一部を朝廷に税として納めさせる班田収授法が採られていましたが、それが機能している間は、位階や官職に応じて朝廷から官僚(上級貴族)たちに給与が支給されていました。

*この給与制度を封戸といいます。三位以上の貴族(公卿または上達部ともいう)に支給される位封、大納言以上の官職に支給される職封がありました。 その他の在京の職事官(律令官人)に支給される俸禄を季禄といいました。

◯しかし、平安時代中期以降、律令制が機能しなくなると、上級貴族や律令官人に支払われてきた給与が滞るようになり、班田収授法に支えられてきた給与体系が完全に形骸化してしまいます。すると、貴族の生活は荘園を持たなければ成り立たなくなります。そこで寄進地系荘園を自身に集積することによって収入を確保してきたわけです。

◯ところが、白河法皇は天皇の位から上皇に退いて以降、自らが建立した法勝寺をはじめとする大寺院をいわばトンネル会社(中間利益を取るだけに設立された、実在性の乏しい名目上の会社)として使い、寺院に荘園を寄進させて寺院の所領とすることで私有地(荘園)を蓄積することを可能にしました。これによって院政の経済的基盤を確立させました。

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◯白河上皇による院政が始まる以前は(正確には、本格化するのは法皇になってからですが)、朝廷内の絶対的権力者として君臨していた摂関家・藤原氏を中心とした上級貴族たちに荘園の寄進が集中しましたが、院政期の最高権力者上皇ですから、白河上皇に土地が集まるようになるのは当然です。しかし、白河上皇に荘園の寄進が集中するようになると、困るのは朝廷の要職を占める上級貴族たちです。

◯上級貴族の生活を潤わせる最も簡単な方法は、彼らを受領に任じてやることです。この時代、最も私腹を肥やすことができたのは地方の徴税請負人である受領です。受領は4年の任期中に任地の民から税を搾れるだけ搾ります。そして決められた税を朝廷へ送る義務さえ果たせば、残りは自らの懐に入れることができました。

◯ところが、律令制では官位相当制の原則があり、各位階に対応する官職を与えなければなりませんでした。受領は五位以下の位階を持つ、いわゆる中・下級貴族向けの官職でした。だから上級貴族の仲間入りを果たした院近臣たちは身分上、受領になることができなくなってしまったわけです。

◯そこで、彼らの収入確保のために白河上皇が朝廷に採用させたのが「知行国制」です。これは、上級貴族に一国の支配権を与え、その国からの収益を自分の収入として得させる制度です。「知行」というのは本来、「職務を執行する」という意味ですが、そこからやがて「職務の執行によって得られる権益を自分のものにする」という意味まで内包する言葉として使われるようになりました。つまり、知行国制というのは、「支配権を与えられた国における一切の税収(貢納物)を自分のものにしてもよい」という制度です。これまで公領(国衙領)から得られた税収(官物)は朝廷に納めなければなりませんでしたが、それも自分の収入にしてよいということなので、実質的に国を「領地」として与えてしまうのと同じです。知行国を与えられた上級貴族を「知行国主」といい、彼らには任国の受領を推薦する権利も与えられました。「知行国主」は、自身の子弟などの近親者を受領に推薦します。しかし、推薦を受けて受領になった彼らが直接任国に赴任して実務にあたるわけではありません。彼らは都に住み続け、現地には代理人である目代を派遣して支配を行わせました。こうして、白河法皇は強引なやり方で、上級貴族となった院近臣を「知行国主」とし、その子息・血縁者を受領とさせることで「受領の権益」を与えることができるシステムを作り上げたわけです。こうして院政期に一気に知行国制が広がりました。

◯知行国と同様に、上皇(法皇)あるいは皇族関係者が特定の国の国司の推薦権を得る場合もありました。この場合、その特定の国は「院分国」(院宮分国)と呼ばれます。

北面の武士

◯さらに、軍事面では僧兵の武力や神仏の威を借りて強訴を繰り返す大寺院に対抗するために、院の警護や強訴の鎮圧にあたる「北面の武士」を院の直属軍として設置しました。武士の詰所が院御所の北側にあったことからこう呼ばれます。なお、武士の詰所のことを特に「武者所」と呼びます。北面武士の筆頭となったのが「桓武平氏」平正盛忠盛父子です。平正盛は伊賀国(伊賀=現在の三重県)の荘園を上皇に寄進したことで白河上皇に重用されるようになりました。忠盛は平清盛の祖父にあたります。これ以降、天皇家は平氏を重用するようになり、これが平氏の出世に後々関わることになります。

堀河天皇と藤原忠実のその後

◯さて、一時は天皇親政を目指していた堀河天皇でしたが、白河法皇が政治の全権を掌握して「治天の君」と称されようになると、一方で自身は天皇であるのに「皇太子のようだ」と皮肉られるようになり、次第に政治への関心を失い、政務を完全に白河法皇に委ねてしまうようになります。その後、堀河天皇の興味は趣味の世界に移っていき、才能を発揮していた和歌や管弦に没頭するようになりましたが、生来病弱であったため、在位のまま1107年に29歳の若さで崩御してしまいます。そして、堀河天皇の第一皇子の宗仁親王がわずか5歳にして鳥羽天皇として即位します。

◯また、引き続き忠実が摂政の地位を与えられますが、立場の弱さは相変わらずで、白河法皇は忠実を自らの意向を天皇に伝えるパイプ役としてしか考えていませんでした。当時の慣例では、太上天皇(上皇)は内裏に立ち入ることができなかったためです。また、1113年藤原氏の氏寺である興福寺が起こした永久の強訴では、忠実藤原氏の氏長者として鎮静のための使者を送って興福寺の説得を試みますが、強訴を制止することはできず、北面の武士が上洛を目指す興福寺の大衆と衝突して流血の惨事が起こるといった失態をさらし、面目丸つぶれとなります。その後、忠実は娘の勲子の鳥羽天皇への入内を巡って白河法皇の逆鱗に触れたことで内覧を停止されてしまい、これによって事実上、関白を罷免されます(保安元年の政変)。こうして、忠実は「運が尽きた」と語り、1120年に隠居してしまいます。

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