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【通史】平安時代〈4〉藤原北家の興隆

前回見たように、薬子の変藤原式家が没落し、代わって台頭したのが嵯峨天皇の腹心として初代蔵人頭に任命された藤原冬嗣藤原北家です。天皇の側近中の側近ですから、当然発言力を持つようになり、躍進を遂げることになったのです。

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①藤原良房の時代

◯その藤原冬嗣の子が藤原良房です。

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良房も父である冬嗣に引き続いて嵯峨上皇からの深い信任を受けており、天皇を退いた後も朝廷で強い影響力を持っていた嵯峨上皇の厚いバックアップを受けて急速な昇進を遂げ、正三位(大納言相当)にまで上り詰めていきました。

◯嵯峨天皇の後、淳和天皇仁明天皇と続きますが、仁明天皇には良房の妹の順子が嫁いでおり、二人の間には皇子として道康親王が生まれていました。一方で淳和上皇にも恒貞親王という名前の皇子がいました。実は、すでに仁明天皇の次は淳和上皇の子である恒貞親王が次の天皇になることが決まっていました。というのは、嵯峨上皇と淳和天皇との間で、「今後は自分たちの子孫が交互で天皇になるようにしよう」という申し合わせをしていたからです。その約束に基づいて淳和天皇の後を継いだのが嵯峨上皇の子である仁明天皇です。すると次は淳和上皇の子である恒貞親王が皇位を継承することになります。

◯しかし、藤原氏北家の発展を目指す良房としては、自分と血のつながりのある道康親王を天皇にしたいと考えるようになります。そのためには、どうにかして恒貞親王を廃太子する必要があったのです。

①-(1)842年:承和の変

◯842年7月15日、順風満帆であった良房のキャリアを支えた嵯峨上皇が崩御すると、そのわずか2日後、朝廷が「伴健岑橘逸勢らが、嵯峨上皇の崩御に伴う混乱に乗じて皇太子の恒貞親王を担ぎ上げて謀反(反乱)を企てている」として突然二人を逮捕するという事件が起こります。しかし、実はこれは藤原良房の陰謀でした。意図的にそのような噂を流して朝廷を動かしたのです。そして有罪の証拠がなかったにもかかわらず、そのまますぐに伴健岑は隠岐・橘逸勢は伊豆に配流されます。そして同時に、皇太子であった恒貞親王も事件とは無関係とされながらも責任を問われ、その地位を廃されることになりました。そして、この事件の翌月、良房の策略通り、道康親王が皇太子になり、次の文徳天皇になります。これが藤原氏北家による最初の他氏排斥事件として知られる「承和の変」です。

承和の変によってライバル貴族であった伴氏や橘氏を排斥し、自分の甥に当たる道康親王を皇太子に据えることに成功した藤原良房ですが、彼の野望は自分の甥を天皇にすることではありませんでした。文徳天皇が東宮(道康親王)の頃に、自分の娘の明子を嫁がせており、天皇即位の年に惟仁親王が誕生しました。最終的には自分の孫である惟仁親王を天皇にして盤石の権力基盤を確立することが目的だったのです。そのためにまず甥である道康親王を天皇にしたかったのです。

◯そして、惟仁親王がまだ9歳という年齢のときに、子供は天皇になれないという慣例を無視しして強引に清和天皇(第56代、位858~876年)として即位させます。当然政務を執ることはできないので、外祖父(母方の祖父)である良房が摂政(天皇が女性であったり幼少であったりしたときに、天皇に代わって政務を執る役職)として天皇の代わりに政治を行うことを目論んだのです。しかし、これまで皇族以外の人間が摂政になった例はありませんでした。このとき良房は太政大臣、いわば内閣総理大臣にまで上り詰めていましたが、彼が摂政になることに対しては左大臣の源信、大納言の伴善男が反対しました。たとえ太政大臣とはいえ、有力閣僚の二人の反対を押し切って強引に摂政になるのは好ましくない。

①-(2)866年:応天門の変

◯しかし、ここで良房にとって幸運な出来事が起こります。それが「応天門の変」(866年)です。実は良房の摂政就任に反対する源信伴善男は政敵として敵対関係にありました。たまたま良房の摂政就任に対して反対で意見が一致したにすぎず、それを除けば、互いに排斥したいと考えていたのです。

「応天門の変」は、866年3月、天皇の居所「大内裏」にあった正殿「八省院」の正門「応天門」が何者かによって放火され、炎上したことに端を発します。この時の様子は「伴大納言絵巻」に描写されていますが、天皇に危害が及ぶ可能性もあったため朝廷は大騒ぎとなりました。

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◯すぐさま犯人探しが行われますが、この捜査に当たったのが伴善男です。これは、応天門は伴氏が造営したものであり、その管理も伴氏の担当であったためです。そこで管理責任者として朝廷から原因究明を命じられたのです。しかし、実はこの事件の真犯人はなんと伴善男でした。伴善男は自分が捜査を命じられることがわかっていたのです。伴善男は「源信が犯人である」と朝廷に報告しました。すると、伴善男の讒言を受けた朝廷は源信を捕縛します。

◯しかし、太政大臣の藤原良房は、この伴善男の報告を怪しいと感じていました。そこで、源信の処分についてはもっと詳しく調査した上で行うべきであると清和天皇に奏上します。良房の進言によって清和天皇は朝廷より使者を派遣して事件を再調査させた結果、源信の疑いは晴れ無罪となりました。このことで、結局誰による犯行かは不明のままになってしまいました。

◯ところが、事件発生から5ヵ月近くも経った8月、事件の真相が明らかにされます。下級官吏・備中権史生だった大宅鷹取による密告でした。鷹取は、事件当日、応天門の前から伴善男とその子伴中庸そして従者ら数人が走り去ったのを見て、その直後に門が炎上したと申し出ました。目撃していたのにすぐに報告しなかったのは、情報提供をしたことで身に危険が及ぶのを恐れれたからかもしれません。

◯ともあれ、これによって伴善男の調査が始まることになります。善男の従者に対しても厳しい取り調べが行われた結果、耐えかねた従者がついに伴善男とその息子伴中庸が応天門に火を点けたと供述しました。源信を陥れて失脚させるために自作自演の放火を行ったのです。こうして犯行が暴かれた伴善男は伊豆国へ、中庸は隠岐国へ流罪となりました。応天門の変により、古代からの有力貴族であった伴氏は没落します。

◯源信にかけられた嫌疑は晴れたものの、犯人として疑われたことをきっかけに精神を病み、ほどなく亡くなってしまいます。事件がなければ、左大臣であった源信が、のちに政治の中心となり、権力を強めたとも言われています。

◯こうして、奇しくも応天門の変によって良房の摂政就任の障壁であった伴善男源信が政界から消えることとなりました。良房は、人臣として初めて「摂政」に命じられて名実ともに政治の実権を掌握することになります。これ以後、摂政の地位は明治維新に至るまで藤原氏が独占することとなります。

②藤原基経の時代

◯藤原良房の次に実権を握ったのは藤原基経です。基経は良房の弟の長良の子で、良房の養子に迎え入れられます。長良は娘の高子を清和天皇に嫁がせました。そしてその間に生まれた貞明親王は父清和天皇と同じく9歳にして譲位され、陽成天皇となります。そして基経が摂政となって権力を振るいました。

◯しかし、乱暴者であった陽成天皇は成長すると言うことを聞かなくなり、基経との関係が悪化します。ここで基経は考えます。摂政は天皇が元服するまでは代わりに政務を執ることができますが、元服したあとは退かなければなりません。その時に天皇との関係が悪いと思い通りに操ることができなくなってしまいます。そこで基経は陽成天皇が元服する前に退位を迫り、55歳と高齢の時康親王を担いで光孝天皇として即位させてしまいます。時康親王をは仁明天皇(陽成天皇の曽祖父)の皇子です。本人もまさか自分に白羽の矢が立つとは思ってもいませんでしたから、政治権力に無欲でした。時康親王は小松殿と呼ばれる邸に住んで管絃や読書を好み、暮らしぶりも身なりもたいへん質素だったと伝えられます。だからこそ選ばれたのです。光孝天皇は基経の思惑通り、政治に対して無関心であったため、自らの政務をすべて基経に任せました。成人後の天皇の補佐を行う、実質的な「関白」の地位に就くことになったのです。

②-(1)887年:「阿衡の紛議」

◯高齢だった光孝天皇は即位後わずか3年で亡くなり、かわりにその子である宇多天皇が21歳で即位しました。基経はこの宇多天皇に正式に「関白」という地位に任命されます。しかし、若い天皇に対して主導権を握ろうとしたのでしょう。このときの詔に「基経を阿衡とする」と書いてあったことに基経は言いがかりをつけます。阿衡というのは中国では「実務を執らない名誉職」という意味で使われる言葉です。これに腹を立てた基経は半年以上にわたって政務を執ることを放棄します。しかし、これまで実質的に基経が天皇の政務を握ってきたため、彼がいないと困ってしまいます。また、宇多天皇にしてみれば、基経がいなければ自分の父親が天皇になれるはずがなく、当然自分も天皇になれなかったわけですから、基経をないがしろにするわけにはいきません。そこで宇多天皇は頭を下げ、基経に政務に戻ってほしいと要請します。これを受けた基経は、要請に従う代わりに、問題となった勅書の執筆者を処分するように要求します。これによって文章博士だった橘広相が処分され、藤原氏の政敵であった橘氏を政治の第一線から蹴落とすことに成功します。これを「阿衡の紛議」と呼びます。

〈今回の内容のまとめ〉

嵯峨天皇(第52代、位809~823年)
淳和天皇(第53代、位823~833年)
 ↳子:恒貞親王 *仁明天皇の次期皇位継承が決まっている
仁明天皇(第54代、位833~850年)*嵯峨上皇の子
 ↳子:道康親王  妃:藤原順子(藤原良房の妹)
842年:承和の変 *藤原氏北家による最初の他氏排斥事件
(背景)藤原良房が甥の道康親王を次期皇位継承者にしたいと考える
(事件)伴健岑橘逸勢恒貞親王と謀反を企てているとして逮捕
(結果)伴健岑隠岐橘逸勢伊豆に配流、恒貞親王は廃太子
    ↳道康親王が皇太子となり、文徳天皇となる
文徳天皇(第55代、位850~858年)
 ↳子:惟仁親王  妃:藤原明子(藤原良房の娘)
清和天皇(第56代、位858~876年) ←惟仁親王が9歳で即位
 ↳外祖父である良房が摂政になることを画策
 ↳左大臣の源信、大納言の伴善男が反対
866年:応天門の変 「伴大納言絵巻」に描写
(背景)源信伴善男の対立
(事件)大内裏にあった応天門伴善男が放火、源信の仕業とする
(結果)大宅鷹取による密告により伴善男の犯行が判明
    ↳伴善男伊豆国へ流罪となり、源信も程なく死去
    ↳摂政就任の障壁であった両氏が政界から消え、良房摂政
陽成天皇(第57代、位876~884年)←貞明親王が9歳で即位
                *母は藤原長良(良房の弟)の娘高子
 ↳良房の養子藤原基経摂政となって権力を振るうが基経との関係が悪化
光孝天皇(第58代、位884~887年)←高齢(55歳)の時康親王が即位
                *仁明天皇(陽成天皇の曽祖父)の皇子
 ↳政治に対して無関心であったため、政務をすべて基経に任せる
宇多天皇(第59代、位887~897年)
887年:「阿衡の紛議」 *阿衡「実務を執らない名誉職」
(背景)正式に「関白」に任命されるも勅書の表記に基経が立腹、政務放棄
(結果)文章博士橘広相が処分される

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