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【通史】平安時代〈20〉院政の開始(3)院政前期は摂関政治とのハイブリッド

◯前回見たように、「院政」が始まるようになった直接的なきっかけは、上皇が自分の子・孫へと皇位を確実に継承させたかったことにあります。

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院政前期は摂関政治とのハイブリッド

◯一般的には、白河上皇は摂関家に対抗するために上皇が天皇の父として実権を行使する「院政」を敷いたと理解されることが多いですが、それは完全に正しいとは言えません。白河上皇は藤原氏を摂関の地位から排除しようと思っていたわけではないからです。

◯その証拠に、白河上皇は、亡き后・賢子の父であり、そして堀河天皇からすると外祖父にあたる藤原師実堀河天皇摂政に任命しています。天皇の外祖父が摂政に就任するのは道長以来です。さらに、堀河天皇の成人後には関白に就任します。すなわち、白河上皇は摂関政治への回帰につながる行動を取っているのです。

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白河上皇はなぜ摂関を置いたのか

◯というのも、平城太上天皇の変(薬子の変)以来、退位した上皇は内裏には立ち入らない原則があり、上皇は内裏内部のことについては摂関を代理にして自らの意思を反映させる方法を取らざるを得なかったからです。

◯このあたりは藤原氏も賢く、白河上皇にうまく取り入って摂関家としての地位を守っていきました。というのも、天皇家の家長が次期天皇の指名権を握っているのと同様に、摂関の任命権も天皇家の家長が握っているからです。院政に反発して上皇と衝突するよりも、上皇に摂関に任命してもらって権威づけを行い、上皇と天皇の調停役として院政という枠組みの中で地位を守っていくほうが賢明だと考えたわけです。

◯たとえば、仏教を深く信仰していた白河上皇は、まだ天皇として在位していた1075年、平安京の外れにあった白河(現左京区岡崎)の地に法勝寺という御願寺(人々が神仏に願い事を行う寺社)を建立していますが、この土地はもともと、藤原良房がここに白河殿(白河別業)と呼ばれた別荘地を造営して以降、代々の藤原摂関家当主(氏長者)により継承されてきたという来歴のある土地でした。桜の名勝として知られ、観桜の会をはじめとして、詩会・蹴鞠・競馬などの行事が催され、天皇の行幸もしばしば行われたといいます。藤原師実は藤原氏にとって由緒ある土地を白河天皇に献上したのです。そして、白河天皇はこの地に寺院を造ることを決め、建立されたのが法勝寺です。初代別当(寺務を総括した僧)には、師実の実兄である覚円を置きました。1077年に落慶供養(寺院・神社などの新築・改築の工事が完了したことを祝って行なう儀式)が執り行われたあとも、長期にわたって堂舎(社寺の建物)が増築されます。1083年には、白河天皇の権威を象徴する壮麗な八角九重塔が完成し、その高さは80メートル以上にも及んだそうです。

*ちなみに、現存する日本の木造建築物として最高の高さを誇るのが東寺(教王護国寺)五重塔ですが、その高さは約57メートルですので、八角九重塔がいかに壮大なスケールの塔だったかが想像できます。)

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法勝寺は1185年の大地震(文治地震)によって大半が倒壊、かろうじて倒壊を免れた八角九重塔も1208年に落雷によって焼失してしまいましたので、現在は法勝寺があったことを示す石標が建てられています。

◯なお、奈良東大寺の大仏殿と同じく毘盧遮那仏を本尊とする法勝寺は、護国のための国家的寺院として位置づけられ、様々な国家的仏事がこの寺で行われました。そして、このあと法勝寺の近くには、およそ70年間かけて歴代の天皇や中宮の発願によって「勝」の字がつく寺院が次々と建立されます。
 ①法勝寺(1077年):白河天皇
 ②尊勝寺
(1102年):堀河天皇
 ③最勝寺
(1118年):鳥羽天皇
 ④円勝寺
(1128年):藤原璋子(院号:待賢門院)*鳥羽天皇中宮
 ⑤成勝寺
(1139年):崇徳天皇
 ⑥延勝寺
(1149年):近衛天皇
これらを6つをまとめて「六勝寺」と呼びます。

◯さて、このように藤原師実は白河上皇が天皇として在位中からうまく立ち回り、上皇に退いた後も院御所の造営に貢献するなど、協調関係を築いていきました。その結果、白河天皇は上皇に退いて「院政」を敷くにあたり、院庁の人事を師実に一任し、朝廷内での政策決定においても堀河天皇摂政である師実と相談して進めていきました。さらに、堀河天皇が成人後は関白師実と堀河天皇が協議して政策を決定し、白河上皇に相談を行わないことも珍しくなかったといいます。すなわち、院政開始期というのは院政と摂関政治のハイブリッド(異種のものの組み合わせること)のような政治形態が採られていたといえます。

院政の経済的基盤となった六勝寺

◯なお、この法勝寺をはじめとする六勝寺は、院政の経済的基盤を支える大きな財源となっていきます。どういうことか説明します。

白河上皇の父である後三条天皇(在位:1068~1072年)は、延久の荘園整理令を発令して公領を圧迫する違法な荘園の整理を大々的に行いました。記録荘園券契所を設けて荘園の申請書類を調べ直させ、手続きに不備や疑問のある荘園は認可を取り消したわけです。寄進地系荘園不輸・不入の権で既得権益を獲得していた藤原氏などの有力貴族や大寺院の荘園に大きくメスを入れたことはすでに説明しましたが、たしかにこれによって朝廷の国家財政の強化は図られました。しかし、これはあくまで朝廷の財源であって、院の財源ではありません。院政の経済的基盤は別に整備しなければいけません。

◯この時代の経済的基盤というのはもちろん「土地」(荘園)のことです。しかし、律令制における大原則は「公地公民」です。建前上であれ全ての土地は天皇のもので、土地の私有は認められません。つまり、いくら位を退いたとはいえ、上皇が土地を私有することを認めると、天皇家の家長自ら律令制を否定してしまうことになります。

◯そこで、白河上皇は自らが建立した法勝寺をはじめとする大寺院を、いわばトンネル会社(中間利益を取るだけに設立された、実在性の乏しい名目上の会社)として使うという法の抜け穴を見つけました。寺院に荘園を寄進させ、寺院の所領とすることにしたのです。しかし、寺院の財産を支配するのは創建者たる上皇ですから、寺院の荘園はすなわち上皇の荘園にほかなりません。こうして、宗教法人を隠れ蓑にすることで私有地(荘園)を蓄積することを可能にしたわけです。法勝寺に続いて続々と白河の地に寺院が建立されていったのにはそうした背景があったのです。

◯京都の有力者としてもっとも高位に君臨するのは上皇です。そのため、上皇のもとには全国から多くの荘園が寄進されるようになりました。こうして上皇は莫大な財産を築き、それを側近の貴族に下賜(高貴の人が、身分の低い人に物を与えること)することで権力を強めていくことになります。

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