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【通史】平安時代〈23〉鳥羽上皇の院政期(前編)

鳥羽天皇、5歳で即位

鳥羽天皇堀河天皇藤原苡子の第1皇子(宗仁親王)として生まれました。生まれてすぐに母の苡子が亡くなったので、祖父である白河法皇の下に引き取られて養育され、生後7ヵ月で立太子されます。

1107年、父・堀河天皇が亡くなると、宗仁親王はわずか5歳鳥羽天皇(第74代、在位1107~1123)として即位します。しかし、鳥羽天皇が幼かったことと、摂政であった藤原忠実「治天の君」として君臨する白河法皇に逆らえない状態だったので、実際の政務は白河法皇が執り続けました。鳥羽天皇は白河法皇が健在のうちは政治の表舞台に出ることはありません。

1117年、成人した鳥羽天皇は、白河法皇の養女である藤原璋子(のちの待賢門院)を中宮に迎えます。鳥羽天皇は15歳、璋子は17歳でした。

性的奔放の魔性の美女、藤原璋子

◯しかし、実はこの璋子、ちょっと曰く付きの女性でした。

璋子の父親は藤原公実という公卿(正二位、権大納言)で、白河法皇とは従兄弟の関係でした。公実は藤原氏の閑院流と呼ばれる家柄で、閑院流の流れを組む血筋は、美男美女であることで有名だったといわれます。

璋子は1101年に、この藤原公実の最後の娘として誕生しました。美男子だった藤原公実の容貌を受け継いで、璋子も幼い頃から大変な美少女だったそうです。しかし、1107年、彼女が7歳の時に藤原公実が亡くなってしまいます。そこで白河法皇が璋子を自分の養女として引き取りました。白河法皇は璋子を溺愛しました。その様子を『今鏡』という歴史物語では次のように記述しています。

をさなくては、白河院の御ふところに御足さしいれて、ひるも御殿ごもりたれば、殿などまゐらせ給ひたるにも、「ここずちなき事の侍りて、え自づから申さず」などといらへてぞおはしましける。
(現代語訳)幼くて、白河院の御ふところに御足を入れて昼も寝ていらしたので、殿などが参上された時にも、白河院は「今は動けないので、直接話せない」などとお答えになられた。

◯「をさなくては」の主語は璋子で、「殿」というのは関白・藤原忠実です。「殿ごもり」とは「身分の高い人が就寝すること」を敬っていう語で、「ずちなし」は「なす術がなくどうしようもない」という意味です。

◯璋子が幼い頃に白河法皇の懐に足を差しいれて添い寝していた、そんな折に関白・藤原忠実が用事があって訪ねてきました。しかし、白河法皇は、今は璋子がすやすやと昼寝をしていて動けないから話はできないと言って、取り次ぎの女房を挟んで対応したというのです。これは璋子への溺愛ぶりを示すエピソードですが、忠実に対する扱いのひどさも浮き彫りになる逸話です。

養父・白河法皇によって性の手解き

◯そして、白洲次郎の妻で随筆家の白洲正子が執筆した『西行』によれば、璋子が初潮を迎えた13歳の時に、当時61歳の白河法皇はとうとう手を出してしまいます。養女を自分の寵姫(気に入りのめかけ)の一人にしてしまったのです。養父から性の手解きを受けたこの異常な体験が璋子の道を狂わせることになったのか、はたまた生来備わっていた性質だったのかはわかりませんが、璋子性的に奔放な魔性の女へと成長してしまい、数多くの男たちと浮名を流すことになります。

童子との密通

◯たとえば、璋子が14歳の時に大病を患った際に、白河法皇は病気平癒の祈祷で有名だった園城寺の権律師(律師とは僧正・僧都に次ぐ僧侶としての官職)・増賢を御所へ招きます。その時に増賢に一人の童子(寺院へ入ってまだ剃髪せずに、仏典の読み方などを習いながら雑役に従事する少年)が随行してきました。大変な美少年だったようで、璋子はその童子に惹かれた璋子は部屋に引き入れ、密通してしまいます。そのことを知った白河法皇は怒り、増賢童子の二人の御所への出入り差し止めた上で、童子を難波(現在の大阪)へ転出させました。

琴の師匠、藤原季通との密通

◯また、璋子備後守(備後=現在の広島県)・藤原季通に琴の稽古をつけてもらっていました。季通は白河法皇の寵臣であった大納言・藤原宗通の三男で、琵琶、笛、箏などの管弦の名手として知られ、白河法皇から篤い信任を受けて璋子の師匠になりました。師弟関係はやがて恋愛関係へと発展し、1116年璋子季通と関係を持ちます。璋子が16歳、季通は22歳でした。璋子季通の関係はすぐに噂となって広まり、白河法皇の耳にも入ります。法皇は、季通の御所への出入りを差し止めて地方へ左遷し、法皇が生きている間季通を昇進させることはありませんでした。

◯ちなみに、2012年に放送されたNHK大河ドラマ『平清盛』では、伊東四朗演じる白河法皇に、檀れい演じる璋子が抱かれるというシーンが描かれました。

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◯このように、白河法皇の寵愛を受けながらも、数々の男を手玉に取って翻弄し、不幸な境遇へと突き落としていく璋子の身持ちの悪さは、院の内外で知らぬ者はいないほど有名であったようです。

璋子の将来を案じる白河法皇

◯白河法皇は璋子を心から愛していた一方で、親として娘の幸せな結婚も望みます。平安時代の貴族女性の平均結婚年齢は13〜15歳くらいでしたので、そろそろ璋子に適当な相手を見つけてあげなくてはいけないと、璋子15歳になった頃から熱心に適当な婿を探し始めました。白河法皇としても、もうすでに還暦を回っていましたので(平安時代の貴族の平均寿命は男性が50歳、女性が40歳と推定されています)、自分が亡きあとに有力な後ろ盾となって璋子を庇護してくれる人物を用意しておかなければならないという考えもあったのかもしれません(実際には76歳まで生きますが)。

関白・藤原忠実の嫡男・忠通との婚姻を計画

◯白河法皇が最初に目をつけたのは関白・藤原忠実の嫡男・忠通でした。白河法皇は忠実に対して、忠実の娘である勲子(のちに泰子と改名)を鳥羽天皇に入内させる代わりに、交換条件として璋子忠通に娶らせるという縁談をもちかけます。忠実がこの縁談を応諾すれば、忠実は将来の天皇の外祖父に、また忠通は外伯叔父になれる可能性が生まれ、忠実の家筋による摂関の地位の世襲が確実になります。そして璋子は摂関の妻として安泰の地位が保証されます。まさに当事者全員にとって利益のある縁談といえました。しかし、宮中では璋子は性的奔放であるという醜聞が飛び交っていたので、さすがのイエスマン・忠実も璋子の縁談には難色を示し、言を左右にして遠回しに拒み続けたため破談してしまいます。これによって忠実は白河法皇の不興を買うこととなりました。

*その他、璋子閑院流(藤原公季の子孫)の藤原公実の子であることも、忠実がこの縁談を快く思わなかった理由の一つでした。鳥羽天皇が誕生した際、御堂流(藤原道長の子孫)の忠実は、閑院流公実に摂関の地位を奪われそうになるという危機を迎えたことがありました。この時はなんとか忠実が摂関の地位を守ることができましたが、こうした経緯もあり自分を蹴落とそうとしてきた相手の娘を自分の嫡男の妻として迎え入れることに抵抗を示したのです。

孫の鳥羽天皇のもとに入内させることに

◯その後、白河法皇は忠通以外にも縁談話を持ちかけたようですが、やはり璋子にまつわる不埒な噂が原因でうまくいかなかったようです。

◯すると、当初の構想を諦めた白河法皇は、上述したように、孫の鳥羽天皇のもとに璋子を入内させることにしたのです。鳥羽天皇からしたら祖父の愛人を押しつけられた格好になります。1117年、鳥羽天皇は15歳、璋子は17歳でした。

璋子の入内が決まったことを知った関白・忠実は、その日記「殿暦」に、備後守・季通や増賢の童子との密通など璋子に様々な乱淫の噂があることは世間に周知のことであり、そのような「乱行の人」の入内は将来取り返しのつかぬことになると書き残しています。

崇徳天皇は白河法皇の子供?

◯やがて、入内から2年後の1119年、璋子は第一皇子となる顕仁親王(後の崇徳天皇)を出産しました。しかし、当初からその父親は鳥羽天皇ではなく、白河法皇ではないかという噂が囁かれました。これを「白河落胤説」といいます。「落胤」とは「父親に認知されない庶子、私生児」です。

◯というのも、鳥羽天皇のもとに入内した後の璋子でしたが、当初、年下の鳥羽天皇を子供扱いし、寝所をともにすることを拒み続けたといいます。そしてたびたび実家すなわち法皇のもと里帰りを繰り返していたようです。つまり、白河法皇と璋子の関係は鳥羽天皇に嫁いだ後も続いていたのです。

角田文衛(1913-2008)というた歴史学者が、『待賢門院璋子の生涯 椒庭秘抄』という著書の中で「白河落胤説」の論証を試みました。生理周期に基づいて排卵日を特定する「オギノ式」という方法(1924年に産婦人科医・荻野久作が発表)を用いて璋子の排卵日を推定しました。

◯璋子の生理周期は璋子の侍女が書き残した記録から分かります。というのも、平安時代、「血」と「死」は「穢れ」(忌まわしく思われる不浄な状態)とされ、とりわけ宮中では何よりも忌避されていました。ですから、出血を伴う女性の月経や出産は「穢れ」とされ、生理中の女性たちは宮中を退出して実家に里帰りするか、別の建物の一室などに隔離されるなどしました。侍女はこうしたことまで事細かに記録を残していたのです。

◯そこで、生理周期に基づいて排卵日を割り出したところ、璋子が崇徳天皇を受胎した日は、白河法皇のもとに帰っていた期間と重なるのです。もちろん、これはあくまで推測ですので、確実にそうだとは言い切れない面もありますが、実際に当時の人々も、また鳥羽天皇自身も顕仁親王は白河法皇の子供だと疑っていました。なお、NHKの大河ドラマ「平清盛」でも「白河落胤説」が採用されていました。

◯こうした背景から、表向きは「鳥羽天皇」と「璋子」の第一皇子として育てられますが、鳥羽天皇は顕仁親王を「叔父子」(祖父の子)と呼び、冷淡な態度を取って愛情を与えなかったといいます。

*鳥羽天皇と璋子の間には、第一皇子である顕仁親王(崇徳天皇)を含めて、5男2女の7人の子供が誕生します。しかし、中には白河法皇の子も含まれているのではないかといわれています。特に崇徳天皇は鳥羽天皇に終生疎んじられ、鳥羽天皇(当時法皇)の崩御の際に崇徳天皇(当時上皇)が見舞いに訪れた際も、対面を拒んだ上に側近に自身の遺体を見せないよう言い残したと伝えられています。

白河法皇がなくなった後、璋子が後ろ盾を失って、しだいに得子(なりこ)に鳥羽上皇の「妻」の座を奪われていったことには、異論ないと思われます。

保安元年の政変

◯鳥羽天皇としては祖父の白河法皇から押し付けられた愛人、しかも入内後も関係を持ち続けている疑いが強い璋子を心から愛せるはずがありません。次第に自分の意思で新しい妻を入内させたいと考えるようになります。そんな気持ちを察して接近を試みたのが関白・忠実です。

1120年、白河法皇が熊野御幸(「御幸」とは上皇・法皇・女院の外出。天皇の外出は「行幸」といいます)に出ている間に、忠実は一度は白河法皇との間で破談になった勲子の入内の話を持ちかけます。

*紀伊国南部(現在の和歌山県の南東部)に位置する「熊野三山」(熊野にある熊野本宮大社熊野速玉大社熊野那智大社の3つの大社の総称)に参詣することを「熊野詣」といいます。「熊野三山」はそれぞれ20~40㎞の距離を隔てて「熊野古道」と呼ばれる参詣道(世界遺産)によって結ばれています。
 険しい崖や深い谷、滝や奇岩怪石などが原始のままに残り、巨木が鬱蒼と生い茂る熊野は、まるで俗界と隔てた異界の地です。力強い生命力に溢れ、日本古来の自然崇拝(自然物に神が宿る)に根ざした神道の信仰によって、古く人知を超えた神威のある聖域とされてきました。やがて仏教が伝来すると、神道と仏教が融合し(これを「神仏習合」といいます)、神道の八百万の神々の本体は仏であるという本地垂迹説が広く受け入れられるようになります。仏がもともとの本体であり、人々を救うために仮に神の姿をとって現われたのだという考え方です(本体である仏を本地といい、仮に神となって現われることを垂迹といいます)。
 そうして生まれたのが「熊野権現信仰」(熊野信仰)です。「権現」とは、「仮に現われた」という意味です。「熊野三山」に祀られている神は、それぞれ阿弥陀如来、薬師如来、千手観音を本地とするとされ、熊野の神々は「熊野権現」(熊野三所権現)と呼ばれるようになりました。神々と仏がともにおわす浄土であると考えられた「熊野三山」を参拝することが流行したのは、阿弥陀仏を唱えれば極楽浄土に行けるという浄土信仰が広がった11世紀ごろからです。

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忠実から勲子の入内を打診された鳥羽天皇は前向きに返答しましたが、この話が白河法皇に入ると、これが白河法皇の逆鱗に触れます。以前、入内の勧めを断りながら、今さら忠実が璋子のライバルとなる勲子を再度入内させようと工作したことに激怒した白河法皇は、ただちに忠実の内覧を停止しました。天皇に奏上される文書を見る職務を剥奪されることは事実上関白を罷免されることに等しかいことでした。これを「保安元年の政変」といいます。この処分を受けた忠実は宇治に隠居してしまいます。

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